2018年6月14日木曜日

パタゴニア ベースレイヤー

左上:ナイントレイル 右上:キャプリーン ライトウェイト
左下:ミッドウェイト 右下:サーマルウェイト




 最近は、パタゴニア製品に凝っている。6年前に最初に買ったのがR2で、これは津軽の冬にはかかせないアイテムとなり、その後、もう少し厚いR3を購入し、さらに昨年は新しいタイプのR2を購入した。ここまではもっぱら冬用の衣類として役立った。ほぼ冬の間、毎日、この3つを着用しているので、初期投資は高かったが、一回当りと考えると安い。
 
 3月になるとさすがにR2R3は単体でも暑く感じ、かねてから欲しかったR1を購入した。これはプルオーバーのものにしたが、これは春先の3月、4月には工合よく、おそらく津軽では10月ころからまた使えるだろう。本当に汎用性の高いもので、東京以南の地区ではR2R3よりR1を使う機会が多いのではないだろうか。さらにベースレイヤー、つまり一番下に着る衣服が気になりだし、最初に有名なキャプリーン サーマルウェイト、これはキャプリーンシリーズでも最も厚いものだが、を購入した。これは案外暖かく、これまでLLビーンの普通の綿のタートルネックを着ていたが、R1+サーマルウェイトのコンビとなった。非常に動きやすく、また汗をかいても乾きやすい。その後、他のキャプリーンシリーズはどうかと、長袖のミッドウェイト、半袖のライトウェイトを買った。またナイントレイルも評判が高いので半袖のナイントレイルも買った。ものすごい勢いで購入している。というのも、パタゴニアの製品はあまり値引きがなく、スペインのTrekkinnという通販を利用しているが、2枚買っても送料は同じなので、2枚買うことにしたからである。

 冬場、春先のR1R2R3およびキャプリーンのサーマルウェイト、ミッドウェイトの能力は実証できた。さすがに山用のばりばリのものなので、町での使用には全く問題なく、非常に快適である。洗濯しても乾きが早く、また消臭性もあるため、できるだけ衣料を少なくしたい断捨離の人には向いている製品である。

 さていよいよ夏である。夏はそもそも衣服を着ないシーズンなので、T-シャツくらいあればよいと考えていた。先日、10kmほどの長距離散歩を炎天下(30度近い)の中、行ったが、その時に着たのがナイントレイルの半袖Tシャツである。これはポリエステル素材だが、風合いは全く綿であり、それでいて速乾性がすごい。汗をかいてもすぐに乾くのである。綿であれば汗でばったりと背中にひっつくようなことがあるが、この製品にはそうした不快感はない。さらに軽くて動きやすい。たかがTシャツだが、普通のものとは別物であり、驚いた。

 モンペルのジオラインもそうだが、こうした機能性下着と呼ばれるものは、本来、登山などの過酷な条件での使用を目指したものである。日常使いにはオーバースペックではあるが、ところが実際に使うと本当に便利である。速乾性で下着を脱いで石けんで洗い、絞ってほせば数時間で乾いてしまうし、消臭性もあるので2、3日は着られる。さらに軽く、立体裁断しているので動きやすい。また山での過酷な使用を想定しているので耐久性も高い。あまり数を用意しないでも頻回に使える。こうした利便性は値段の高さを上回るものであり、むしろ体がいうことが効かなくなる老人世代こそ、積極的に使うべきだと考える。歳を取ると尿漏れなどもあるが、速乾性で消臭もあれば、汚い話であるが、そう何度も着替える必要はない。今の年寄りは私も含めていいものは多少高くても買う。デイパックにダウンコートというコンビも昔は若者の格好であったが、今や津軽では年寄りの冬の標準になっている。軽くて暖かく、両手が使えるのが便利で、こうした格好になった。パタゴニアやニューバランスのようなメーカーも販路を広げる意味からもシニア世代へのもっと宣伝をすべきであろう。



2018年6月7日木曜日

スポーツの全国大会をなくせ





 つい最近も患者の親から「部活(バスケット)の先生から矯正装置をつけると試合で怪我しやすいので部活がすべて終了するまで1年、治療を遅らせるように」と言われた。先生の指導に逆らうと試合に出してくれないので、装置の装着は1年後にしてほしいと嘆願された。おそらくこの顧問は矯正治療のことは全くわかっておらず、アメリカのプロバスケットリーグNBAの選手の中にも矯正用ブラケットをつけている選手はたくさんいるし、それこそ中高校生まで入れるとアメリカのバスケットをするほとんど生徒が矯正治療を受けていることは知らないのであろう。母親にはバスケット部の顧問からこちらに連絡するように言った。多分、大きな理由もなく、適当に母親に言っただけで、こちらに連絡することはなかろう。

 矯正装置そのものが部活の邪魔と言われたのは初めてだが、練習が忙しくて月1回の矯正治療に行けないという生徒は本当に多い。一日でも部活を休めば、顧問の先生に睨まれ、試合に出られないという。強いチームなのかと聞くと、1、2回戦で負ける弱いチームである。毎日、毎日、月1回の矯正治療にもいけないほど、練習していて勝てないのは、中学生レベルではコーチ、監督の指導力の問題であろう。こちらが親であれば、月に一回も休めないくらい練習して一回戦に負けるのはコーチの責任であると言ってやるが。

 スポーツ強豪校のコーチは、自分が若い頃受けた経験で考えるのだろう。俺たちは毎日、それこそ休みは正月だけという練習で強くなった。お前達も一生懸命練習すれば強くなると言うのだろう。ところが私の場合は、進学校だったせいか、サッカー部の練習は週に3回、例えば中学なら月、水、土曜日、高校なら火、木、土曜日となっていた。日曜日は試合が多かったが、それ以外の平日の日の練習はない。もちろん、全国大会であっても学校の授業に支障があれば、出場辞退となる。あくまで学校の授業が中心で、部活はおまけとなる。平日の練習は授業の終わる4時から6時ころまでとなる。夏休みや冬休みでも毎日練習はなく、それも午前中で終わるという感じであった。それでも兵庫県や神戸市の大会では常に上位であったし、近畿大会では優勝した。まったく練習時間と成績は関係ない。

 子供が中学校の時にバレー部に入っていたが、練習中、膝の十字じん帯を断裂した。大学病院に入院し、退院後、体育館の椅子に座って練習をみていたら、監督から「何を椅子に座っているのか。立って見学しろ」と言われた。その話を聞いて、この監督はバカだと思ったし、娘もそう感じたようで、そのまま退部した。膝じん帯は退院したからといってまだ完治したわけではなく、無理に立たせる必要は全くない。座ってできる筋肉強化や理論の勉強などをさせるべきで、チームの士気が低下するという理由で、立たせるのは指導者としては失格である。同じ大学病院の整形外科病棟に二人の小学生は肘の手術を受け、入院していた。どちらも小学校野球部である。小学生で肘の手術をさせるような練習をさせるコーチはこれだけで失格であり、はっきりいって永久追放であろう。小学生の肩や肘を壊させる練習過多はその選手の将来の選手生命をつぶし、最もしてはいけないことである。きちんとしたクラブでは練習日数や投球数を規定して管理している。

 卓球、バトミントンなど多くの競技で、学校部活中心ではなく、優秀な選手を若いうちにピックアップして、中央の専門コーチにより指導をされるようになった。結果、トップレベルの選手の技術が飛躍的に高まり、オリンピック、世界大会での良い結果に繋がっている。つまりトップの選手を育てるのは、エリート教育をした方がよいのである。逆に言えば、中学校の段階で、こうした選抜に選ばれない選手は、将来オリンピックやプロの選手にはなれないことを意味し、それなら体を壊すほど練習する必要は全くない。

 欧米ではサッカーにおける10歳以下のヘディング禁止が流れとなっており、これも含めて青少年期のスポーツでは、子供の発育、健康への配慮が徹底している。日本の部活の最も大きな問題点はスポーツの全国大会の開催であり、その頂上を目指して各学校が勝ち負けを絶対視する。最近では、競技によって中学あるいは小学校の全国大会がある。これはすべて禁止すべきであり、せいぜい県レベルの大会で終了である。全国大会などなくても、今ではオリンピックやプロになる選手はピックアップでき、そうした選手は英才教育をすればよく、それ以外の選手は全国大会などなくてもよい。実際、卓球やバトミントなどの競技では、若くて優秀な選手がどんどん出現しており、彼等にとっては中学や高校の全国大会など全く意味はなく、オリンピックや世界大会が目標となる。実際、サッカーJリーグの選手を見ても最近では高校よりクラブユースの出身者が多くなり、プロの登竜門として高校サッカー部の価値は低下している。

2018年6月6日水曜日

毛沢東と宮崎滔天


 先月、恩師の叙勲記念パーティーのために久しぶりに鹿児島に行った。10年程前に行って以来だが、町の方はそんなに変わっていない。鹿児島に行くと定番であるが、まず“こむらさきのラーメン”そして、最も好きな山形屋裏の“鷹のラーメン”を賞味。さらに今回は鹿児島空港で少し時間があったので、鹿児島空港内の山形屋レストランの“焼きそば”も食べた。これと与次郎の“ざぼんラーメン”が私の鹿児島でのソウルフードである。今回は40年ぶりに中高校の同級生と中央鹿児島駅近くの屋台村で会った。観光客向きに施設で、ちょっと落ち着かない。早めに切り上げ、駅前に居酒屋に移り、焼酎五合ビンとポットという鹿児島流の飲み方を始めた.最後に二人の写真を取ってもらおうと側のカップルに声かけすると、そのカップルも20年ぶりに会ったという。何でも大学生のころ少し好きだったが、その後、全く会わず、電話、メールで連絡していたが、彼氏の方が出張で埼玉から鹿児島に来たので20年ぶりに会ったという。色んな話をして多いに盛り上がった。

 前置きが長くなったが、鹿児島の本屋で、「宮崎兄弟伝 完結編」(上村希美雄著)を購入した。日本編の上下、アジア編の上中下と完結編の全6巻の大著である。一冊、4000円、500ページを越えるもので、値段もさることながら、鹿児島から持ち帰るのがしんどいので、山田兄弟が多く載っている「完結編」を購入し、ようやく読了した。この中に面白い逸話があったので、紹介したい。

宮崎滔天は1917年に友人の黄輿の国葬のために中国の長沙を訪れた。その折、植蕃と毛沢東に招かれて湖南省第一師範学校で講演会を行った。手紙には無名の青年学徒である毛の宮崎滔天への深い尊敬があふれている。

白波滔天先生閣下。久欽高誼、覿面無縁、遠道聞風、令人輿起。
先生之於黄公、生以精神助之、死以涕涙弔之、今将葬矣、波濤万里、又復臨穴送棺。高誼貫於日月、精誠動乎鬼神。此天下所希聞、古今所未有也。植蕃 沢東湘之学生、嘗読詩書、頗立志気。今者願一望見采、聆取宏教、惟先生実賜容接、辛甚辛甚。  湖南省立第一師範学校学生 毛沢東 植蕃 上

この時、毛沢東は24歳。次の年にはこの師範学校を卒業し、教師となるので、師範学校が毛の最終学歴となる。おそらくは生涯最初に会った日本人が宮崎滔天だったのだろう。毛沢東が共産党員として活躍しだすのが1921年ころであり、さらに国民党の中央宣伝部長代理になるのが1925年であり、宮崎滔天が亡くなったのが1922年なので、その後のお互いの接点はない。戦後、昭和31年に宮崎滔天の息子、龍介夫妻は孫文誕生九十年の祝典に呼ばれ、毛沢東、周恩来に会ったが、宮崎滔天自身、長沙で会った口べたな青年が中華人民共和国の建国者になるとは夢にも思わなかっただろう。
おそらく毛沢東が会った最初の日本人は宮崎滔天であったであろう。

2018年6月1日金曜日

弘前城多聞と塀の復元


天守多聞の屋根は銅瓦ではなく、銅板を横板でで止めているようだ

 現在、弘前城天守閣は石垣修復のために70mほど本丸内側に移動されています。予定では完成は10年後とされていますので、大掛かりな工事です。早くもとの状態になってほしいところです。ところがこれとは別に、以前、2011年ごろのことですが、弘前城築城400年祭関連事業として弘前城跡整備計画概要が発表されました。それには本丸石垣の修理とともに、天守の保存修理・本丸多聞・塀の復元整備の計画があります。

 弘前城天守の多聞および塀とは天守に続く、白壁の横長と建物と塀を指します。彦根城の天守多聞などが有名ですが、これを復元するというのです。これができると二の丸付近からの弘前城の眺めが一変します。弘前城天守から多聞と塀が石垣に上に続くことになり、移動前に風景とかなり違ってきます。お城としての威厳は高まると思います。ところが石垣修復の関係者に聞いても、この多聞と塀復元については、誰も聞いていないといいます。確かに発掘調査では塀や多聞の柱跡などの調査をしていると思いますが、具体的な復元案はありませんし、工事関係者も知らないようです。

 現在、文化財の復元は非常に面倒になっています。全国各地に大阪城や名古屋城のような復元天守がたくさんありますが、今ではこうした復元は難しくなっています。もともとの建物とできるだけ同じものを要求されるため、正確な図面と絵図あるいは写真が必要となっています。江戸時代の多くの城は明治初期に壊されたものが多く、図面はあってもその外観を示す写真や絵が少ないようです。名古屋城は太平洋戦争の空襲で焼失しましたので、多くの写真が残っており、それが本丸御殿の復元に繋がっています。もし今の基準であれば、コンクリ製の現天守は認められなかったでしょう。弘前城においても本丸御殿をs復元しようとする動きがありましたが、平面図面があっても、外観の図面、写真がないため、許可されていません。将来、外観の写真が発見されれば状況は変わるかもしれませんが、今のところ本丸御殿の復元は難しいようです。


 それに比べて弘前城天守多聞と塀については、明治初期に撮られた写真が何枚かあるので、復元が認められる可能性は高いと思います。塀については、瓦を天守と同じ銅板葺きか確認が必要ですし、北側のどこまで堀を復元するかといった問題はありますが、類型は多く、それほど復元は難しくないでしょう。天守に続く構造物は、明治二年弘前絵図では、腰掛屯所、見張所そして井戸をはさんで陸尺詰所となっています。見張所と陸尺詰所は塀から少し離れた独立した建物で、現在、復元移築されて二の丸与力番所(見張所)に近いと思います。ただ天守に続く多聞について外観は写真から再現されますが、内部構造は不明で、発掘調査による柱跡などによる推測となるでしょう。簡単な構造とは思いますが、冬場の寒さを考えると、ここで供の者が主人の帰りを待つとなると吹きさらしではないでしょう。絵図によれば、腰掛屯所は他には追手門を入って左に、さらに三の丸から二の丸に行く下馬橋ふもとに、あとは本丸下乗橋突き当たりの所に腰掛所があります。天守多聞、腰掛屯所の内部の写真があれば、いいのですが、少なくとも幅がわかれば、ベンチのような本当に腰掛のようなものか、板の間の部屋となっていたのかはある程度わかるでしょう。