NHK 1978年、2018発掘プロジェクト「唱歌ふるさとのルーツを探る 東邦音楽大学教授、小出浩平 岡野貞一との会話から断定 |
父親、高野辰之の証言から「ふるさと」の作詞者として断定 |
著作権委員として作曲者の解明?高野の教え子 |
先日、オンラインで「音楽探偵・安田寛の楽しいニッポンの音楽論3 第一回」を見た。1時間半の講義であったが、大変面白い内容と構成であっという間に終わった。専門の矯正歯科の講義よりよほど面白い。タイトルは“音楽探偵、楽しい”と、茶化して書いているが、内容はかなり深刻で、ドロドロしている。
ここからの内容な、すべて今回のオンラインの講義内容であることをまず明記する。
「ふるさと 故郷」、「春が来た」、「春の小川」などの誰もが口ずさむ唱歌、文部省唱歌は、戦前までは作曲者、作詞者不明となっていたのが、戦後、それも昭和40年頃から作詞、高野辰之、作曲、岡野貞一となっている。もともと文部省唱歌は、日本人の子供のために歌を作ろうと、文部省で音頭をとり、全体委員長を湯原元一、歌詞部門の委員主任は吉丸一昌、委員は富尾木知佳、乙骨三郎、高野辰之、武笠三、作曲部門の委員主任は島崎赤太郎、委員は楠美恩三郎、岡野貞一、南能衛、小山作之助、上真行が協議して作った。例えば、「春が来た」などは作曲班の一の組、小山、楠美、南がそれぞれ曲を作ってきて、みんなで聞いて、さらに作り直して確定してという経緯がある。
高野、岡野はこれらの委員の中では長生きして、死後、その追悼文の中に、「ふるさと」、「春が来た」、「春の小川」の作詞、作曲者とされた。もちろん作詞グループ6人の一人として高野、作曲グループ6名の一人として岡野が、作曲したとは言えるのだが、あくまでグループ作業であり、誰が作曲、作詞者とはならず、理科系科学論文で言えば、代表者の作詞者は吉丸一昌、作曲者は島崎赤太郎と言ってもいいのかもしれない。
その後、戦後になって日本音楽著作権協会ができると、著作権料を領収するために、作詞、作曲者の同定が始まり、これまで文部省唱歌、作詞、作曲者不明の多くの唱歌の作曲者、作詞者が必要となった。そこに高野と岡野の子孫が生前、親、祖父から聞いた伝言から、著作権協会にうちの父、祖父は作詞、作曲者と言い出し、協会および文部省もほとんど調査しなかったため、有名な多くの唱歌が高野—岡野コンビの作とされた、今や長野県中野市に高野辰之助記念館が、島根市には岡野貞一歌碑が作られている。
その後、唱歌誕生の制作過程を示す日記など新資料が見つかり、唱歌は作詞、作曲委員による合議で決められたもので、たとえ原作曲、原作詞があったとしても議論の中で、かなり変更された。こうした経緯がはっきりした証拠が見つかったが、それでも「ふるさと」、「春の小川」、「春が来た」などの名曲が高野—岡野コンビのよるものではないと否定はされず、そのままになっている。現行の教科書にもそう記載され、さらに町おこしの一環として記念館や石碑が作られるようになると、これをあえて否定するのは難しくなり、その後の論文でもオブラートに包んだ表現となり今に至る。
実際、確実に作曲者、岡野貞一とされる唱歌はほとんどなく、作曲した多くの校歌もそれほどレベルの高くなく、さらに委員の中でも年齢的にも若く、作曲の才能も少ないため、岡野に「ふるさと」のような名曲は作れないという意見もあるほどだ。作曲6名、作詞6名の委員が生きている間は、こうした作曲者、作詞者の同定は一切なく、死後、ほとんど資料のない状態で、作詞者は高野、作曲者は岡野と固定されたことは彼らも“自分は仕事の一部をしただけだ”と戸惑うだろう。
かって神護寺にあった武士の肖像画が源頼朝像とされ、国宝となったが、その後の調査で、足利直義像ではないかとされ、少なくとも源頼朝像ではないことがはっきりし、教科書に載らなくなった。こうした伝で言えば、今でも小中学校の音楽の教科書に載る「ふるさと」は、岡野、高野といった個人が作曲、作詞したものではなく、文科省小学校唱歌教科書編纂委員会あるいは作詞、作者不明とすべきである。また残念なことではあるが、記念館や石碑についても修正すべきであろう。これは他の委員に対しても失礼であるし、何より高野、岡野にとっても不本意なことであろう。歴史の改竄が行われている。
私事ながら、私が見つけた「明治二年弘前絵図」はあまり注目されず、令和二年に発行された「絵図で見る弘前城のうつりかわり」(郷土歴史シリーズ)でも明治四年の「士族在籍引越之際地図並官社学商現在図」が取り上げられ、平成30年にできた高岡の森弘前藩歴史館でも「士族在籍引越之際地図」が展示されている。普通に考えれば明治四年の地図は明治二年の地図のあくまでコピーであり、コピーよりはオリジナルが重視されるべきであるが、発見者が素人で、その後も歴史学者の調査が入っていないということで、弘前図書館の奥にしまわれたままとなっている。幸い私が自費で本を出版したからいいものの、何もせずに寄贈すれば、コピーである「士族在籍引越之際地図」が弘前市の文化財に選ばれかねない。実際、文化庁が主催する文化遺産オンラインでは廃藩置県当時の弘前城下の様子がわかる貴重な地図として、「士族在籍引越之際地図」が登録されている。美術で言えば、オリジナルがあるコピーを堂々と美術館に展示しているようなもので、これほど恥ずかしいことはない。
逆のことでいうなら、弘前市森町の忍者屋敷も、そもそも忍者屋敷の定義すらはっきりしないし、そこが忍者屋敷と言えるだけの証拠がほとんどないにも関わらず、東奥日報などのマスコミあるいは弘前観光コンベンション協会などが悪ノリして、次第に大ごとになっているが、プロである歴史学者からの一切の声はない、否定する論がないと、唱歌における作曲者、作詞者と同じく、そのまま嘘の歴史が事実化していく。少なくとも大学の歴史の先生が、東奥日報などに投稿し、「忍者屋敷などナンセンス」と、これまでの証拠を全て潰すだけでも、収束できる。間違った歴史に異議を立てることも専門家の社会的な使命であると考える。長慶天皇伝説、東日流外三郡誌、義経伝説、キリストの墓など、青森はホラの多い場所であり、よほど注意しなくてはいけない。