2022年9月11日日曜日

昔の歯医者さん

 



私の家は兵庫県の阪神尼崎駅から歩いて10分ほど、東難波町というところにあり、歯科医院と住まいが一緒になっていた。家の前の道は、今は閑散としているが、1970年代頃までは臨海にあった旭硝子など工場に通勤する人でごった返していた。朝の7時頃になると灰色のユニフォームと帽子をかぶった工員が、それこそざっくざっくという音を立てて、兵隊さんのように行進した。それを見越してか、近所にも多くに店が並んでいた。診療所の南隣にはクリーニング屋が、前には菓子屋があり、北隣りは酒屋、そして道を挟んで牛乳屋があった。三和商店街に向かう道には、他にも外科病院、味噌屋、散髪屋、お好み焼き屋、味噌醤油屋、駄菓子屋、タバコ屋などがあった。多くはこうした工員を目当てにしたものあった。今は老人福祉施設がある一帯は、旭硝子の課長以上の社宅がずっと並んでいた。小さい家ながら門があって、前庭があり、平家の木造の家が十軒ほど建っていた。

 

広瀬歯科医院は、坪数でいうと15坪くらいしかなく、一階、玄関入って左が患者待合室、右が診療室となる。JRの立花駅近くの歯科医院に勤務していた父が、その先生の分院であった東難波の診療所を借りて開業したのは、昭和30年頃で、私の生まれる前であった。診療所には二台の歯科用ユニットとその奥には小さな技工室があった。家族がいるのはこの技工室のさらに奥の和室で、多分6畳くらいの部屋に台所兼食堂があり、家族はそこで食事を作って食べた。またトイレもその台所の横にあり、小学校に入る頃にはそのトイレの横にさらに風呂ができ、よくこんな狭い空間にトイレ、風呂、台所、食堂があったと不思議な感じがする。確かお手伝いさんは夜になるとこの部屋で寝た。二階に行くのは、角度45度の急な階段を猿のように登り、そこにはまた6畳くらいの部屋が2つと、3畳くらいの姉の部屋、そしてこれも小学校くらいに増築した兄と私の部屋があった。ここに両親、姉、兄、私、そして祖母、伯母の計7人が寝ていたからほぼ、布団を川の字に敷いて寝た。すごいのは物干し場で、これは増築した子供部屋に設置された二段ベッドからハッチのように階段をつけて屋根に登っていく。ここに2畳くらいの物干し場があった。一度、この物干し場から隣の家の屋根、さらにその隣と2030m屋根伝いに移動したことがある。

 

昭和30年代の歯科医院というと、まだタービンという高速で歯を削る機械がなく、電気エンジンからベルトを介して歯を削った。回転数が遅く、なかなか歯が削れないので苦労したであろう。円形のダイヤモンドディスクをこの頃は多用していた。患者が来るとユニットに座らせ、足でギコギコ踏んで、高さを調整し、首の位置もハンドルを使って固定する。治療は全て立位で行った。電気エンジンでの歯を削るので、焼けた歯の匂いがいつも診療所にただよっていた。患者はかなり痛かったと思う。朝9時から開始し、昼食、夕食は患者を待たせて食べるくらい忙しかったが、親父一人で全て治療していたので、多分20-30人くらいしか診ていないと思う。抜歯器具は煮沸消毒していたが、探針、ミラー、トレー、さらにコップも患者ごとに変えず、気が向いたときにアルコールガーゼに拭いていた。麻酔も青いガラスの注射シリンジに針をつけ、キシロカイン液ボトルから吸い出し使っていた。今思うと、衛生観念は少なかった。治療自体は今とそれほど変わらず。歯が痛いといえば、麻酔をして抜髄をし、根充をするし、予後が悪ければ抜歯した。ただレジンがなかったので、咬合面に限局したI級カリエスもインレーにすることが多く、その場合はワックスを軟化して、窩洞に直接押し付け、彫刻刀で口の中でワックスアップをし、スプル線を立てて、そのまま埋没して、後日、鋳造した。こうした作った金インレーが50年以上経つがまだ口の中にある。ポストコアーも同様に直説法であった。クラウンの場合は、銅でできた個歯トレーを使って、チオコールラバーゴムで印象をとっていた。仕事は10時頃に終わるが、その後、技工室で鋳造や義歯の人工歯配列などをして毎晩11時頃から、三和商店街に飲みに行き、2、3時に帰ってきた。当時は親父も4050歳代で元気だった。


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