2013年5月30日木曜日

近所の不発弾騒ぎ



 今週の火曜日、帰宅すると家内が「ビッグニュースよ」と叫ぶ。何のことかと聞くと、二軒隣の家の解体工事中に不発弾が発見され、大騒ぎになったという。

5月29日の東奥日報によれば、 
 28日午前1040分ごろ、ごみ回収業者が砲弾のようなものを発見。従業員の通報が弘前署に通報し、連絡を受けた青森市の陸上自衛隊第9師団の弾薬処理隊員が午後1時58分に回収した。旧日本軍の砲弾と見られ、内部は火薬のない状態で爆発の危険はないという。砲弾のようなものは先のとがった円筒状の金属製で、長さ30cm、直径7.5cm、灰色でところどころ赤くさびている。同師団広報によると、旧日本軍の75mm砲弾の可能性が高い。1936(昭和11年)年製の刻印があり、発射された痕跡が見られるという。鉄くずと同様に廃棄処分する予定。同署は28日正午から約2時間、現場付近を通行止めとして、近隣住民には自主非難を呼びかけた。

 新聞には発見された砲弾の写真も掲載されていたので、ちょっと調べてみた。手元に「大砲入門」(佐山二郎著 光人社NF文庫)があるので、これをもとに解説したい。
明治初期の日本陸軍の野砲は7cm8cm7.5cmが主力であった。これは野砲、砲弾とも馬あるは人力で運んだため、重量に限界があったからであろう。ちなみに明治六年に採用された克式(クリップ式)七センチ半野砲の重量は800キロ、最大射程距離は五千メートル、発射速度は六、七発(分)、三頭の馬で運んだという。その後、日清戦争で活躍した七センチ野砲(口径75mm)では、重量も690キロと軽くなった。日露戦争になるとより威力の大きな口径の大きな砲が用いられるようになるが、三十一年式速射野砲(75mm)は重量908キロ、発射速度は七発、最大射程距離は6200メートルとなっている。製造はドイツのクルップとシュナーダー社である。太平洋戦争でも使われた。明治40年には、砲身長後座式、すなわち砲弾発射の反動を吸収する装置がついた三十八年式野砲を採用することになった。重量は947キロと重いが、発射速度が二十発と飛躍的に伸びた。これもクルップ社製である。これを見ると、どうやら日本陸軍はこと大砲に関しては、ドイツ、主としてクリップ社に頼ってようである。

 昭和になると、威力に重点が置かれるようになり、九十式野砲(75mm)になると重量は1400キロ、射程距離は13890メートルとなった。この重さになると馬では牽引できる重さでなく、本来は各種の牽引車で運ばれることになるが、日本軍では最後まで馬での牽引しかできなかった。そして射程を犠牲にしても重量を軽くしたのが、九十五式野砲(75mm)で重量は1108キロ、射程距離は10700メートルである。それでも馬6頭による牽引であった。砲弾の担送、また砲の操作も、すべて人力で、体格の劣る日本人には野砲隊は大変であったろう。日本陸軍の主力野砲は、最後まで改良三十八式野砲と九十式野砲であった。

 話は戻るが、この近所の不発弾、信管がないので形状からは同定しにくいが、先端がとがっておらず、どうも90式榴霰弾と思われる。榴霰弾は内部に散弾が詰まり、対人殺傷をねらったものである。こういった信管、火薬のない砲弾を集めているミリタリーコレクターもいるようで、こういったコレクターも亡くなり、家の隅にでも置き、忘れ去られると、将来、このような騒動がおこるかもしれない。コレクターの方は気をつけていただきたい。

2 件のコメント:

かがわ さんのコメント...

いつも楽しく拝見させてもらっております。
報道での「砲弾」を「爆弾」と当初勘違いしまして 弘前は空襲なかったのに?と不思議に。
ただ 鉄砲軍刀鉄兜をはじめ軍服やら細かいものでは薬莢まで 昔はどこかの家から出て来たものです。知人の家の解体の際には機関砲(?)の銃弾箱と思わしき箱が出て来ましたので まあこれも有りかな?と。
ともあれ 東京在住時代には 近くの駅舎工事の際 爆弾が見つかり 半径一キロ(?)の住民は撤去作業中は避難させられたものですから ひさびさにドキリとしたものです。
空襲被害地では まだまだある事なのでしょうが…。
沖縄は 爆弾処理の出動は凄いらしいですし。

広瀬寿秀 さんのコメント...

信管がなければ、こんな大騒ぎしなくてもよさそうな気もしますが。
確か不発弾に対する自衛官の特殊勤務手当は5000円、危険性の低いものは1時間、110円だそうですが、今回は後者になるのでしょう。