青森県近代文学館で、昨年末より“今日出海展—直木賞受賞から70年—”が開催されていたので、行って来た。というのは、この展示会では、私の書いた“明治二年弘前絵図”と“慧相 「今東光と津軽の人たち」”の二点が参考文献として展示されていると知ったからである。今日出海さんについて、ブログでは少し触れたぐらいで直接記述したことはないが、兄である今東光との兼ね合いで展示されたようだ。
著作権の関係もあり、展示会での写真撮影は禁止されていたが、著者が撮影しているので、黙って撮影してきた。申し訳ありません。会場の最初のコーナーで展示されており、今日出海の父、武平の生まれたのは弘前市山下町であるが、“明治二年弘前絵図”のこの部分のページと、“今東光と津軽の人たち”の家族の写真のページが載っていた。ただ慧相には今家の詳しい系図が載っているので、それも含めて父、武平、母、あやのことなどももう少し説明が欲しかった。この展示会で面白かったのは、今東光、日出海兄弟は、父母ともに家では津軽弁を使わなかったので、標準語が家族の会話であったという点である。武平、あやとも生粋の津軽人であり、武平は函館の商船学校で学び、外国航路に勤めていたこと、転勤も多かったこと、あやも函館の遺愛女学校を卒業したとしても、家庭で津軽弁を話さないのはおかしい。一方、あやはお手伝いさんを必ず津軽から呼び、その人との会話から日常的にも津軽弁を使うようになり、今兄弟もおそらく津軽からの今家への来訪者の会話を聞きながら、津軽弁、特に聞く能力を高めていったのだろう。展示では、文藝春秋の関係者を弘前市役所に連れて行き、市長の津軽弁を日出海が通訳したというエピソードを載せている。ただ日出海が文化庁長官になった後も、津軽から来たと受付に言うと、直接、長官室に連れて行かれとくらい、津軽を愛していたようだ。今兄弟も、夏休みになると弘前に帰省し、母親の親戚筋に当たる伊東家にはしばしば行っている。
今東光、日出海兄弟は、結果的には二人とも小説家になったが、その履歴は対照的である。今東光は、関西学院中等部の三年生で早くも女性問題で退学となり、その後、兵庫県立豊岡中学校に転校するもここでも女性問題で退学となり、以後は独学である。それ故、最終学歴は小学校卒業となる。一方、日出海は神戸一中から東京、暁星中学を四年修了で卒業して、旧制浦和高校、そして東京帝国大学フランス文学部を卒業する。その後、おそらくは母親の希望で、法科に入り直すが、そこは退学し、少しずつ演劇、文学の方向に進んでいく。最初の著書「大いなる薔薇」が出版されたのが1940年であるので、兄、今東光の文壇デビューが1925年だから大分遅い。今兄弟が実際、仲が良かったかはわからないが、母親のあやからすれば、長男の東光は、問題児であり、悩みの種であったが、逆に日出海は自慢の息子だったのだろう。ゆくゆくは大学の教授か、外交官になって欲しかったのだろうが、それが悪たれの兄と同じ、小説家になった時はさぞかし落胆しただろう。一方、悪たれの兄、東光が僧侶になったのは、母からすれば、意外であったろう。最終的には今東光は中尊寺貫主、参議院議員となり、また日出海も文化庁初代長官となり、兄弟とも母親の願いにかなった。今綾は函館、遺愛女学校の4回生で、学校生活を通じてキリスト教に傾倒し、信者にはならなかったが、生涯、聖書を離さなかった。日出海はキリスト教徒となったが、東光は天台宗の坊主と、これも母親に逆らっている。ただあやにとって最も愛したのは、何でも自分に反抗する悪がきの東光であったような気がする。弟の日出海にすれば、その愛を少しでも自分に向かせようと、エリートコースを歩んだのだろうし、また兄、東光の破天荒な生き方にも憧れがあっただろう。
今回、現代文学館で今日出海を取り上げ、その企画展をしてくれたことはありがたいが、アマゾンで検索すると今日出海の本は全て絶版で、古書店以外の通常の本屋では売っていない。悲しいことでが、今の若い人にとっては、今日出海は忘れられた作家なのだろう。私自身、これまで読んだ作品は“私の人物案内”、“隻眼法楽帖”、“天皇の帽子”などを読んだが、これを機会に他の作品を読むことにしよう。
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