旧伊東家 床の間 この裏に納戸がある |
旧伊東家、平面図 床の間の裏の納戸(縁側から入る) |
対馬家の前に住んでいた佐藤家の平面図、床の間の裏に納戸がある |
旧岩田家、ここの床の間の裏にも納戸 |
うちの家内が、ニュースで弘前の忍者屋敷の写真を見て、これと同じような小部屋が実家にもあったと言っていた。私が弘前に来た当時、この家に2、3年住んだが、古い家で、おそらく家内の曽祖父が作ったようで、明治初期から中期頃に建てられたものである。昭和になって、増築されたが、母屋は8畳の部屋が3つ並んでいて、土間から出入りするようなっていた。残念なことに十数年前には壊された。
この家の一番奥が仏間になっていて、大きな仏壇と床の間が並んでいた。そして仏間の横には庭に通じる縁側があるが、そこに“ふろ”と呼ばれる長持(衣装ケース)を入れる納戸があった。仏壇と床の間の裏に当たる。幅70cm、奥行き180cmくらいの長持がそこに置かれて着物などが入っていた。家内に言わせると、暗い空間で、長持が棺桶のように見えて気持ちが悪かったようだ。この隠れ物置の幅は80cmくらいで高さは2m、奥行きも2mくらいの幅の狭い小部屋で、あくまで長持を入れるためのスペースだった。
通常、床の間は奥行き45cmくらいであまり奥行きが広いものではない。うちの家の和室も床の間、物置と並んでいるが、物置は布団を入れるために奥行きが90cmは必要で、床の間との奥行きの差は、床の間を二段にすることで解決している。それでも床の間の幅が180cmあるので何とかバランスが保たれているが、床の間の幅が90cmしかないと掛け軸などが奥まって見えなくなり、床の間の意味がなくなる。
こうして考えると、弘前の忍者屋敷の謎の空間、床の間後ろの空間は、何かを入れるための物置、納戸だった可能性がある。発表によると、この隠れ部屋は幅0.6m、奥行き1m、高さ2.1mとなっている。床の間の幅は狭く30cmくらいであり、物置(奥行き90cm)に、床の間を合わせるために後ろに部屋を作ったのだろう。家内の実家では縁側に通じた同じような納戸に長持を置いたが、忍者屋敷の隠れ部屋には幅が狭く、長持ちは置けない。他の何かを置いたのだろう。行李や箱膳、刀箪笥などは置けたであろうし、記事にあるような薬を作っていたのであれば、そうした材料を入れておいた可能性もある。
縁側に面した床の間の裏のスペースについては、若党町にある旧伊東家にもあるし、対馬家にも同様な納戸がある(旧伊東家住宅、対馬家保存修理工事報告書、昭和58年)。もっと大きなスペースで扉も付いているが、長持や武具などを納めた納戸で、江戸時代の津軽の伝統的な配置なのかもしれない。
家内の曽祖父は岩木神社などの建築にも参加した大工で、明治に自分の家を作るにあたって、津軽の伝統的な設計に準じていたであろう。幕末に建てられた弘前の忍者屋敷もこの流れに沿う、床の間、物置の配置であろう。この隠れ部屋に忍者が隠れて、来客者の会話を聞いていたという話はロマンスがあるが、幕末期に建物に、こうした空間をわざわざ作る必要性はない。隠れ部屋というのは、そもそも誰かが来て、それから隠れるための部屋であり、縁側に開放しているのでは、意味がないし、来客も少ないような家にわざわざ盗聴用の部屋を作る必要もない。
縁側に向いた床の間の裏の部屋が、忍者屋敷の証拠であれば、家内の家もそうだと言える。こうした類型は、家内に指摘されなくても、津軽の古民家の専門家や、文化財保存の専門家は知っているだろうし、あるいは歴史学者からすれば忍者屋敷でない根拠も挙げられるだろう。マスコミにすれば、こうした興味深いテーマは注目するが、きちんと専門家にも取材して、その真偽を確かめる必要があろう。
津軽の忍者屋敷?については所有者が、維持できず、取り壊しの可能性もあるという。幕末頃の建物と推定され、改修の程度がどの程度なのか、不明であるが、忍者屋敷ということを外して、家そのものが保存に値するかは、微妙である。若党町にあった笹森家、笹森順造、笹森卯一郎の実家、笹森要蔵の家は、東奥義塾、長崎鎮西学院にとっても重要な家であり、江戸後期くらいの家であるが、今は完全に取り壊されている(保存されているか不明)。保存、移築には大変な金がかかる。古い建物を残すというは大事であるが、観光資源、あるいは歴史的価値があるかという観点から十分に検討すべきであろう。
若党町 笹森要蔵、卯一郎、順造の実家 今はもうない |
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