2026年8月23日日曜日

珍田捨巳の功績 昭和天皇との関係

 

珍田捨巳の書簡


珍田捨巳は、青森県が産んだ偉人の一人だが、地元での知名度は今ひとつである。というのも、明治、大正期に活躍した外交官ではあるが、外務大臣、首相という高い地位につくことなく、役職の最高位としては昭和天皇の侍従長くらいしかない。もちろん、外交官としての業績を上げると、外務次官(外務省総務長官)として桂首相、小村寿太郎外務大臣とともに、日英同盟、日露交渉に尽力し、さらに牧野伸顕と共にパリ講和会議の代表となった。こうした功績により、のちに伯爵となった。ただあくまで黒子としての活躍であり、表立って舞台に出ることは少ない。大河ドラマや映画では、小村寿太郎、桂太郎が出ても、珍田が出ることない。また小説では吉村昭の「ポーツマスの旗・小村寿太郎」、漫画では能條純一の「昭和天皇物語」には昭和天皇の側近として登場する。

 

昭和天皇と珍田捨巳の関係は、大正10年(1921)の皇太子(昭和天皇)の欧州訪問の訪欧供奉長に任命されたことによる。これは宮内大臣の牧野伸顕による推挙によるものだが、外務省を含む首脳部でもそれほど反対意見がなく、すんなり決まったようだ。英語力、キャリア、とりわけ駐英大使を務めたことが決め手となった。当時、政府、あるいは山縣有朋はじめ元老たちは若い皇太子の成長に危機感を持っていた。大正天皇が肉体的、精神的に公務を担当することが次第に困難となり、皇太子による摂政が現実味を増した。ただ今のままの皇太子ではとても摂政に任には耐えられないと思われており、その対策として登場したのが皇太子の訪欧であった。近代的な元首として欧州の皇族たちと知り合い、そこで学ぶ必要があると考えられた。ただ皇太子の訪欧は予想以上の反対運動、貞明皇后、東宮大夫、東郷平八郎、頭山満なども反対したが、原敬首相の強い決意で実現した。

 

大正1033日(1921)から93日までの6か月間のヨーロッパ各国の歴訪である。この間、一時期を除く、ほぼ全期間、珍田は皇太子(昭和天皇)と一緒にいた。通訳を兼ねていたので、常に皇太子の傍にいて、案内した。宮中の生活しか知らない皇太子にとって、これほど他人といつも一緒のいたという経験はなかった。ちなみに訪欧の時点で、昭和天皇は19歳、珍田は64歳、父親の大正天皇は41歳、祖父の明治天皇は生きていれば68歳なので、昭和天皇と珍田の関係は、孫と祖父の関係に近い。

 

昭和天皇は、生前、自分が一番楽しかったのはこの時の訪欧のことと語っており、その思い出とともに珍田の姿が鮮明に残っていたのだろう。訪欧後、珍田はそのまま東宮大夫、さらに侍従長となり、昭和天皇の即位式を全うしてから亡くなった。訪欧での二人の関係はその後も珍田の死まで続いた。摂政時代、昭和天皇は各地に行幸したが、遠方には年配の珍田の体の負担を考え、帯同せず、亡くなると、すぐに命を出して、即日に従一位に叙任させた。極めた異例のことであり、亡くなったその日に従一位に叙任されるのは基本的に首相経験者、元老で、伊藤博文、山縣有朋、山本権平、などに限られ、外務大臣の経験もない珍田が叙任することは通常考えられない。昭和天皇の強い命(めい)による。

 

昭和天皇にとって、珍田は自分の祖父のような、父のような存在であり、多くの影響を受けた。まずイギリス国王の立憲君主のあり方を珍田の通訳を通じて知り、学んだ。そしてキリスト教についても珍田の影響により宥和な態度を持つようになり、皇太子(平成天皇)の英語の家庭教師にクエーカー教徒のヴォイニング婦人を選び、皇太子の妻、美智子様はカトリック系の聖心女子学院であった。神道の総帥という立場ながらキリスト教の対して寛大だったのは珍田の影響があった。さらに自分の子供、義宮正仁親王の妃として津軽家から華子さんを迎えた一因かもしれない。さらに昭和天皇は戦争中も含めてリベラル、やや親英米派に近い考えの持ち主で、これは牧野伸顕、珍田捨巳の影響が濃い。もし昭和天皇が、訪欧の経験、側近の牧野、珍田、杉浦重剛らのリベラル、合理主義的教えがないまま、成長したなら、軍部、特に陸軍が求めるような右翼的な天皇になった可能性もあった。また珍田は自分の後継の侍従長として鈴木貫太郎を勧めたが、これが最終的に終戦に結びついた。

 

もっと評価して良い人物と思う。一番その功績を評価しているのが、昭和天皇であった。AIを使えば、若き昭和天皇の欧州訪問のドラマ、映画を皇太子と珍田の関係から描けると思うが。


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