山田良政、純三郎のことを書くのも久しぶりである。2007年頃から集中的に書き始めてすでに12年以上が経つ。以前はgoogleで検索してもほとんどヒットしなかったが、最近では良政、純三郎ともウイキペディアにも掲載されようになり、認知が上がったことは嬉しい。それでもまとまった本が少ないため、中国現代史に関心のある一部の人しか知られていないのが実情であろう。映画やテレビで取り上げられれば、さらに人々に知られるのだが。
個人的に一番興味があるのは、中国の南京市、孫文が祀られている中山陵にあった山田良政の碑である。山田兄弟の評伝である「芳醇なる日本人」(結束博治)に“山田良政の碑は、南京、中山陵よりやや離れた丘にあり、楓の高い樹が植えられた楓林と呼ばれる公園のような奥の寺院の入り口に、十数基の革命志士の碑と一緒に祀られている”とある。
さらにそこを訪れた歌人土屋文明の歌に
日本志士山田良政君を悲しみて孫文自ら立てし碑を見つ
中山先生遺骸安置の白き室とともに輝く日に来りあふ
限りなくつづきて丘を上がり来るは中山陵参拝の青少年等
もみぢしてとぶらふ国民革命烈士の霊それを助けし日本志士の墓
こうした記述から、中山陵からそれほど離れていない国民革命軍陣亡将士公墓のある南京霊谷寺周辺や紅葉で有名な栖霞山を調べているが一向に手がかりがない。多くの山田兄弟の資料がある愛知大学に問い合わせるも不明とのことで、さらには南京日本人会にも照合したが、これもわからないという。また中山大学や中国領事館あるいは群馬にある土屋文明記念文学館にも問い合わせしたが返答はない。その後、弘前大学の中国人学者を通じて中国の研究者にも聞いてもらったが、これといった反応はない。さらに戦前の南京市の地図や旅行記に記載はないかとネットで調べているが、これといった資料はない。
土屋文明が南京を訪れたことは間違いないが、そこで山田良政の幻の碑を見たのだろうか。幻の碑から土屋が4つの詩を作ったとは思えず、実際の碑を見て感動した。中国国民党が山田良政の建碑を議決したのは昭和二年(1927)11月4日である。土屋が中国旅行したのは昭和19年であるから、碑が建てられ、南京市が日本軍に占領されても大切に保存されていたようだ。であれば、戦後、どこかの時点で山田良政の碑が破壊、消滅したと見なせる。少なくとも蒋介石が率いる国民党が南京市を支配する1949年まで、碑が破壊することはない。文化大革命では中山陵自体は保護され、破壊を免れたが、付近の寺は宗教はアヘンだというスローガンのもと破壊されていった。南京市でも霊谷寺、栖霞寺などが大きな被害を受けた。その際に国民党関係の墓や記念碑もかなり壊された。おそらくはこの折に山田良政の碑も壊された可能性が高い。“中国の革命・戦争記念碑に関する基礎的調査—広州地域を中心に”(王暁葵)によれば、広州にあった多くの記念碑、墓が文革中に破壊された。文革までは一部は壊されたものもあったが、この狂気の時代に壊されたものが圧倒的に多い。その後、壊された碑は、1980年代以降に修復あるいは再建されたが、中国政府の意向に沿わない碑はそのまま再興されなかった。山田良政の碑については、おそらく日中友好のシンボルとして中国政府で再建は可能と思われるが、写真がなく、場所も特定されていないので、いまだに再建されていないのだろう。何とか、存在の証拠を見つけて、山田兄弟の念願であった、師の孫文と一緒にしてやりたいものである。
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