2023年6月14日水曜日

矯正歯科専門医 2

 



私は大学を卒業後、3年ほど小児歯科講座に残ってから、鹿児島大学歯学部矯正歯科学講座に移った。1985年のことである。当時の矯正歯科の状況を見ると、ようやく矯正歯科の認知度も高まり、各地に矯正歯科専門歯科医院ができた頃である。

 

当時の教授であった伊藤学而に話を聞くと、教授が東京医科歯科大学の矯正科に入ったころ、昭和40年代は矯正歯科専門で開業している医院は日本でもほとんどなく、矯正歯科で開業はできないと言われていた。そのため、他大学の教授も含めて、当時の教授は、変わった人が多く、実家がお金持ちの先生が多かった。要するに矯正歯科では食っていけないが、好きで趣味でしている感じであった。一度、鹿児島大学歯学部で全国の矯正科の教授が集まり会議することがあり、その折、教授たちの世話係に指名されたことがある。一番驚いたのは、会議の最中、先生同士、互いにちゃんづけするのである。伊藤先生はガクちゃん、日歯の本橋先生はポンちゃんなどである。本橋先生に至っては、朝、ホテルに車で迎えに行くと、ホテルのロビーでそこにあるミニチュアのウイスキー全てをかき集めて飲んでいた。何でも、新宿の大きな土地を持っていて、高島屋にも土地を貸していたし、土地の一部を売って、日本の長者番付の2、3位になったこともある。豪傑で、鹿児島の林先生を用心棒がわりに新宿の店子のお店で毎晩飲んでいたという。大阪大学の作田教授もおかしな先生で、鹿児島の観光名所、磯庭園の集成館に案内した。1時間経ってもでてこない。薩摩藩主、島津成彬の頃に行われてガラス工場、反射炉など近代産業の遺産を展示しているところで、前もって見学したが、それほど広くなく、せいぜい30分では十分に回れる。館内に入ると、もう一人の先生と共に、展示一つ一つの解説を読み、デスカッションをしていた。

 

この当時、仙台でも確か1、2軒しか矯正専門医院はなく、また鹿児島は駅前に田中矯正歯科医院だけであった。もちろん青森県には矯正歯科医院はなかった。口蓋裂の患者さんの矯正歯科が保険適用となったのは1982年、その後、学校歯科検診でも不正咬合の項目ができ、標榜科目名には矯正が加えられた。長い間、矯正治療は美容であり、医療ではないと言われていて、こうした動きは矯正歯科学会の悲願であった。どちらかというと歯科では補綴と口腔外科がメインで、矯正歯科は継子扱いされていただけで、医療扱いされるようになったのは嬉しいことであった。その後、外科的矯正やダウン症による不正咬合も保険適用となり、現在では60以上の先天性疾患に起因する不正咬合の治療は保険適用となっている。

 

口蓋裂患者の矯正治療を主として大学病院で行われることが多く、私の場合も東北大学の幸地省子先生が恩師であるが、最近では開業医の中に熱心に治療され、優れた臨床結果を示

先生が多くなった。府川俊彦先生、平川崇先生や石渡靖夫先生など神奈川県の先生が頑張っている。こうした先生は、医療としての矯正治療を強く意識しており、実際の症例も見ても、ほぼ健常児と変わらない仕上げとなっており、不利を覚悟して、専門医試験にもこうした症例を出してきた。確か石渡先生は3例出したと思うが、私も一例だけ出したが、限界であった。口蓋裂は500600人の一人の頻度であり、最近の少子化に伴い、青森県でも年間10名程度、南部の八戸などは岩手医大に行くことも多いので、私のところに来る患者は年間56名程度となる。それでもこれまでで300人以上は見ているので、開業医としては多い方であろう。

 

口蓋裂患者の矯正治療をこれといって特殊なものではなく、何といってもプライマリーの手術が全てを決める。これは完全の術者の技能に依存し、できるだけ綺麗に目立たなく、顎の成長を抑制せず、そして言語成績も良いという条件を満たす手術が望ましい。特に口蓋部の裂隙をあまり左右の粘膜を引っ張ると、上顎骨の横、前への成長が抑えられ、矯正治療も難しくなる。逆にプライマリーの手術が良ければ、骨移植術などによりほぼ通常の矯正治療と同様な経過で治療することができる。ただ矯正歯科医としては、どのような症例についても、それなりに仕上げていく能力が必要であり、特に地方では歯科大学病院がないため、同じような役割が開業医に求められ、それが一つのやりがいにもなっている。


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