2019年9月18日水曜日

弘前の地図は西を上




 地図といえば、上が北になっているのが常識で、それ以外の地図はほとんど見かけない。欧米の地図が北が上むきになったのは16世紀頃からで、北極星、あるいはそれを表すコンパスの北を上むきにした地図がわかりやすいという理由である。それまで、必ずしも北が上とは限らず、古代エジプトではナイル川の上流を上にしていたので南が上となり、中世のヨーロッパの地図は東を上とした。日本でも明治時代以降、西洋の測量技術を学び、地図もそれに倣って北を上にするようになった。

 明治以前の日本地図(絵図)を見ると、日本全図、藩領絵図など、縮尺の小さいものはほぼ北が上になっているが、城下絵図など、縮尺の大きなものになると必ずしも北が上というルールが守られていない。

秋月御城下絵図(文政2年)     東が上
高松城御城下絵図(文化年間)   南が上
宇和島御城下絵図(元禄16年) 南東が上
萩御城下絵図(慶応元年)     北が上
奥州仙台城絵図(生保二年)   北が上
徳島御城下絵図(享保12年)  西が上
福岡御城下絵図(安永6年)   北が上
若松城御絵図(安政元年)    西が上
桑名城下絵図          南が上
郡山城之城下絵図        西が上
正保城絵図
南部領盛岡平城絵図           西が上
出羽国秋田郡久保田城絵図    西が上
出羽国米沢城絵図        東が上
相模国小田原城絵図       西が上
播磨国明石城絵図        南が上
備前国岡山城絵図        北が上
美作国津山城絵図        南が上
安芸国広島城          北が上
出雲国松江城絵図         南が上
豊後国日出城絵図          北が上

ざっと調べても、城下絵図の方位はまちまちで、同じところでも時代により違うこともある。江戸時代の絵図製作者には北が上という観念はなさそうである。

 弘前藩でいえば、大体の絵図は西が上となっている。これは城下に住む人々にとって、どこからでも見える岩木山が西にあるからで、ここを上にするのが感覚的に合っている。また西方向に弘前城があり、町割りも東西のラインを基軸に、南北に分割している。通常の弘前市街地の地図では弘前城が左にあるが、どうも体感と合っていない。むしろ弘前市の観光案内マップやパンフレットは、独自に西を上、弘前城を上にした地図で統一したら面白い。何も北を上にする必然性はなく、体感にあった地図といては弘前の場合は西が良い。

 江戸時代の絵図では、基本的には山が上、海が下になるため、江戸の絵図では弘前と同じように西が上となっていて、富士山、江戸城が上で、江戸湾が下となる。この西が上という感覚は、東京に行くとなるほどと思うが、江戸時代は今と違って、富士山がもっと見えたはずで、富士山の方向が概ね西と感じ、また街の作りもそうなっていた。

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