2020年3月5日木曜日

阪急塚口駅の思い出

再開発前の阪急塚口駅の南口

向こうホームの左のアベックの少し前あたりが定位置であった


 私が阪急塚口駅を利用し始めたのは、中学校に入ってからだ。尼崎市東難波町の私の家から神戸の六甲学院に行くには、一つは阪神尼崎駅まで歩いていき、そこから今津駅で阪急今津線に乗り換え、阪急西宮北口から六甲駅に降りて学校に行く方法と、もう一つは家から東難波のバス停に行き、尼崎市バスで阪急塚口、そこから普通電車で六甲駅に行く方法である。バスを使った方が乗り換えも少なく、時間も短いため、この通学路を利用した。

 朝の630分くらいに起き、顔を洗い、歯を磨き、朝ごはんを食べて640分くらいにはバス停、645分くらいのバスに乗り、阪急塚口に行った。今でこそバス停は駅のそばにあるが、再開発前の塚口駅の降車は駅前であったが、乗車は駅から少し離れたところにバス停があった。塚口駅は北口と南口があり、それぞれの入り口からは商店街があって多くの人で賑わっていた。今は南口の方は再開発され、大きなテナントビルが建ち、あまりに変わりすぎて昔の記憶がでてこない。その点、北口の方がまだ昔の記憶が残る。

 阪急塚口駅そのものはあまり変化がなく、通学していた50年前と変わらない。もちろん乗車券売り場など細部はかなり変わっているが、駅の基本的な構造は同じで、駅の構内にある阪急そば(前は完全な立ち食いそば)もそのままだし、駅の柱の位置も変わらない。電車に乗る位置は中学高校通して全く同じで、伊丹線からの地下通路の登り口付近、電車でいうなら後ろから3両目くらいのところであった。塚口駅から私一人、次の武庫之荘駅からもう一人、西宮北口から3名ほど、その後、夙川、芦屋川から友人が乗り合わせいつも7、8人で騒いでいた。このメンバーは6年間、ほぼ同じメンバーで、それも通学友達というようなものだった。学校ではサッカー部や同じクラスの友人がいて、帰りもまたいろんな友人と帰った。小学校と違い、住まいが離れていたので、あまり友人に家に行くことはなかった。

 沿線には神戸女学院、小林聖心女子学院や宝塚音楽学校の生徒も乗っていたが、西宮北口で降りたのであまり記憶にない。いつも電車で一緒だったのが、甲南女子中学高校、芦屋女子中学高校(現芦屋学園、共学)、海星女子学院である。男子校は甲陽、灘中学高校共に阪神沿線だったので、阪急沿線は関西学院と六甲学院くらいであった。毎日、同じ車両に乗っていると女子中学生、高校生も同じメンバーになることがあり、次第に気になる子が出てくる。友人のY君などは大学卒業後、洋酒メーカーのS社に入ったが、数年して、その会社の新人女子社員から“あなたに憧れてこの会社に入りました。通学電車で一緒でした”と告白されたことがある。私の頃は、今と違い、女の子を意識していても話しかけることなどなく、何もないまま6年間を過ごした。家内や二人の娘は公立の男女共学校に行ったので、こうした意味では羨ましい。

 いまだに記憶しているのは、高校二年の頃、一人の背の高い甲南女子の中学一年生が塚口駅から一緒の車両に毎日乗ってきた。もちろん高校二年生と中学一年生ではあまりに年齢差が大きく、妹のような存在で、この子は大きくなると綺麗な人になるなあとは思い、気にはなっていた。ある日、いつものホームの定位置よりだいぶ手前に一輪の赤いカーネーション(バラ?)を持って彼女が立っていた。映画のようなシーンであったが、それ以降、なぜだか彼女はこの時間の電車には乗らなくなった。その後、大学に入ってからも気になり、帰省した折、神戸に行く時は家から近い阪神電車に乗らずにわざわざ阪急塚口から行くようにした。どこかで会える気がしたからだ。こうした願いが通じたのか、大学六年生のころ西宮北口からの普通電車の二人おいた席に彼女がいた。驚くほどスタイルのよい綺麗な大学生になっていて、彼女も気づいた様子だったので、塚口駅に着いたら声をかけようと思ったが、駅に着くやいなや、あっと言う間に走り去ってしまった。これ以降、もう神戸に行くのに阪急電車は利用しない。家内にこの話をすると、男の人はバカだなあ、女の子からすれば変な人に声をかけられそうでイヤで逃げただけよと言われたが、なるほどそうかもしれない。家内とは5歳違いで、今ではもう年齢差は感じられないが、それでも高校二年生の時の自分と中学一年生の時の家内を空想すると不思議な感じがする。

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