2019年8月10日土曜日

遺愛女学校 卒業生



 函館遺愛女学校については、以前このブログで何度か説明させてもらった。安政六年(1859)に日米和親条約により長崎、横浜、神戸、新潟とともに函館が対外貿易港として開港した。それに伴い、ロシア人、フランス人、アメリカ人、イギリス人などが住むようになり、商館もあちこちにできた。外国人が住むようになるとまずできるのは教会で、慶応三年(1867)にフランス人ムニーク神父によりカトリック教会(元町)ができ、さらにロシア正教の伝道活動も開始された。その後、米国メソジスト監督教会からフローラ・ハリス、メルマン・.ハリス宣教師夫妻の函館派遣が決定され、結婚したばかりの若い夫婦は明治七年1月に横浜から函館に到着した。彼らは、米国領事代理を兼任し、熱心に伝道活動を行い、明治十年(1877)には函館教会堂が建てられる。一方、女性の地位向上に強い関心を持つフローラは、自宅で「日日学校」などで女性たちに英語、聖書、手芸などを教えていた。明治九年10月(1876)、夫婦で弘前に旅行し、東奥義塾でイング夫妻と知り合い、ことに東奥義塾の女子部で教育をしていたルーシ夫人とは仲良くなり、函館の女学校の必要性を強く感じるようになった。またフローラは文筆家で、明治九年(1876)には米国メソジスト監督教会婦人外国伝道協会(WFMS)の機関誌に「如何にして婦人を救うべきか」という論文を寄稿したほか、数編の論文を機関誌”Heathen Woman’s Friend”に寄稿した。その後体調を崩し、帰国したが、それに感銘を受けたドイツ在住のライト米国公使夫人から多額の寄付の申し出があった。これを元にして明治十五年(188221日に開校したのは、のちに遺愛女学校となるカロライン・ライト・メモリアルスクールである。教師はアメリカ人女性3名と日本男性2名で、生徒は弘前からの寄宿生6名で始まった。その後、6月には生徒数は約20名(寄宿生16名と数名の通学生)となり、明治十八年には生徒数77名(寄宿生61名、通学生16名)となる。通学生より寄宿生が多いのが特徴で、寄宿生はほぼ弘前出身者で占められていた。これは弘前の東奥義塾女子部が閉鎖され、女子の教育を求めた結果、渡海して函館の女学校に入学した。そのために明治十九年には弘前に来徳女学校が開校し、翌年には弘前遺愛女学校、さらに明治二十二年には弘前女学校として独立する。初期の生徒の多くは弘前からの生徒であったので、弘前女学校の設立により函館遺愛女学校の生徒数は減少しただろう。

 当時の女学校ではカリキュラムを終了した卒業という制度は曖昧であり、函館遺愛女学校の最初の卒業生は明治二十一年(1888)に卒業した珍田みわである。珍田みわは明治の外交官、珍田捨巳の姉で安政元年(1854)生まれであるので、卒業時の年齢は34歳となる。遺愛女学校の開校時に入学したとすれば、28歳で入学し、六年かかり34歳で卒業したことになる。その後、弘前女学校の舎監などをし、晩年は東京の珍田捨巳邸で敬虔なクリスチャンとして過ごした。明治二十三年(1890)の第二回卒業生は、山田(高谷)とく、中野(一色)うめの2名で、山田とくは東奥義塾女子小学部から県立女子師範より遺愛女学校に入学し、卒業後すぐに弘前女学校の教師となり、実業家の高谷貞次郎と結婚後もキリスト教徒として種々の社会事業を行った。兄にはメソジスト牧師の山田源次郎と寅之助がいる。中野うめについてはわからないが、山田とくの従姉妹である。明治二十五年(1892)の第三回の卒業者は11名で、木本(川上)ときわ、竹中ひさ、石塚(山鹿)よし、大和田(萩田)ふみ、(水嶋)とよの5名のほか、鎮西学院の中興の祖、笹森卯一郎の妻、三上(笹森)としも三回生であろう。明治二十七年(1894)の第四回の卒業生には小説家、今東光の母、伊東(今)あや、両角(藤原)おとめ、野田(古澤)こう?、明治二十九年(1896)の第五回卒業生には照井(鹿討)まつ、(美野田)もと、久保(中野)きよ、藤田(山田)とし、(斎藤)しな、八木橋(中村)りか、(金子)とし、(吉田)とみ、(桜庭)、(縄田)、(白鳥)、東福(石澤)やえ、明治三十一年(1898)の第七回卒業生には、中野(小池)まつ、(浅野)まつ、(山本)はな、(渡辺)きよ、藤田(片山)なり、明治三十二年(1899)の第八回卒業生には、(三枝)けん、(羽咋)こう、(西村)せい、(石澤)みどり、藤田(羽多野)さたがいる(以上の卒業生のデータは、山田としの資料をいただいた埼玉在住の方の調査結果による)。

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