2007年4月10日火曜日
陸羯南3
今年は羯南の生誕150年、没後100年に当たり、地元弘前市でも色々な記念行事が行われます。商工会議所などが主体として亡くなった9月1日を中心に8/31-9/2まで神奈川大学の復本一郎先生の記念講演やフォーラム、ゆかりの品が展示されるようです。何年か前にも同様な商工会議所でフォーラムがあり、参加しました。その時は羯南を記念し、優れたジャナリストに送る「陸羯南賞」のことが議論されていたが、その後どうなったのでしょうか。ピュリッツァー賞のような権威のある賞になってほしいですし、羯南の名は十分に冠になるに値するものだと思います。
昭和を代表する評論家、丸山真男の陸羯南論に、陸は「後進民族の近代化運動が、外国勢力に対する国民的独立と内における国民的自由の確立という二重の課題を背負うことによって、デモクラシーとナショナリズムの結合を必然ならしめる歴史的論理を正確に把握していたのである。」、「注意せねばならぬことは、進歩的とか反動的とかいう規定は、ある人間が口でどういうことを唱えているかで定まるのではなくして、彼が実践の上でどこまでその主張を貫いたかということが大事なのである。口先では羯南より勇ましいことを叫んでいた民権論者は少なくなかったが、そういう連中は後には、仇敵のごとく罵っていた藩閥政治家と平気で手を握ってしまった。それに比べると羯南は抽象的理論で示された限りの進歩性はそのまま彼の現実問題に対する批判において保持された。『日本』新聞が伊藤、黒田、山県、松方、桂等の歴代藩閥内閣に対していかに果敢に抗争したかということは、それが明治二十二年より明治三十八年までの間に、合計三十一回、二百三十三日に及ぶ発行停止を喰っていることからも推察されよう。」
陸の国民主義は単純なナショナリズムに迎合するわけでもなく、過激なリベラリズムに組みするものでもなく、両者の主張を認めながらも国としての節度と品性を求めたようである。
陸は50歳という若さで亡くなったが、昭和に入ってからの軍やナショナリズムに迎合したジャーナリストの終焉を見なくてかえって良かったという気もするし、生きていればもう少しましだったかとも悔やまれる。
羯南の反骨の精神は、今の時代こそ必要なもので、陸羯南賞の早期の設立を希望します。
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5 件のコメント:
はじめまして。北京日本学研究センター修士課程の朱艷秋と申します。現在京都大学法学研究科で短期留学しています。
陸羯南の国際認識に興味があり、卒論をそれに関して書いてみたいと思います。陸の清・韓および西欧への旅は必ず彼の国際観に一定の影響を与えたはずだと考えておりますが、それに関する資料はなかなか見つからないという状況ですが、弘前においてはその資料はございますでしょうか。
突然なメッセージ申し訳ございません。ご返信期待しております。よろしくお願いいたします。
陸羯南研究会というのがあり、そちらの方で積極的な活動をしていますので、私のブログでは陸羯南については少ししか触れていません。検索し、関係者に問い合わせてください。また弘前市立図書館に直接、問い合わせててもよいでしょう。佐藤さんという職員が丁寧に対応してくれます。もう少し、詳しい情報いただけるとご協力できるかもしれません。直接、私のアドレスに連絡ください。
hiroseorth@yahoo.co.jp
こんにちは。
頂いたメールアドレスにメールをお送りいたしましたので、よろしければご覧下さいませ。よろしくお願いいたします。
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hiroseorth@yahoo.co.jp このアドレスにメールをお送りしました。ご確認お願いしたします。
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