2020年5月5日火曜日

中島らも



 2004年に亡くなった小説家、劇作家の中島らもさんと広瀬家も少し関係がある。うちの父は、徳島県より上京して東京歯科医専(現在の東京歯科大学)に入学した。昭和172月の学徒出陣で入隊し、終戦時はソ連国境の第148師団司令部付の少尉として勤務していたが、ソ連の捕虜となり、モスクワの南にあるマルシャンスク収容所に昭和23年6月までいた。帰国後に結婚し、大阪の守口から神戸の歯科医院に通勤して働いていたが、尼崎市立花で開業していた東京歯科医専の先輩である中島先生、らもさんの父親から声がかかり、立花の診療所で勤務することになった。中島先生が少し調子悪くなり、歯科治療も難しくなったために父が手伝うことになった。住まいも尼崎の立花に移した。その後、私が生まれた昭和31年頃に、中島先生の分院である東難波町の診療所で広瀬歯科医院を開業し、その2階を住まいとした。中学に入る頃には診療所から10mくらいのところに自宅を建て、私は大学に入る19歳までここで暮らした。立花に勤務してから母親は中島先生の奥さんと親しく、東難波で開業後も、テナントとして借りていた関係で、立花の中島家に行くことも多く、幼き頃の中島らもさんにも会っている。中島らもさんは小さくて細い頭の良い子供で会ったが、なかなか難しい子で、母親はかなり心配したようであった。

 お父さんの中島先生は気まぐれで難しい人であったが、母親は本当にいい人で、難しいお父さんの面倒をよく見たようだ。晩年はリューマチのため歩行が難しくかったが、それでも炊事などは一人でしていたようだ。いつも破天荒な生活をする中島らもさんのことを心配していた。中島先生は豪快な先生で、私のところの診療所も父が亡くなるまで家賃は月1万円の格安で、ずいぶん助かった。東難波の診療所は、建坪はわずか13坪ほどで、一階が歯科医院で、細長い待合室があり、歯科チェアーが一台、その奥にレントゲン室と技工室があり、さらに奥に四畳半くらいの和室が台所兼食堂となった。その後、便所の横の畳一畳くらいのところに風呂を作ったが、この狭い空間にどういう間取りであったか記憶もゴチャまでになっている。和室から二階には45度くらいの急角度の階段があり、二階には六畳の部屋が二つ、その後、増築して3畳くらいの部屋を二つ作った。ここに両親と姉、兄、私と祖母、お伯母さんの七人がいて、その後、祖母が亡くなり、伯母さんが結婚すると、徳島県よりお手伝いさんが来て、一階の和室に住み込んだ。

 私が中学生になると流石に診療所の二階での生活は狭く、住まいを探すことになった。母親は西宮、仁川に家を建てようと考えていたが、父親は尼崎で飲みに行けないことから反対し、そのうちに、診療所から10mくらいのところに20坪くらいの土地が売り出されたので、ここを買い、家を建てた。新築の家は西洋式のトイレで、なかなか大の方ができず、毎日毎日二年間、大の度に診療所の便所に通った。

 中島らもさんは、1952年生まれ(昭和27年)で、私の4歳上になるが、中学校受験のために神戸の本山第一小学校に転校したが、阪口塾のような中学受験塾がようやくできた頃で、知らなかったのであろう。奥さんは神戸山手女子短大だったそうで、うちの姉と同じ学校である。確か、らもさんのお兄さんも歯科医で、核戦争を恐れて家の敷地に核シェルターをこしらえたと聞いたことがあるが、当時は変わった人だと思ったが、コロナウイルスのような想定外のことがあるので、あながちおかしなことだとは最近では思わなくなった。らもさんの映像を見ると、典型的な阪神地域の関西弁で、それも本人は標準語を喋っているように思う変形型である。他には同じく尼崎生まれのダウンタウンの松本人志や放送作家の高須光聖に近いイントネーションである。

 本当にもうすこし生きて欲しかった。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

広瀬院長様

先日はブログにコメントを有難うございました。
お勧めの「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」を先日見ました。
切ない映画ですね。何度か見ないと理解できていない所がありますが。
「坂道のアポロン」に出ていた小松奈々がヒロインでしたね。

神戸も緊急事態宣言が解除になりましたが、もう昔?には戻れないんだなぁと
悲しく思います。
これからは、with コロナで暮らしていかなければならないんでしょうね。

去年お世話になって、森本先生との同窓会が出来てよかったとつくづく思っております。

お父様と、中島らもさんのお家の話、とても興味深く読ませて頂きました。
ブログを読んだ後、昔読んだ「明るい悩みの相談室」を読み返したくなって、
本箱中探し回りましたが、出て来ませんでした。
もう一度読みたいのに何処かで失くしてしまったようです。

                       ねこ吉

広瀬寿秀 さんのコメント...

最近、中島らもさんの本読んでいます。昔の神戸の話が出ると大変懐かしくなります。
ビッグ映劇は中高時代によく行きました。
少しづつ日常に戻るのを期待します。