2022年1月9日日曜日

映画「りんご園の少女」のロケ地を検討する

美空ひばり主演、挿入歌の「りんご追分 」で有名な映画「りんご園の少女」は昭和27年(1952)に弘前ロケで製作された。前回、「石中先生行状記」では登場シーンをスクリーンショットで動画から取り出して、説明したが、同じように「りんご園の少女」もYoutubeで全編公開されているので、映画に出てくる弘前ロケシーンを解説する。


まず最初に出てくるのが、禅林街の長勝寺の門前で、美空ひばりがりんご園から馬車に乗って登場する。大きな木は樹齢800年を超える太郎杉で、立派なものである。残念なことに平成十年に枯れてしまった。

同じ長勝寺の門前のシーン

画面の向こうに大きな商店がある。久に一のマークがあり、これは上和徳町の久一呉服店であることがわかる。場所は今の青森銀行和徳支店近くである。

どこかの女学校のシーンである。三階建で二階は回廊のようになっている。寒い弘前ではこうした二階が回廊になっている学校はなく、弘前以外のどこかのロケのように思えるのだが。
コメントより黒石尋常小学校の校舎ということが判明しました。それにしても豪華な建物で、なぜ保存しなかったのでしょう。

2代目の弘前駅前のシーン、トテ馬車がとまっている

同じく弘前駅前のシーン



極端に三味線を立て弾く、津軽三味線の祖、白川軍八郎か?
かなり演奏はうまい



弘前城内でのシーンである、すごい人だかりである。当時の大スター、美空ひばりを一目見たいと大勢の人が集まったのだろう。


映画やテレビドラマの中にも弘前の昔の景色が見つかる。戦前、戦後すぐくらいの映画で弘前ロケのものがあるだろうか。映画「おはなはん」は弘前ロケだっというがYoutubeにはない。

PS: 津軽三味線会館の調査により、「りんご園の少女」に登場する津軽三味線奏者は大鰐温泉の工藤瑠次郎という奏者ということです。




10 件のコメント:

pluto さんのコメント...

初めまして。いきなり失礼致します。
地元弘前関係の記事はもちろん、歴史に関するご意見なども賛同できる内容が多く、面白く拝読させていただいております。

映画の中の「弘進中学校」と称される建物ですが、見覚えある気がしましたので、手元の資料(「写真・弘前九十年」1979 弘前市)で確認してみました。
http://tom.sakura.ne.jp/jpeg/HirosakiMeijiKousha.jpg
明治期の時敏小学校の校舎に似ていますが、窓の形や建物の横幅が違うし、この校舎は昭和初期には既に建て替えられて失われており、思い違いでこれではありませんでした。

そこでネットで検索してみたら、一致する画像が見つかりました。
http://blog.livedoor.jp/ukk_1/archives/2012-09.html
明治21年建築の黒石尋常小学校ということです。
3階部分の形状が微妙に違いますが、数十年経つうちには改修される部分もあるでしょうから、この建物で間違いなさそうです。

古い写真を見て、当時の街の景観や人々の生活・意識に思いを馳せるのが好きな私としては、2月の新刊楽しみにしております。

広瀬寿秀 さんのコメント...

コメントありがとうございます。クロイシ尋常小学校で間違いないようです。おそらく黒石小学校の先生もこうした映像があるのは知らないと思います。動画は、単体の写真を何千枚と重ねてもので、画像さえ良けれは、かなりの情報量があります。今回はスクリーンキャプチャーで、一部を取り出しましたが、動いている写真を見られる点では映画はすごいと思います。7番目の津軽三味線の奏者は誰でしょうか。かなりの腕前です。津軽三味線の祖、白川軍八郎にも似ていますが、残っている写真とは少し違うようです。もし白川の演奏であれば、非常に貴重なものだと思います。現在、津軽三味線会館のフェイスブックで問い合わせしていますが、返事はありません。

匿名 さんのコメント...

こんばんは。今夜も楽しませていただいております。
投稿の学校について貼り付けられておりました「空白つれづれ草」のブログと広瀬先生のブログをパソコンのお気に入りに並べて入れている私にとっては、こちらの展開に胸弾むものがありました。
また、三浦行一先生の写真帖に昭和35年と閉校の49年に撮影された黒石小学校の画像を見直しました。
建物から当時の教育を尊重する眼差しが伺え、子供たちにとり学校は憧れの場所であったことを強く感じますね。
これからも投稿を楽しみにしております。
失礼いたしました。


広瀬寿秀 さんのコメント...

こうした素晴らしい建物は、できれば残して欲しかった。隣国の台湾では、文化創造運動という台湾の文化を独自で創造していく運動が活発で、古い日本植民地時代の建物もリノベーションされ、おしゃれな建物に変わっています。この黒石尋常小学校や、本町にあった旧弘前郵便局などもおしゃれな西洋風建築で、今でも残っていれば、大きな観光資産になっていたでしょう。
市町村もなかなか財政難で、古い建物を保存する、あるいはその資金を補助する余裕はないのかもしれませんが、もう少し上の青森県あるいは日本政府が、保存のために何らかの策を設けて欲しいと考えています。

匿名 さんのコメント...

いつも楽しく拝見しております。

この映画の撮影と思いますが、母親に連れられて近所の人達と仏舎利等に行ったのを覚えています。
大人は「あっ 美空ひばり ひばりちゃん!」と大騒ぎでした。

あとリンゴ園のシーンかな 通称「ササヤの牧場」?辺りでもあったと大人から聞きました。場所は今の平岡町の辺りの岩木川河川敷です。

それから写真1枚目長勝寺の大杉の映ってるシーンの奥に、「わらはんどっこの店や」その左に六角堂風な祠が映っていますが、
事故で亡くなった子供の供養堂と。
これについて大人から教わっていたことを記しておきます。
実際見てはおりますが、話は子供だったので聞き間違いありましたら、ごめんなさい。

子供達数人が弘前のリンゴ冷蔵庫?にいたずらで入って遊んでいたら、何かの拍子に扉が閉まって、出られなくなり
全員凍死だったか窒息死だったかしたそうで、
そのもがき苦しむ様子が5〜6体 中央お地蔵様か観音様の立像の蓮華台に一周レリーフで彫られていました。

広瀬寿秀 さんのコメント...

コメントありがとうございます。「わらはんどっこの店」についてはじめて知りました。この事故については、どこかで聞いたことがあり、その供養碑のようなものを見た記憶があります。
”石中先生行状記”、”りんご園の少女”以外にも昔の弘前が写っている動画探していますが、あまりありません。「戦争と人間」で偕行社と弘前城の春陽橋あたりが写っています。

匿名 さんのコメント...

「わらはんどっこのみせこ」興味寄せて頂いて嬉しいです。

ネット上でこの店のサムネール写真見つけましたので、最下段にurlを貼り付けて置きます。
当方の環境では表示出来ますが、履歴とか環境に依存で
辿り着けなかったらごめんなさいです。

それから長勝寺の門を挟んで反対側にも4坪くらいの
フイルムとかおみやげの店がありました。
店の子と幼馴染でしたが、
その後の写真を見ると二階建てのりっぱなお店になっていました。
同じ人が経営していたのかは分かりません。


https://www.pinterest.jp/pin/781163497837518232/

広瀬寿秀 さんのコメント...

長勝寺山門の右にも“仏舎利塔売店”という店があり、ここでもそばを売っていますが、さらにこの店の右にも
蕎麦屋があったのでしょうか。というのは友人の父親が、ここの蕎麦屋の経営者、映画館経営もしていた、と親しく、友人も
ここでそばをよく食べたと言っていました。
また店の立ち退きで、弘前市とずいぶん揉めたそうです。今は何もありませんが、昔は遠足にきたようですね。
コメントありがとうございます。

匿名 さんのコメント...

私の思い浮かべている右側の店ですが、
下に貼り付けた昭和48年頃の写真の蕎麦屋さんと違っています。

時代は昭和38年頃で二階建ての蕎麦屋さんはまだ無く、平屋建てで、もっとこじんまりした店でした、
もちろん住むには小さく、実際経営していたsさんは別に住宅があり通っていました。

店の名前も仏舎利塔売店とか苗字の入った商店名でなく、
つらつら考えるに私の知ってる右の店は「わらはんどのみせやっこ」で、
昭和38年以降に右側の場所を二階建ての蕎麦屋さん仏舎利塔売店に譲って、
左の写真の店に移ったのではないかという気もします。
その時は左の店は店の名前が「わらはんどの・・」じゃなく、また違う人が経営していた?。

遠足も来ていましたし、公園下乗橋みたいにガラス乾板の写真屋さんも居たように思います。
他のサイトに記述がありましたが、長勝寺に定期バスも来ていたような気もします。
(黒門くぐれたかと言われるといささか自信ありませんが)
観光客も沢山いました。
そして、忠霊塔右側から下の樋の口の熊野神社に降りられる小道がありました。


昭和48年頃の写真

https://www.pinterest.jp/pin/781163497837518223/





広瀬寿秀 さんのコメント...

コメントありがとうございます。長勝寺の前門自体、兵隊が並ぶ場所を作るために太郎杉から下げたと言われていますので、こうした門前のおみやげ屋、蕎麦屋は戦後のものかもしれません。今後とも何か気づきましたらコメントください。