2023年1月6日金曜日

沢木耕太郎著「天路の旅人」




沢木耕太郎さんの新著「天路の旅人」を読んだ。戦前、中国西北部、西域からチベット、インドに密偵として踏破した西川一三のことを書いている。ノンフィクションというが、西川の「秘境西域八年の潜行」を下敷きに、新たに発見された修正前の元原稿と西川へのインタビューを補足して再構築した作品で、ある意味、沢木さんと西川一さんの共著といってもよい。

 

まず何より驚いたのは、巻末に載せられた西川の行動記録である。実際に徒歩を中心に行動したのは、内蒙古の張家口(北京の北西)から、寧夏省、甘粛省を通って、青海省、チベット、そしてインドに至る。途中、一面、草木もないゴビ砂漠や4000mを超えるヒマラヤなど、困難な移動で、物資の運搬には、砂漠ではラクダ、チベットではヤクと変え、おそらく5000kmの距離をほぼ徒歩だけで走破した。よく考えれば、シルクロードでの交易路は全長6400km以上であり、人々は古来、この距離を何度も往復した。

 

ニホンザルの移動距離は通常、数キロと言われ、ゴリラ、チンパンジーなどの霊長類でも、ヒトのように数千キロの歩行をすることはできない。馬やラクダは比較的長距離の移動ができる動物であるが、これらの動物でもヒマラヤの高い山、谷を越えるのは難しく、ヒトほどあらゆる環境下で移動できる動物はいない。アフリカで生まれたホモ・サピエンスが世界に脱出したのがおよそ20万年前。もちろん歩いてアフリカからヨーロッパに、そしてアジアに出て行った。数千キロを自由に歩ける能力を持つ動物はおらず、これが人類の最も大きな能力である。

 

大型犬であれば、数千キロを歩くことができるかもしれないが、生きて、子孫を産んでいかなければ、生命体として存続できず、寿命が10年足らずの動物ではそうしたことができないし、また4本足では自由に食物を摂ることもできない。エスキモー犬はソリを引っ張り数千キロの旅行をすることができるが、自分の意思で数千キロ移動しようとは思わないだろうし、旅行中、ヒトが犬に食事を与えないと無理であろう。

 

こうして見ると、ヒトをヒトたらしめている一番原始的で根源的なものは、歩くということになる。空を飛べない鳥は鳥でないように、歩かないヒトはヒトではないと言ってもよかろう。ヒトの構造は、猿やゴリラより長い距離を歩くのに優れた構造になっており、そうした方向に進化したと思われる。猿はヒトより木登りはうまいかもしれないが、ドーバー海峡を横断できないし、エベレストを登頂できない。何より数千キロの道のりを歩くことは無理であろう。あらゆるところを移動できる能力がある地球上の唯一の動物が、人間なのだろう。そうしてヒトは世界中に広まり、地球上で一番数が多い、絶対的な支配者となったのだろう。そしてその延長上に船を作って陸と陸とを渡り、さらに馬車、自動車、ロケットなどの移動手段を発明していった。

 

この本を読むと、ヒトには旅をしたいという欲求が本能としてあるのではなかろうか。見知らぬ土地に行きたい、美しい景色を見たい、うまいものを食べたい、異なる人たちに会いたい、こうした旅への欲求のために、長距離旅行に必要な装備、衣類や食料、あるいは旅行中の食を得るための武器などを持参して旅立った。アフリカにいた人類の祖先は、森の食料がなくなると集団として新たな森を探して歩いた。その延長がアフリカから南米南端までの旅行となった。

 

沢木さんの描く西川の魅力は、こうしたヒトとしての根源的なもの、歩いて旅する、アフリカからのホモ・サピエンスの脱出が重なり、逆に日本に帰国後の西川の生活態度に現代人を見る。著者が描きたかったのは、ただの冒険家でない西川のこうした姿だったのかもしれない。歩いて旅する動物、これがヒトなのかもしれない。

 

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