2026年8月20日木曜日

左翼思想に感化された頃

 



ちょうど高校生くらいの話だ。大学の学園闘争はピークを過ぎたが、それでも高校にも少しその影響が入ってきた頃だった。阪神間でも灘高校や神戸高校でも校則撤廃を起因としたライトな学園闘争があった。我が六甲学園でも、昭和45年頃だが、頭髪の自由化を求めて高校2、3年生が灘高校など他校の運動に感化されて、活動を行った。それまで中学、高校生とも坊主という厳しい校則で、ドイツ人校長が校門の前に立ち、そこで髪の長さをチェックし、そのまま帰宅させ、散髪屋に行かせた。また学校には電気バリカンは2、3台あり、生徒に自由に使わせた。クラスに一人くらい散髪の得意なクラスメートがいて、髪を刈ってもらった。当時、中学生は坊主のところがほとんどであったが、流石に高校生で全校生、坊主というところはなく、これに対して高校2年生、3年生が反対していた。最終的には耳を露出させるという髪型という条件で認められた。

 

この時代、大学生も高校生も左翼的な思想がカッコよく思われた。私も高校2年生頃から当時、朝日新聞で持ち上げられていた中国の文化大革命を偉大なものと見ており、京都大学の竹内好教授などによる中国礼賛本を貪るように読んでいた。中国はすごい、医療から教育まで全て無料、地上の天国のような国で、その指導者、毛沢東と周恩来のような政治家が日本にも現れないのかと本気で思っていた。革命は正しいと考えていて、毛沢東語録の解説本なども読んでいた。ところが大学に入る頃になると、少しずつ文化大革命の実態が漏れてきて、これはおかしいと気づいた。そこで大学2年生の頃、昭和50年に中国が外国人解放政策をとり、団体旅行に限り、中国旅行に行けることになった。実際、中国はどうなのか、自分の眼で見たいと思い、親に援助してもらい、香港、広東、昆明、北京のツアーに参加した。常に公安の監視下に置かれ、買い物も外国人専門店でないと買えなかった。博物館に行くと多くの掛け軸が破られたまま展示されていて、文化大革命の爪痕があちこちに見られた。北京での通訳の女性は、文化大革命中、日本語のできるインテリとして僻地に下牧させられ、ようやく北京に帰ってきたというキャリアの人だった。疑問のことを尋ねると、よほど辛い目にあったのか、文化大革命のひどさを語ってくれた。私の大好きな中国解放軍の行進曲、「三大紀律八項注意」をハミングすると怒っていた。

 

帰国後、多くの文化大革命批判の本を読むにつれ、次第に中国礼賛の気持ちは萎んできて、最終的には卒業の頃に発生した中越戦争で、完全に中国に対する気持ちは切れた。日本の多くの左翼はベトナム戦争反対を唱えていて、基本的にはベトナム支持者が多かったが、そのベトナムに帝国主義的な行動で中国が侵略したという事実は、多くの左翼はこの時点で、左翼思想から離れていった。私自身、大学2年生頃に中国に行ったことをきっかけに、さらに藤田省三の「転向の思想史的研究」を読み、人はいかにして簡単に転向し、それも左翼からウルトラ右翼に転向するのかが理解できた。さらにあれだけ大学闘争をしていた活動家が何事もなかったように大企業に勤める事例を多く見てくると、左翼のいうことが全く信じられなくなった。一時期は、仙台の勾当台公園に座っていると左翼活動家がベンチに座っている私に左翼活動に参加するように誘われた時はかなり腹が立ち、議論した。最後は、大学というぬくぬくとした生活を過ごすのではなく、即刻、大学を辞めて、北朝鮮に行けと言うと、急に泣き出した。悪いことをしたと反省している。今なら、それはそれ、何とか誤魔化す知恵はあるが、あの純粋な若者にはきつい言葉であった。

 

結局、左翼の思想を含めて、こうした理論を突き詰めていくと、最終的には思想、信念のために死ねという陽明学、あるいは吉田松陰の考えになり、左翼で言うならテルアビブ空港乱射事件、右翼で言うなら政治家の暗殺に行き着く。思想でも逃げ道を立たれると怖い。一方。辺野古の左翼活動家を見ていても、60歳以上の人が多い。20歳から活動をしているなら、彼らが理想とする社会主義国、まず中国で言うなら、大躍進による数千万人の餓死、文化大革命、ウイグル、チベット民族弾圧、ソ連で言うならスターリンによる粛清など、北朝鮮の拉致問題、など社会主義のさまざまな問題を見てきたはずである。その上でまだこうした活動をしていること自体が信じられない。どこかで思想自体の限界を感ずるはずだが。

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