2022年9月19日月曜日

なくなった仕事

 


にしむら文具店だったか?




「失われゆく仕事の図鑑」(永井良和ほか、グラフィック社)には名曲喫茶、バスガール、サンドウィッチマンなど今では見かけなくなった仕事、機会を紹介している。著者の一人、永井良和さんは1960年、尼崎生まれで1956年、尼崎生まれの私とほぼ同世代、同環境に育っているので、ここで紹介された仕事、場所、機械など懐かしい。それでも一部の仕事は抜けているようなので、説明する。

 

1.虚無僧:禅宗の一種である普化宗の僧侶で、尺八を吹きながら旅をする。こうした行為自体が修行となり、托鉢により生活していた。黒に近い紺色の着物を着て、深い編笠をかぶり、一軒一軒の家の門前で尺八を演奏する。そして幾らかの托鉢をもらう。昔、診療所の前で見た時には本当に驚いた。というのは、当時の人気ドラマ「隠密剣士」そのものを実際に見たからである。特に演奏することもなく、そのまま歩いていったが、今から考えると、「隠密剣士」の人気にあやかった可能性もある。まるで江戸時代からタイムスリップして出現したように思えた。

 

2.カタ:素焼きの型に粘土を詰めて、それを取り出し、金粉、銀粉で彩色しておじさんの見てもらう。おじさんは独断でその作品に点数をつけ、上位の作品を店先に並べる。尼崎の家の近所でいうと、難波小学校の横の難波公園、それも公園内にある愛の園幼稚園の横で、年に数度、おじさんが店を開いていた。金粉などは小さな紙に入っていて、確か10円くらい、粘土も10円くらいで、点数をためると本物の素焼きの型をもらえた。大型で、色を多く用いた、金のかかった作品には高い点数がつけられていたが、これが商売であろう。

 

3.ゴム鉄砲:針金で作ったゴム鉄砲は、主として難波小学校の正門前で売られていた。何種類かの型があり、中には連射も可能な鉄砲もあった。おそらく売り物は、売っていたおじさんの手製のものだったのだろう。洋服ハンガーに使うくらいの太い針金でできていたが、買って帰ってもマッチ箱を倒すくらいしか遊べないので、子供達はむしろ銀玉鉄砲の方が好きだった。こちらの方がカッコよく本物感が強かった。

 

4.タバコ屋:昔の大人、男の人はほとんどタバコを吸っていた。親父に頼まれ、近くの散髪屋の前にあったタバコ屋に「いこい」、や「ハイライト」を買いにいった。お釣りはお駄賃としてくれたので、嬉しかった。小さな窓があり、その下には各種のタバコが並べられていた。ガラス窓を開けて中にいるおばあさんに「ハイライト一個」というとおもむろにタバコを出してきた、お金は払い、お釣りをもらう。中のおばあさんはヨボヨボだったが、いつも着物で正座して座っていた。今考えると、それほど歳はとっておらず、せいぜい70歳代だったと思うが、昔の人は平気で長時間正座ができた。当時、タバコ販売は専売制だったので、年寄りの小遣い稼ぎに株を買ってお店を開くことが多かった。タバコ販売のマージンは10%なので、年寄りの小遣い稼ぎとしては割りのいい仕事であった。自動販売機が多くなっても、お札のお釣りが出なかったので、まだまだこうしたタバコ屋があったが、それでも年寄りのためか、五千円札と一万円札を間違えることも多く、いつの間にかなくなってしまった。

 

5.駄菓子屋、お菓子屋:昔は子供が多かったので、近所には3件ほどの駄菓子屋があった。一番近いのは5軒隣にあった駄菓子屋で、ここが馴染みの店であった。「ベロベロ」という寒天で作った菓子に、きな粉をまぶして食う。5円か10円で券を引き、当たると大きなベロベロをもらえた。新聞紙にこのベロベロを入れてきな粉をかけたもので、今思えば、汚いものであった。他にニッキ汁を印刷した紙を舐めるような菓子や細い試験管のような容器に入ったゼリーのようなものもあったが、どれも汚いもので、子供はこうした汚いものが好きだった。他にはセンター市場近くの駄菓子屋は割と大きく、べったんやベイゴマなども売っていたし、あとは家の裏の細い道を南に下がったところにも駄菓子屋があった。ここはかなり年配におばあさんがしており、子供らからすればカモでよく万引きされていた。また小学校の高学年になると、駄菓子屋でお好み焼き、たこ焼き、ちょぼ焼きなどを売るところが増えてきたが、値段は子供用なので、安かった。

センター市場にあったお菓子屋は、ガラスの陳列ケースにお菓子が入っていて、グラムで注文し、白い袋に入れて秤で測って売っていたが、子供がここで買うことは滅多になく、せいぜいキャラメルやドロップを買うくらいであった。

 

6.文具屋:難波小学校の正門前には西村?文具店があり、そのショーウインドーにはプラモデルの完成品が飾れていた。学校から帰宅する際には、この店の前で子供達は食い入るように完成模型を見ていたが、なかなか高くてプラモデルは買えない。店に入ると右手の棚にたくさんのプラモデルの箱が置かれていて、横には竹ひごで作るゴム飛行機にキットが吊り下げられていた。また玄関の左手には切手やコインが確か並べられ、肝心のノートや鉛筆などの文具は奥の方にあった記憶がある。そしておばさんが奥の方にいた。かなり狭い店で、子供が5人もいれば身動きできない。他に裏門のところにも文具店があったが、ここは、主として教科書の販売店で、年度始めに教科書をもらいにいくくらいしか行かなかった。あとは近所の風呂屋近くにも文具屋があり、ここは子供向けのものが少なく、普通の文具が売られていた。昔は結構、こうした小さな文具屋が近所に何軒もあった。

 

7.牛乳屋:今は牛乳といえば、スーパーで買うものと決まっているが、昔は牛乳屋というものがあり、ここで売っていた、家の近所にも牛乳屋があり、牛乳の入ったガラスの容器を木箱に詰めてオート三輪で、各家に配達する。朝早く方ガラス瓶が擦れるガチャガチャという音でやかましい。牛乳は朝食で飲むと決まっていたので、新聞と同じく、牛乳配達も開け方から配達し、家の前に置かれている小箱に牛乳瓶を入れていく。直接、牛乳屋で買うこともできたが、朝の仕事が終わると、全く静かでなかなか店員さんが出てこない。1リットル入りの大型の牛乳瓶ができたのはかなり後になってであり、それまでは200ccくらいの牛乳瓶に紙の蓋とセロファンの覆いがしてあり、一時、牛乳の紙の蓋を使った遊びが流行った時は、回収した空瓶に紙の蓋をつけたままのものがあったので、ちょろまかして持ってきた。

 

8.移動パン屋(ロバのパン屋)、八百屋、魚屋

「ロバのおじさんチンカラリン」の音楽とともに、馬に引かれた馬車がくる。馬車にはたくさんのパンがあり、近所から人が出てきてパンを買う。子供心にロバが道を通るのが珍しく、この音楽が鳴ると一目散に道に飛び出ていた。八百屋はかなり大きな荷車にたくさんの野菜を積んで、売っていた。家の近くに来ると近所から主婦が集まり買っていた。屋根付きの荷車だったので、多分、車であったのであろうが、どうも人力、あるいはオートバイで引っ張っていたような記憶がある。魚屋は、よく覚えていて、商業用の自転車の後ろの荷台と横のサイドカーに魚をつみ、注文を受けてさばいていた。固定客がいてその家の前に来ると、今日はこんな魚が入りましたといって勧める。客の方もせっかく来たのでだからと買う。一度、腐った魚を買ったことがあり、その時はうちの母もかなり怒り、それ以降は移動魚屋で買うことはなくなった。こうした魚屋、弘前ではつい最近まであり、やはり自転車に魚を積んで売っていた。結構、年配の方には便利なもので、電動自転車などと組み合わせれば、エコな商売になりそうである。

 

9.飛行機からの宣伝ビラ

子供の頃、それも小学校1年生くらいの記憶であるが、セスナ機から雪のように散布されたチラシを集めていくと、いつの間にか全く行ったこともないところに迷子になった経験がある。一瞬、やばいと思ったが、しばらく歩くと難波小学校が見えてきて、ひどく安心した記憶がある。それにしてもセスナ機から宣伝ビラを撒き散らすのは今では考えられないくらい豪快である。そういえば、空から音が聞こえてきて、ふと上を見るとセスナ機に大音量のスピーカーを搭載して宣伝していたこともあった。結構うるさい。

 

 

かなり長くなったので、これで終了するが、これ以外にも「失われる仕事図鑑」にない仕事として、お見合いババア(好きな人の親に結婚の橋渡しをする、徳島県脇町)、スタンド(酒屋)、研ぎ屋、洋服の仕立て屋、そろばん教室、竹竿屋、おもちゃ屋、漬物屋などは、今あっても随分と減った仕事である。

 

 


3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

広瀬先生様

とても、とても、懐かしく読ませて頂きました。
ねこ吉の家は商店街の中でした。

虚無僧も見たこともあったし、獅子舞が入って来たこともありました。
押し売りというのが、玄関の上がり框に座っていた時も怖かったです。

ロバのパン屋のメロディーは懐かしいです。
親が、「汚い。」と言って買ってくれませんでした。
紙芝居屋のアイスクリンも「汚い」と言って買えませんでした。

むくれているねこ吉を、会社から帰って来た父親が、マルカ?という商店街のレストラン?喫茶店?に連れて行って、アイスクリームを食べさせてくれました。
銀の器に入った丸いアイスクリームで、真っ赤なチェリーが乗っていました。

子供心に、「ねこ吉が食べたいアイスクリームは、これじゃない!」と思いました。

                                 ねこ吉

広瀬寿秀 さんのコメント...

喫茶店、レストランのアイスは、銀色の皿に少しだけのっていて、スプーンで食べますが、あまりゆっくりと食べると溶けてしまいますし、普通に食べるとあっという間に食べてしまいます。あまり食った気のしないものでした。
その点、かき氷の方がよほど食った気がしてました。
そういえば、昔の商店にあったハエ取り紙は、どこに行ったのでしょうね。何匹かハエがひっついていて、その光景がよほど汚かった気がします。

匿名 さんのコメント...

広瀬先生様

お返事ありがとうございます。

ハエ取り紙、ありましたね。ねこ吉の家は神田市場の近くでしたから、市場の中はハエ取り紙がぶら下がっていました。気持ち悪かったです。
家の中にもあって、髪の毛に着いたことがありました。

先日、テレビでみましたが、ハエ取り紙のメーカーカモ井加工(岡山)が、マスキングテープという文具を売り出して、凄い人気です。
ねこ吉も、ノートや封筒にペタペタ貼ってます。
まさか、ハエ取り紙のメーカーの物とは思いませんでした。

ねこ吉