駒越町の番地
ネットを見ていたところ、「明治前期の地籍図 その1 耕地絵図と壬申地券絵図」(佐々木甚次郎)という論文が載っていた。明治初期に施行された明治政府の地籍事業について詳細にまとめたものである。明治政府というのは全くの寄せ集め集団にありながら、極めて短時間に次々と新しい政策を打ち出した。中には失敗したものもあるが、それでもよくこれだけ短期間に近代化への政策を出せたものだと感心する。その一つに近代的税収の基本となる地租改正を明治六年に行なった。それまで各地は大名が統治して、農民からは米という現物を徴収していたが、一方、武士については今でいう税はなかった。近代的税収を確立するためには、土地を基本とした税収を早期に確立する必要があり、さらには土地の所有権と自由売買が求められた。全国一斉に土地の測量と評価が行われ、地検が発行された。同時に全ての戸主が姓名と居住地番号、すなわち住所を持つことになった。これにより中央政府は、全国の国民一人一人を把握し、租税や徴兵が可能となった。
現在の住所は、例えば実家でいうと兵庫県尼崎市東難波町A丁目B-Cという具合になる。これは兵庫県というエリアの中の尼崎市というエリア、さらに東難波町というエリアということになり、何丁目何番地何号というのは地域により、例えば中心部(市役所など)に一番近い角を起点として反時計回りに番号を振っていく。弘前市でも明治以降に開発された土地は、こうしたやり方で町名番地が決まっており、例えば弘前市青山5丁目A-Bという場所は新しく開発されたところで言える。逆に江戸時代からある町名は、例えば私の住所、弘前市坂本町14という風に丁や番地、号はつかない。旧市内と呼ばれるところの多くはこうした地名となっている。
古い絵図を見ると、“町”は”丁“と表記されており、これはエリア、面積ではなく、ストリート、線を表す。つまり私の住所の場合、坂本丁通りに沿った場所を坂本町と呼ぶ。道と道の交差点の場所はその家屋の玄関がどちらを向いているかによって住所が変わり、玄関が山下町にあれば住所は山下町となる。間口は5、6間に対して、奥行きは次の通りとの間まで、20-30間あるのが普通である。現在、坂本町の住民は56名だが、江戸時代でも16軒くらいしかない。
以前、現在の弘前市西部、新町地区の明治8年の絵図を見せてもらった。この絵図は地租改定の基本的資料として作成されたものと思われ、弘前で初めて番地が登場した地図である。それまでは町名はあっても番地はなく、どこに誰が住むかは、そこに住む者に聞くしかなかった。この時点で初めて番号、番地が振り当てられた。どのような順序で番地がつけられたかはっきりしなかったが、「明治の地籍図」に一部ヒントが載っている。地所番号の付け方、起点について“従前之地所番号多く紛乱致し候に付、古水帳に不拘其村方辰巳之角を壱番と定め、一字毎に順押に改め可申事”となっており、辰巳(南東)を起点に西北に終わる、検地の原則に基づいて番地が振られた。
それでは実際に弘前市の番地がそのように付けられたか確認してみよう。新町(荒町)はその通りの一番南東にある田村駒吉宅が一番、その前にある西谷三四郎所持家が二番となっている。以下、南に向かい99番地まで順番に番号が振られ、ここから道は北に向かっていく。番号はそのまま続いていくが、誓願寺にぶつかるところ231番地で、道は東におれる。ここで専求寺、龍泉寺を無番地にするか迷ったのか、次の番号は236から始まり、252番地で新町は終わる。西大工町は8番地から始まる変則ではあるが、基本的には南東を起点として番号が振られている。同様に駒越町、平岡町も町の中で最も南東の場所を起点にして番地を振っている。
他の地区はわからないが、明治八年弘前地籍図でも、番地の付け方は、南東を起点に西北で終了する原則にのっといていることがわかった。ただこれはあくまで、古い表記における住居表示であり、その後、道ができたり、火事により、住所表示はかなり変わっている。こうした旧住所で書かれた地図は大変貴重であり、この絵図以外にも、図書館には仲町地区のもあるようなので、順次デジタルで公開してくれれば、歴史研究には大変助かる。
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