2020年1月12日日曜日

菱川やす 写真館 木脇その

菱川やす 10歳

ミニー ヨコハマの女性宣教師メアリー・P・ブラインとグランドママの手紙(安部純子著より引用、2000年、EXP)

ミニー 同上より引用

メアリー 同上より引用

 2019.3.2のブログ“菱川やす4”でInterserve USAが保管する“菱川やす 10歳”の写真を提示した。椅子に腰掛け、片方の草履が脱げても気にせず、前をしっかり向いた気の強そうな女の子が写った写真で、1872年頃のものと思われる。人物の右にある丸机に広げられた花柄のカバーは撮影された写真館を同定する有力な証拠と思われ、明治5年の日本での写真を調べているが、一致する作品はなく、いまだに撮影された写真館がわからない。

 明治初期の写真、それもじっと座っていられない子供を撮影した写真にしては、ピントも綺麗に入って、いい写真である。かなり技術力の高い写真家が撮ったものと思われる。菱川やすは明治5年(1872)に横浜にできたアメリカミッションホームの最初の学生の一人で、出身は名古屋とされている。写真が撮られたとなると、入学後に横浜で撮られた可能性が高い。横浜といえば、日本写真草創期の写真家である下岡蓮杖がまず思い起こさせる。下岡は幕末に写真術を学び、文久二年(1862)に横浜で写真館を開業する。そして明治15年に浅草に転居するまで横浜で写真館を営んでいた。下岡の弟子、鈴木眞一が横浜で開業するのが明治6年、白井秀三郎も同じ頃なので、明治5年にはまだこれら弟子の写真館はない。これらから考えると明治5年の菱川やすの写真は、下岡蓮杖の写真館で撮られた可能性が高いが、それでも下岡のスタジオには最初述べたような花柄のカバーをしている丸い机はない。

 安部純子著“ヨコハマの女性宣教師 メアリー・P・プラインと「グランドママの手紙」”(EXP2000)を読むと、同じような写真が3枚見つかった。いずれもアメリカンミッションホーム(横浜共立学園の前身)の生徒を写したものだが、一枚は菱川やすと全く同じ構図で写真の右には花柄のカバーで覆った丸い机があり、その横に短髪の少女が立っている。キャプションにはミニー Minnie King”とある。明らかな白人ではないが、明治初期の日本人女子でここまで短髪の少女がおらず、アメリカンミッションスクールの開設目的、混血児の教育という点から、この少女も混血児であるのかもしれない。2枚目の写真は“小さいミニー Minnie Harvey”となっており、背もたれが丸い椅子の横に白人の幼女が和服を着て、指をくわえて写っている。かなり小さく4、5歳くらいであろうか。3枚目の写真は、これも菱川やすの写真と同じスタジオで撮られたもので、テーブルの上には果物とカゴ、そして洋書が載っている。菱川よりは年長、1314歳頃の少女が写っており、”メアリー Mary Reed“となっている。混血児ではない。この3つの写真が同時期、同じ場所で撮影されたとなると、2番目の写真の背もたれが丸い椅子も写真スタジオを同定する参考になる。

 手元にある「150年前の幕末・明示初期日本」を見ると。オーストラリア人、ブルガーが集めた下岡蓮杖写真館コレクションが載っているが、そこには2番目の写真に使われたと思われる背もたれが丸い椅子が写っている。おそらく2番目の白人の少女写真は下岡蓮杖のスタジオで撮られたのであろう。そうすると残り2枚の写真も同じ写真館で撮影されたのだろう。下岡蓮杖のスタジオは、床が絨毯のものとゴザ張りのものがあるが、ゴザ張りのものが近い感じがする。また丸い机にかけた花柄の覆いは似たようなものがあるが、はっきりしない。時代は明治5年前後のコレクションが多く、ミッションホームの写真と時代は一致する。

下岡蓮杖は、病弱であった妻を治療してくれた医師のジェームス・ヘボンを通じて、宣教師のバラやブラウンなどと交流があり、ブラウンの家の隣にあったアメリカミッションホームについてもよく知っていたのであろう。実際、下岡自身も明治6年にはバラにより設立された横浜海岸教会で息子と一緒に洗礼を受けている。明治初期、写真はかなり高価であったが、こうした下岡の教会活動への理解があり、おそらく無料で撮影したとすれば、こうしたホームの子供達の写真があることに合点がいく。

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 安部純子著の本には(P87)には、1873516日のブラインの手紙に「(バザーの)売り子は、ミニー、ソノ、ファニーとアンだったり、次にはサケ、ベッシー、メアリー、ハンナとナイナ、それからジュリーとイーロ、カイとハル、あるいはマーベルとマミー、そしてキク、マギー、ヤス、スィエというような順番を勤めました」の記載がある。ミニー、マリーは写真の人物だろう。ソノは木脇その、サケはおそらく水上せき(Sake)、ハルは北川はる、ヤスは菱川やすのことである。カイ、キク、スィエ(スエ)は日本人らしいが、苗字はわからない。菱川やすは1973年、明治65月にはすでに混血児の子供たちと一緒に共立女学校にいたことがわかる。木脇そのについてはほとんど無名であるが、安部さんの本には詳しく記載されているので引用する。

「2週間ほど前に、おそのは母親に会いに出かけました。おそのの父親は裕福な貴族でしたが、後に財産を失ってしまいました。しかし、ここではそのようなことで、人の性格や地位を変えることはありませんから、父親は以前と変わりなく尊敬されていました。台湾と戦争が始まった時、父親は陸軍の高官として台湾へ出征しましたが、二、三週間後に熱病に罹り、現地でなくなってしまいました。かわいそうに、残された母親は独りで家計を支えることが難しくなっていました。おそのが帰宅した時、西郷将軍から使いが来て、おそのと母親は西郷邸を訪れました。将軍は台湾遠征軍の指揮官で、おそのの父親とは親しい友人でした。将軍は、おそのに色々質問をして、どのくらい勉強しているか試しました。おのそが本を読み、歌を歌うのを聞いて、将軍はたいそうご満悦の様子で、おそののように英語をきれいに発音する日本人は知らないとおっしゃいました。その上、おそのが先生となる時には、薩摩で一番立派な女学校を任せようと約束してくださいました。 略 おそのが私たちのホームに来たのは二年半前にことでした。片言の英語も知りませんでした。母国語さえも、ほんの子供の会話程度のものでした。現在、11歳を少し過ぎたばかりですが、勉強では、アメリカの学校の同年代の子どもより遥かに勝っています。朝の英語のお祈りを読むのも、同室の誰よりも流暢です。」(1875.1.18のグランドママの手紙)

「きのわきそのさんは、おませで、愛嬌があり、可愛らしく、目立った少女でした。父親は西郷将軍の大変親しい友人で将軍のもとで郷士のために尽くしました。おそのさんが私たちのところにきたのは8歳の時でした。それから生徒として、先生として、特別な助手として24年間もここにおりました。」

「木脇そのの卒業年は1882(明治十五年)である。WUMSにはこの年の卒業について詳しい報告がある。式は531日に挙行されJH・バラが祝辞を述べた。卒業試験は東京、横浜から集まった大勢の来賓の前ですべて英語でなされたが、木脇そのの作文は文章、内容ともに素晴らしく賞を受けた。」

 台湾出兵で亡くなった鹿児島県出身の木脇姓は、木脇菅次で明治71018日に長崎で病死している。部隊名としては不詳 都督府出仕となっている。近衛都督の軍人として台湾出兵し、そこで熱病に罹り亡くなったのであろう。島津家の古い家臣、木脇家に連なる人物であろう。

* 故、安部純子さんのご本から無許可で写真を使用させていただきました。安部さんの素晴らしい著書を多くの方に知っていただければと思います。なおミッションホームの写真は、Archives of the Billy Graham Center, Wheaton, Illinois の所蔵、提供とのことです。


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