昭和2年、金子堅太郎宛の手紙 |
以前ヤフーオークションで入手した珍田捨巳の手紙の内容を知人に解読してもらった。お忙しい中、本当に面倒なお願いをして申し訳ない。以下、全文を挙げる。
拝啓 然ハ一昨夜川田
君ニ御面晤申上ケ一件ニ關
シテハ 早速永山君ニ面会
ヲ遂 本月丈小生代ト
シテ 出校之命依頼致候
處 承諾致呈 本日与り
出校可致積ニ御坐候間 甚
タ勝手次第之御願ニ御坐候
得共 本月丈御賜暇
被成下度 奉願候 持弖 同君
報酬之例ニ献而候 一昨晩
別ニ御相談ヲ申上く候得共 小
生同様壱ケ月九円被下候事と愚
存之仕候 独断な可ら 其
事 相話置候間 左様御取
計被成下候得ハ 幸甚ニ御坐候
萬一右ニ而 振合上 御不都
合ノ廉も有之候ハヽ 不足
分ハ 御申越次第 小生ゟ 別ニ
補充可仕候間 矢張貴
校ゟ 御支給□成候姿之 御取
計被成下為奉願候 此返事
豫□御願上置候
早々頓首
三月九日
珎田
濱田 君
川田 君
大意:一昨夜、川田君に会って、今月だけ永山君を私の代わりに出校して欲しいと依頼したところ、承諾してくれ、本日より彼が出校することになった。給料は1ヶ月9 円ということに勝手にしたが、もし無理なら不足分は私の方から払います。
封筒には「東京商業学校 川田徳次郎殿 永山ギ紹介」となっており、ほぼ私的な内容で、まさかこの手紙が偽書でないと思うが、一応、本で確認することにした、古書店で「回顧百年 東京商業から東京学園へん歩み」(1989)があったので、これに東京商業の初期の英語教師に珍田の名があれば、ほぼ99%、この手紙は珍田の自筆手紙と見なせる。
そこで早速、届いた本を見ると、すぐに見つかった。創立者の浜田健次郎の言に「余は設立者として講師兼ね、もっぱら教務を処理し、自ら選んで、商業史、商業地理、商品誌、運輸交通誌などの新科目の講義を担当し、<略>そうして珍田捨巳氏は英文学と会話を受け持たれた。」(p17)。面白いのは、世界歴史と英文学の先生は小説家の坪内逍遥(雄蔵)であり、珍田とはここで面識があった。東京商業学校の創立は明治22年2月11日で、初年度入学者は159名であった。翌年明治23年には生徒増により神田錦町に校舎を移し、その当時の講師陣に、本科第二学年の会話、英作文講師に珍田の名が見える(p23)。この学校の講師、植田豊橋の思い出として、「珍田君は英会話を担当しておられて、よく教員室でお目にかかり親しくしたのである。当時は外務省の小役人であって、それが大使となり、大臣となり、侍従長となり、また枢密顧問官を兼ね、伯爵を授けられるなどは本校にとっても大きな名誉である」としている(p24)。また今も続く秋田魁新報の主筆となる安藤和風はここの第一回卒業生だが、手記には「日課点をとられる英語の宮川、珍田両講義のほかはあまり出席しなかった」と述べている(p32)。
さらにSF作家の星新一の父、星製薬の創業者、星一はここの卒業生であるが、アメリカ留学の際に東京商用学校創立者の一人、高橋健三からサンフランシスコ総領事珍田捨巳の紹介状を携えたという。珍田がサンフランシスコ総領事となったのは明治23年11月2日であり、手紙の日付は、3月9日であるので、明治22年か23年ということになるが、明治22年というと2月11日に開校してまだ1ヶ月も経たないのに、代行に永山を勧めるのはいかにも早すぎると思われる。むしろアメリカに行く前の明治23年3月の手紙という方がしっくりくる。
珍田の手紙はいくつか残っているが、多くは正式な手紙は楷書で綺麗に描かれている。私的な手紙としては昭和2年に金子堅太郎の送った手紙が、近代デジタルライブラリーで見ることができるが、書体はよく似ているものの、40年近い年齢差があり、完全には一致しない。名前も違うが、書き出しの「拝啓」の「拝」の崩しは同じである。また珍田は「捨己」(すてき)は海外でステッキ(杖)に発音が似ているために、在外勤務時代に名前を「捨巳」(すてみ)に変えた。それゆえ、在外勤務前の明治23年の手紙の署名は「珍田捨己」になっていなくてはいけないが、今回の手紙では「己」となっていて一致する。また珍田が明治22年に東京商業学校で教師をしていた記録は、これまで発刊された珍田の評伝「伯爵珍田捨巳伝」や「ポトマックの桜 津軽の外交官珍田夫妻物語」にもなく、これも証拠となる。
これらのことから、この手紙は珍田捨巳が明治23年3月9日に、東京商業学校の川田徳次郎と浜田健次郎に出した手紙に間違いないと思う。
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