2018年8月11日土曜日

歯科医院を変える前に


オートクローム法で撮られた野口英世のカラー写真


 歯科医というものは、自分の治療が一番だと思っている。これは多くの職人に共通するもので、例えば植木屋さんにしても、自分の仕事に自信を持っていて、いいかげんな仕事には腹が立つ。そのため、新規の患者さんが来ると、これまでの治療を批判的にみるようで、自分の治療スタイルで直そうとする。結果、1本の歯が痛いと、歯科医院に行っても、この歯にも、この歯にも問題があると指摘され、再治療することになる。そうして他の歯科医院を訪れると、また同じようなことが起こる。これが他の医療と歯科が違う点である。

 昔、東北大学の小児歯科にいたころの話であるが、来院した子供さんの治療は基本的にはすべてやり直した。当時の小児歯科の感覚からすれば、開業医での治療は、自分たち専門医が求める一定のレベルに達していないと判断され、症状がなくても、再治療した。

 患者数の多い時代は、症状のない歯を治療している暇がないため、患者が直してほしいと希望する治療のみで十分にやっていけたし、他の歯を治療する暇もなかった。ところが昨今のように、患者数が減ってくると、勢い症状のない歯の治療を行うことになる。

 最初は、充填物の着色、二次カリエスの再治療。歯につめたプラスティックの材料は年月が経つにつれ、辺縁部にむし歯が発生する。“昔、つめたところに小さな虫歯がありますので、直しましょう”と言われれば、直すであろう。ところがこうした小さな虫歯も慢性化してあまり進行しないことも多く、C0と呼ばれる初期う蝕同様に経過観察しても問題はない。それでも虫歯は虫歯なので、正当性はある。あるいはレントゲン写真を撮ると、“根っこの先に膿みを持っています。根っこの治療をした方がよいです”と言われる、これも痛くなる前にと思い、治療を承諾するであろう。ただこうした根尖病巣の治療はなかなか難しく、再治療しても逆に症状がでたり、病巣の縮小が見られることは少ない。まあここまでは疾患治療として保険でも正当性は認められる。

 最近では、こうした治療に該当する患者も少なくなり、今度は金属のインレー、クラウンを白いものに替えるように勧める歯科医が多くなった。当然、保険では認められないので自費の治療となる。アメリカでは白いインレー、クラウンが当たり前であるという理由を言う。アメリカでは金属もセラミックもすべて自費であり、価格差が少ないので白いのを選ぶだけなのであるが。ひどいケースになるとゴールドの適合のよいインレーをセラミックに替える場合もある。セラミックにも欠点も多く、破折しやすので歯の削る量が大きくなること、自然の咬耗がないことが挙げられるし、必ずしも予後がいいとは言えない。むしろインレーについて言えば、ゴールドの方が辺縁封鎖性が高く、予後がよい。

 根っこの治療においても、最近では顕微鏡を使った保存治療を自費で勧めるようだが、これも又、予後がはっきりしない。保存治療の大家、森克栄先生の講義を何度か聞いたが、20年、30年の予後を見た素晴らしいケースを提示していた。もちろん森先生は顕微鏡などを使っていない。若い先生には、そうした長期の観察症例はないため、当然、自分の経験としての顕微鏡治療の根拠はない。確かにこうした新たな器材の発達は、臨床が上手になったという錯覚を与えるが、もっと基本的な技術が確立した後のことであろう。

 歯科医より“歯科治療を勧められた場合は”、長年、通っている歯科医の場合は、経過観察を見て治療を勧めるのであるから、それに従う方がよい。一方、新しい歯科医院に行き、主訴である歯の治療以外の他の歯の治療を勧める場合はその根拠を十分に聞くべきである。納得できない場合は、経過観察(様子をみる)して、進行が確認できてから検討しても遅くない。がんとは違い、歯の疾患は数ヶ月待っても問題となることは極めて少ない。ましてやインプラントや矯正治療などについて、治療、契約をせかす歯科医院は、やめた方がよい。

2018年8月9日木曜日

大型カメラフィルムからのデジタル化




幼稚園の記念写真(1961年ころ)
上の写真の拡大図、一人横を見ている。もう少しで名札が読める


祖父の葬式(昭和2年頃、1926?)


父、叔父の唯一の子供のころの写真

 “150年前の幕末・明治初期日本”を買ってから、昔のフィルム写真を最新デジタルカメラで撮り直すということをやっている。といっても三脚などを使った正式のデュープ(複製)という大掛かりなものではなく、日中明るい部屋に写真を置いて、それをデジタルカメラで手持ちで撮影するのだ。

 まず娘が結婚し、子供の頃の写真を送れというので、娘のアルバム自体をコピーしようと考えた。一枚、一枚、撮影するのは面倒なので、一ページごと高解像度のカメラ(シグマSD Quttro)で撮影した。結果としてはまずまずであるが、元の写真のピンが甘いのか、デジタル撮影したものをコンピューター上で拡大するとぼやっとしている。昔の写真は、ほとんどミノルタCLEで撮影し、手動によるピント合わせであるが、ピントにはかなり自信があった。当時、スライド(ポジフィルム)で撮影することも多かったので、スライドを映写してピントを確認してからプリントをしていた。ほぼ90%くらいの割合で焼き付けの際に、ピントが甘くなっていた。そのため、ひどい時には3回ほどプリントをし直しをさせたが、だんだんピントが良くなってくる。ただ面倒なこともあるし、ネガフィルムではこうしたこともできないため、機械現像でプリントしてもらっていた。

 これは35mmフィルムの場合、現像所あるいは現像機械の問題によりピントが甘くなることを意味し、それをいくらデジタルカメラで撮影しても、それ以上に鮮明な画像は見られない。そこでもっと古い写真ではと、撮影してみたのが幼稚園の頃の集合写真である。おそらく60年程前の写真である。当時、こうした集合写真には町の写真館の人が来て、大型カメラで撮影した。一枚、一枚、フィルムを木箱から取り出し、それをカメラの背部にセットして撮影した。おそらく8×10インチフィルムあるいはその半分の4×5インチフィルムと思われる。200×250mmあるいは100×125mmに相当する。このサイズになると、プリントにする場合、拡大する必要もなく、ベタ焼き、すなわち直接フィルムからプリントする方法が取られる。そのため焼き付け処置の際の解像度の低下を防げる。

 実際、デジタルカメラで撮影すれば、胸元の名札が読めるほど解像度はよい。さらにもっと前の写真、これは祖父が亡くなった時の葬式の写真であるが、おそらく昭和初期、90年ほど前の写真である。この写真には多くの人物が写っているが、一部、顔が動いている人がいるので、かなり絞りを大きくして撮っているのだろう。かなり手前から奥まではっきり写っている。この写真も非常に解像度は高い。もちろん60-90年前のカメラというと露出はマニュアル、ピントも手動であったし、レンズ性能も今のレンズに劣るのだろう。それでも写真家という高度の技能をもつ職人にかかれば、非常に解像度の高い写真が撮れた。

 このことは35mmフィルムが普及した戦後の写真は数こそ多いが、解像度は低く、大型写真機でプロが撮った写真は解像度が高く、こちらの方がデジタル化の恩恵がより大きいことを意味する。さらにデジタル化することで、最近のIT技術の発展により着色や解像度のアップも図れるようで、歴史的な作品を中心に解像度の高いデジタルカメラでの複写が必要と思われる。個人的に期待するのは、昔の飛行機、船(主として軍用機、軍艦)や風景写真(城、歴史的建造物)などである。今回の“150年前の幕末——”の写真集でも、明治初期の横浜の風景写真から開業当時の横浜駅、蒸気機関車の画像が見つかった。風景写真から拡大した画像からの初めての発見である。同じようなことは他の写真にもあると思われ、早急に国の事業として写真原板あるいはオリジナルフィルムのデジタル化が望まれる。多くの古写真はオリジナルを35mmで複写したり、印刷画面からの複写であり、もともの大型写真フィルムのディテールが失われている。

PS:写真フィルムはプリントすることで解像度は低下するので、ネガフィルムがあれば、それから直接デジタル化する方が理論上、解像度は高い。場合によっては昔、撮ったフィルム写真よりネガフィルムからデジタル化することでよりよくなる可能性がある。







2018年8月5日日曜日

弘前の交通ルール違反







 歳をとると温厚になるといいますが、私の場合、年々、怒りっぽくなり、家内から注意されます。今日も、青信号を家内と二人で渡っていると、向こうから右折車が突っ込んできます。少し雨が降っていたので、傘を持っていたのですが、それを突き出し、乗っているおじさんに罵声を浴びせましたが、全く知らん顔で走り去りました。こうしたことは、それこそ毎週のようにあり、できるだけ信号を渡る場合は、赤信号で待って、青信号に変わってから渡るようにしています。それをしないで青信号になって数秒して渡ろうとすると、向こうから車が突っ込んできます。

 車の視点でみると、右折信号になってから右折すれば、いいのですが、できるだけ早く右折しようとすると対向車のいない間隙をぬって、右折します。本来なら対向車の存在と同時に、右の横断歩道に人がいないかも同時に確認すべきですが、前から車が来る、人が渡っている状況で、対向車にぶつけられる怖さより、横断者がよけてくれる可能性、自分には怪我はしないことから、突っ込んできます。私はいつも通る大きな道では、歩行者同士の間隔が3m開いていれば、その間隙を全速で車が右折していきます。左折車の場合はやや減速してから左折しますが、右折車の場合は全速で突っ込みます。歩行者の場合で、これですから自転車の場合はもっと怖い状況となります。

 横断歩道は、その名の通り、歩道であり、道路交通法でも歩行者優先、一時停止が義務化されています。それを守らない場合は、3か月以下の懲役または5万円以下の罰金となります。実際、東京などの歩行者の多い歩道で一時停車しない車では9000円程度の罰金, 2点の違反点数がつきます。もちろん横断歩道で車と人との人身事故をおこす(青信号)と、怪我の程度にもよりますが全治2週間以上の怪我になりますと、刑事罰となり、罰金刑ですが、前科がつきます。前科がつきますと、履歴書の賞罰欄に「平成3083日 道路交通法違反(人身事故)で罰金刑」と記載しないといけません。私見になりますが、履歴書を見る側からすれば、賞罰欄に前科があれば、その人を雇うことはありませんし、前科を隠すと、後で虚偽申告で解雇することもできます。

 全治2週間というとたいした怪我ではありません。全治15日を過ぎると警察も刑事罰にしないといけないし、罰則点数も高いので、大抵の診断書では2週間とするようです。さすがに骨折の場合は、全治2週間となることはなく、刑事罰となります。昔、インド、中国を旅行していた時のことですが、あちらでは車が一番偉く、クラクションを鳴らしながら車は走っています。その合間に人が通り抜けるのです。インドをバス旅行中、運転手は大麻を咬みながら運転しています。突然、ドンと音がしてバスと歩行者がぶつかりました。運転手は事故にあった歩行者をさんざん怒ってそのまま走りだしました。昔の日本もこんなものでした。



 さすがにこうした事故対応は日本ではもはやありませんが、それでも横断歩道の一時停車、信号無視(赤信号)、スピード違反などは日常に見られる違反です。いずれも現行犯で見つからないと違反となりません。それでも万一、事故になろうなら、場合によっては前科者になるわけで、その影響は一生付いて回ります。単に交通マナーをよくしましょうと言うピーアールよりは、もう少しきつい表現、“あなたも刑事犯になります”くらい言ってもいいかもしれません。昔、次女が青信号の横断歩道を渡っていて、信号無視した学生さんの車に当たられました。幸い怪我も軽くたいしたことはありませんでしたが、その時、警察官から言われたのは“青信号でも左右よく見て渡るように”でした。その時は、何で青信号を渡っているときに信号無視する車に注意しないといけないかと思いましたが、弘前ではと敢ていいますが、青信号で横断歩道を渡る時も必ず左右前方をよく確認して渡るように注意する必要があります。本当に怖い町で、大好きな町ですが、これだけはインド、中国なみです。観光都市、外国人受入れをめざすなら、こうした交通ルール違反にも、もっと力を入れてほしいところです。インド、中国の観光客は何とも思わないでしょうが、欧米の観光客からすれば青信号で横断歩道を渡っている時に、車で突っ込まれるとさぞ驚くことでしょう。

2018年8月3日金曜日

なぞの芳園4

大英博物館の芳園輝の絵

イタリアの骨董店のHPにある香川芳園
Ebayで売って香川芳園


 前回、香川芳園について少し解説した。その後、“香川芳園”でgoogle 検索するもののほとんどヒットせず、以前、ヤフーオークションに出ていた漫画のような屏風とこれも子供のような老人を描いた掛軸しかヒットしない。どちらも大英博物館にある芳園輝“の絵とは明らかに劣るし、どうも画風も異なる。

 その後、”Kagawa Hoen”と英語でgoogle検索すると、大英博物館にスケッチ帳がヒットし、これには動物や昆虫などがスケッチされている。寄贈者は日本美術のコレクターであるコリンウッド大尉(Colnigwood Ingram)である。彼は1957年の”Birds in Japanese art Country Life “誌の中に最初に香川芳園のことを論文に載せている。さらに検索するとイギリスの骨董屋に3つの芳園の作品があり、一つは西山芳園のもの、残り二つの掛軸、一つは冬の田に飛ぶ二羽の鷺、もう一つは城から出る大名行列を描いたもので、二つとも“芳園輝”の作品に画風は近い。またE-bayには芳園“印の雪山の庵に佇む仙人の図があった。印章は”比喜摩呂“これは香川芳園の号”蟾麿“と同じであり、香川芳園の作品と言えよう。

 前回示した屏風の絵からは香川芳園=芳園輝とは全く違うように思えたが、その後、海外にある他の香川芳園の作品を見ると少し香川芳園=芳園輝と言ってもよさそうな気もする。海外に多くの作品が流出し、日本にはあまり残っていないのも、逆にひとつの証拠かもしれない。芳園輝の欧米美術館に所蔵されている絵を見ると、多くの人や鳥が画面一杯に描かれている群集図であり、余白の美というものがあまりない。和室の床の間に飾るには、あまりかき込まれた絵、例えば富岡鉄斎の絵はある時期、うるさいと言われ敬遠された。床の間に飾る絵は茶室も含めてあまり騒がしいものは気が散ってよくない。その点では芳園輝の絵は河鍋暁斎と同じように床の間の絵としては日本人には馴染まず、むしろそうしたセンスとは全く関係のない欧米人の目に止まったのではないかと思える。一方、日本人からすれば西山芳園の絵の方が床の間の絵としては抑えがあり、人気があった。その後、日本では芳園と言えば西山芳園となり、いつの間にか外国人に人気のあった芳園輝は忘れられ、展示物のカタログにも西山芳園と記載されるようになったのだろう。現在、芳園輝、つまり香川芳園の作品は多くの欧米の美術館にあるが、香川芳園とされているものはひとつもない。さらに香川芳園の数点の作品には濱田氏の求めにより描いた”という説明文があるが、この濱田氏というのは外国人コレクターとの仲介者で、芳園は外国人の要望に沿った絵を描いた時期があったのかもしれない。ことに大英博物館、シンシナティー美術館の鳥の絵は何十匹の鳥が描かれ、半ばカタログ的、半ば見本帳のようなものとなっており、少し変な気がするが、これも外国人の要望であれば合点がいく。

 濱田氏というよくある姓から、この人が誰かというのはわからないが、それでも一人の候補者がいる。明治初期、神戸で美術商、輸出業で成功した濱田篤三郎である。彼は明治初期、イギリスのクリストファー・ドレッサーの日本訪問に自費で同行し、欧米との人脈とかれらの好みを知り、日本美術の輸出を行った、さらにすすみ、金工彫や木工の工場をつくり、西洋人好みの精緻な作品をここで製作して輸出した。この人なら外国人好みの題材、構成を画家に指示して輸出用の作品を作ったとも考えられる。

ある程度、香川芳園の資料が集まったら、日本美術の専門家に送って、香川芳園=芳園輝かどうか、意見を聞きたいと思う。同時にジャポニズムの盛り上がりにより明治期、海外の日本美術コレクターに愛された芳園輝の再評価になってほしいし、さらにいうなら美術館で西山芳園と香川芳園をきちんと分けて展示することにより故人も喜ぶことであろう。何十年もの間、間違った作者名として展示されていた絵が本来の作者名になることは美術館にとっても大事なことである。

日本国内では私が昔かった掛軸(偽物のようだが)以外、“芳園輝”、“芳園吉輝”の落款の作品はない。お持ちでいたら是非お知らせください。

2018年8月2日木曜日

なぞの芳園 3

鴨川風雅集より

ビクトリアアルバート美術館


 先日、ある中国人のアートコレクターの方からメールがあった。オークションで手に入れた“芳園輝”の落款のある鴨川の納涼図について問い合わせであった。現在、“芳園輝”の落款のある絵は、大英博物館に3枚、アメリカ、シンシナティー美術館に2枚、さらに今回調べたところ、イギリスのビクトリアアルバート美術館に1枚ある。いずれも見事な作品であり、大勢の人物、多くの鳥といった群集図が得意なようで、構図も見事である。以前から知人のシンシナティー美術館のアジア美術主任のホウメイさんと協議し、これまで芳園輝“の落款のある絵はすべて江戸後期に活躍された四条派の西山芳園と考えられていたが、それとは別の作者の可能性が高いという結論になった。このことは東京大学名誉教授、河野元昭先生も「秘蔵日本美術大観4」の中で、西山芳園と芳園輝”では落款も違うし、何より画風が違うとしている。河野教授は西山芳園より“芳園輝”の方がより近代的であるとし、簡単にいうとうまく、普遍的(国際的)なのである。それが証拠に、名より作品で評価する海外の美術館に多くの“芳園輝”の絵が収蔵されている。大英博物館のように西山芳園自身の絵も多く収蔵されているが、“芳園輝”の絵を集める過程で、西山芳園の絵が混じったのだろう。さらに今回、コレクターが保有する絵が鴨川であることから、鴨川を題材とした西山芳園の作品を検索すると、「鴨川風雅集」(生田耕作編著)が挙った。それを購入すると“芳園写”の落款のある挿絵が本の中に見つかった。構図はコレクターのものと同じである。さらに“芳園之印”という落款を拡大すると、大英博物館、シンシナティー美術館のそれと一致する。初めて“芳園輝”以外の単に“芳園”の落款の作品が見つかった。

 それでは“芳園輝”とは誰だということになり、中国のアートコレクターの質問でもあるのだが、結論はわかないということだ。河野元昭先生は西山芳園とは別の同時期の動物がを佳くした岸派の香川芳園を候補に挙げている。香川芳園は別号を蟾麿というグロテスクな名で、明治期に活躍した日本画家、菊池芳文(1862-1918)の最初の師に滋野芳園という人がいる。この滋野芳園という人も未知の人だが、明治15年の絵画出品目録に「岸派 号蟾麿 滋野芳園 柳陰山水 水辺花鳥 人物 月二振」とある。また香川芳園は「香川芳園蟾麿と号す。京都府上京区西大路町に寄留す宇野助順の男にして香川行徳の養子となる。天保11317日生まれなり。画を望月玉および川越前守岸岱に学び、近江、伊勢、尾張、紀州、摂津などを遊歴し、明治16年、兵庫県の命により同県下川海漁労漁具および産魚の真写二百枚を製す。」とある。蟾麿というには非常にユニークな号であり、他に使うひとはいないので、滋野芳園=香川芳園と考えて良い。

 ところが、この香川芳園の絵も、また西山芳園の絵あるいはそのコピーとなっている。私は確認した範囲で、美術館所蔵の香川芳園とする絵はなく、ヤフーオークションで過去に蟾麿の印章のある絵が3点出典された。いずれもそれほどたいしたことのない絵であり、遠く“芳園輝”の絵に及ばない。作品が少なく、ヤフーオークションのもの自体、香川芳園の偽物かもしれないが、全く名のしれない画家の偽物をつくるだろうか。ただ“芳園輝”の作品は、動物画が巧であることから四条派というより岸派とする河野先生の意見には賛成であるし、香川芳園の師である望月玉川(1794-1852)の名は“輝”であり、師から一字とり芳園輝と号したのかもしれない。

 いずれにしても同時代の同じ名前で、それも画力の劣る作家名で今日も間違えられて美術館で展示されているとすれば大きな問題だと思われる。蟾麿印の作品を探してみたい。

*香川芳園作と思われる絵がヤフーオークションで安く出ているが、あまりいい作品ではない。江戸後期、幕末、明治期の掛軸は本物でも非常に安く、今後も値上がりは期待できないが、老後の楽しみとして、こうした研究対象として、調べるにはいいかもしれない。

香川芳園? 屏風の一部