2023年1月15日日曜日

最近笑ったこと

 





昨日、「どうやらオレたち、いずれ死ぬっつーじゃないですか」(みうらじゅん、リリー・フランキー、新潮社)を読んだ。くだらない話の連発で楽しいが、その中でもとりわけ面白く腹を抱えて笑った話があるので紹介したい。

 

 

リリー、「そうですね。オレ昔、ピエール瀧とかと海に遊びいくと、写真をよく撮ってたんですね。で、後日それを家の中でスライド映写機で壁に映して、BGMにル・クプルの“ひだまりの詩”とかかけると、波打ち際で大ハシャギしている瀧が、なぜか故人っぽく見えるんですよね。おどけている人間って、そういうとき、ほんと哀しく見える」

みうら、「“太陽にほえろ”でも、生前に陽気な刑事ほど殉職するのが一番哀しかったもんね」

 

家内に本を見せても全く面白くないという。おそらくこの文章を面白いという人は少ないだろうし、仮にいれば私とお友達になれる人であろう。

 

本を読んで、泣いたり、笑ったりるのは、ある意味、難しい。というのは情報媒体が文字のみで、それを理解して悲しむ、喜ぶためには、次のステップが必要となる。それを映像として再現する能力である。子供の頃、絵本の読み聞かせを経験した人は多いだろう。子供たちは読んでいる内容を絵本の中の絵に投影して理解していく。一般の本はそうした行為を脳内に再現しなくてはいけない。映画や漫画は、絵本と同じように、脳内で映像を再現する行為が必要なく、より理解しやすい。

 

話に戻るが、リリ・フランキーさんの話を理解するには、まずピエール瀧さんのことが頭に浮かばなければいけない。彼のでた映画やテレビの演技や表情、さらに最近の薬物事件後の神妙な表情などもここで映像として出てくる。そしてスライド映写機、これも家の中で見ているので、コダックやツアイスの何十枚も連続して見られる高級映写機ではなく、キャビンの小型映写機に横型の金属の枠にスライドに入れて、暗い部屋の壁に映った小さな画面で見ている。一枚ずつカチ、カチと動かす音が聞こえる。今の人はスライド自体、わからないかもしれないが。

 

そして「ひだまりの詩」が頭の中に響かなければ、まず笑えない。失恋の悲しい歌ではあるが、別に死を連想させる曲ではない。ただピエール瀧、海ではしゃぐ、スライドを家で見る、ひだまりの詩、これらの要素から、ピエール瀧が死んで、それを思い出す設定を勝手に自分の中に作るが、ふとピエール瀧は死んでないと気づく、これがおかしいのである。こうして説明すると全く面白くもないが、家のソファに寝っ転がって、この本を読んでいてこの箇所を読むと瞬時にこうした音楽と映像がわいて大笑いするのである。これは落語の笑いに通じる。古今亭志ん生の落語を聞いていると、その登場人物の表情がイキイキとしてあたかもそこにいるような感じがするが、本を読む場合は、声を出すわけではないので、全て脳内で映像を作っていくので、より高度であろう。おそらく読書以上により高度の頭の働きは、おそらく絵画を見て泣く、あるいはもっと難しいのは笑うことくらいか。絵画には当たり前だが、絵以外の情報は全くない。強いてあげると作品の説明を読んで、画家がその絵を描いて心象を推しはかりくらいか。じっと見ていると泣ける絵があるかもしれないが、私の場合、まだ絵を見て泣いたことはない。

 

この本では、リリーさんとみうらさんの掛け合い漫才のような会話が収められていて、しゃべっては笑うという繰り返しであるが、これができる人は案外少ないと思う。まず年齢、経験が近くなければ、話題が理解できないし、こうした冗談のキャッチボールにもお互い長けているのだろう。さらにいうとお互い尊敬し合っていて、その生き方や考え方の近いのだろう。他に最近、大笑いしたのは、年末に見た「水曜日のダウンタウン」でクロちゃんの恋の成就に対する“みちょぱ”さんの反応で、これは心底、気持ち悪がっている様子に大笑いした。ただ昔と違い最近は、ゴールデンタイム=子供用アニメという鉄板がなくなり、子供のみる番組がほとんどなくなった。ひょっとすると5、6歳の子供も親と一緒にこうした番組を見ていいて、親が人の恋の成就を大笑いするのは教育上良くないのかもしれない。


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