2021年11月7日日曜日

男女の相性2

 


 昔といっても、私の姉の時代、1970年代までは結婚はお見合い結婚でする場合が多かった。確率で言えば、50%がお見合いで、50%が恋愛結婚で、姉は見合い、兄も見合い、私が恋愛結婚であった。母や父の時代、昭和20年代で言えば、ほぼ90%が見合い結婚で、残り10%が恋愛結婚であった。

 

 母親の実家の徳島県脇町で言えば、中継ぎの婆さんがいて、町内に好きな人がいると、その婆さんに両家の間を持ってもらう。無事、結婚すれば、婆さんに仲介料が出るようなシステムがあった。これなど恋愛と見合いをミックスしたようなものであるが、両家の家柄があまりに違う場合は、この婆さんが結婚は無理だと断っていたようだ。

 

 お見合い結婚といえば、まずお互い写真だけで選び、お見合いをして、せいぜい3、4ヶ月、付き合って結婚する。もちろん通常、その間、肉体関係はない。普通、考えれば、お互い愛し合って結婚する恋愛結婚の方が、知らないまま結婚する見合い結婚より離婚は少ないように思えるが、周りを見渡してもそういうことはなく、むしろ恋愛結婚の方が離婚率が高いように思える。

 

 吉村昭さんの小説「落日の宴」は、徳川幕府の幕臣、川路聖謨の一生を描いた名著であるが、川路はその生涯四人の妻を持った。勘定奉行という幕臣の中でもトップに近いポジションであり、日露和親条約などに大きな業績を上げた人物であるが、性格は極めて真面目で、鍛錬を欠かさず、カゴに乗れる身分でありながら、徒歩による移動を好んだ。性格も素晴らしい。

 

 最初に妻、エツと結婚したのが、川路19歳の時で、エツは2年後に病死した。その後、22歳の時に、二番目の妻、やすと結婚し、長男、長女、次女を生み、穏やかな生活が続いた。ところが川路の昇進につれ、もともと男勝りのやすは、川路の公務を補佐する用人に厳しい命令をするようになり、川路もこうした妻の態度をたしなめたが、言うことを聞かない。次第に家の中の雰囲気が暗くなり、用人、中間が次々と辞める事態になると、堪りかねて離縁した。その後、結婚はこりごりと感じたが、さすがに四人の子供の世話を実母に任せるのは困難となり、今度は温和な性格の女性を、と望み、三番目の妻、カネと結婚する。ところがカネは口数が極端に少なく、一日中、庭を眺めているような性格で、多くの雇い人に指示することもなく、父母、子供の世話もしない。流石にこれはダメだと、またもや離縁する。度重なる結婚の失敗は自分に非があると考えたが、家のあまりの状況に見かねて知人が紹介して結婚したのが、サト(佐登)である。この最後の妻、サトとは生涯、最愛の仲の良い夫婦となった、川路が奈良奉行の時に、女が夫以外の男と関係を持ち、そのもつれで女が夫を殺すという事件があった。川路がどんな美女かと想像していると、白州に現れた女はまれなほどの醜女であった。自宅に帰ると、川路は妻に前に座り、何度も有難や、有難やと頭を下げ、頭が狂ったかと皆に思われたが、川路曰く、美しいサトと妻にしているのがもったいないとさらに頭を下げつづけた。用人はじめ、皆のものが大声で笑ったというエピソードがある。旅先からはまめに妻に手紙を最後まで出し続けた、

 

 川路のように四人の妻を持つことはまれなことであるが、最終的に、本当に相思相愛の仲の良い夫婦になったのはそのうちの一人であった。おそらく恋愛結婚で、激しい恋をしたとしても、最後まで仲睦まじく添い遂げるのは四人に一人くらいで、これだけは運の良し悪しで、相性としか言いようがない。全く生まれも育ちも違う者同士が、死ぬまで相思相愛でいるのは相性が本当に良かったのだろう。


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