2023年2月11日土曜日

貧困と教育 教育学部附属学校


 
 





昔、テレビの番組で、貧困家庭の娘が就職試験を受けたくとも、ビジネススーツが買えないので受けられず、仕事にありつけないと嘆いていた。それを聞いていて、何でこの子は、古着屋やメルカリで買うという発想はないのか、あるいは親類、友人から借りるという選択はないのかと思った。また自分の家は貧乏なので、大学に行けないという声もよく聞く。大学に行くには、なるほど金もかかるが、それでも自宅から通える国立大学に行けば、かなりの確率で奨学金をもらえ、あとはバイトなどすれば、何とか生活費は稼げる。おそらく地元の国立大学に行くだけの学力がないのであろう。私の知人に、高校生の時に両親が亡くなり、親類と疎遠になり、その後、一人でバイトして、生活し、大学を出て、さらに大学院、そして教授になった人がいる。また在日朝鮮の知人は、大阪にいた頃、親から手に職をつけなさいと地元の工業高校に行くが、あまりのレベルの低さに、これではダメだと、親に見つからないように勉強し、挙句、北海道に家出した。新聞配達の寮に住み込みながら予備校に通い、弘前大学医学部に入って医者になった人がいる。勉強しているのを見つかると親に殴られたと言っていたが、大学も家庭教師などのバイトをしながら生活した。おそらく昔と違い、YouTubeを活用したり、学校の先生に頼み、先輩が使った参考書をもらったり、NPOによる無料学習塾などをうまく活用すれば、金がなくても受験勉強はできる。

 

貧困になるのは社会のせいで、働いても働いても搾取され、手元にもほとんど残らずに、貧乏になる。こうした社会を変えようというのが左翼の考えであるが、一方、貧乏でも節約して、充実した生活をしている人も多い。タバコは喫う、バチンコはする、酒を飲む、外食ばかりする、そして貧乏で生活が苦しいという。まずはタバコ、酒、パチンコ、外食をやめることが貧困からの脱出の第一歩である。確かに病気などで働けず、生活保護を受けて苦しい生活をしている人は多いが、その家計をチェックして、より豊かな生活をするような工夫すればよい。逆に言えば、自分で家計を工夫できるような人は、何とか生活保護に頼らなくても生きていけるのかもしれない。

 

貧困を考えていくと、どうしても結局は知識、学力という点に帰着する。つまり知識、学力があれば、就職試験に着ていく服は安く手に入るし、勉強したければ、ただで参考書をもらうこともできるし、大学にも親の援助なして通える。つまり貧困と教育格差の楔を断ち切ることが、貧困からの脱出の点では重要となる。現代社会は知識社会であり、学力が低い、知識がないと貧困となる。貧困だから知識、学力がないのではなく、知識、学力がないので貧困になると言ってもよかろう。

 

たとえば、大工さんになるため、工務店に勤めると、会社側から、“木造建築物の組み立て等作業主任者”、“1級、2級、3級建築大工技能士”、“二級建築士、木造建築士”などの資格を取るように薦められる。高校卒業程度の学力がいる。佐官になるためには、“ブロック建築技能士“、”タイル張り技能士“、”1級、2級、3級佐官技能士“、さらには”登録佐官基幹技能士“などがあり、それぞれ実技と学科試験がある。同様にペンキ屋、塗装業でも”一級、二級塗装技能士“、”有機溶剤作業主任者“、あるいは”足場の組み立て等作業主任者“など様々な資格がある。知人の工務店の人に聞くと、昔は勉強ができなくても徒弟制度で技術を学べばよかったが、今では様々な資格が必要なため、少なくとも高卒の人を採用すると言っていた。逆に言えば、現代社会では、何事をするにも、たとえ普通免許取得などの資格が必要であり、学科試験を合格するためには、少なくとも本に書かれたことを理解し、覚える能力が必要となる。基礎的な学力、義務教育の内容を理解し、高校に進学、卒業できるだけの学力が、生活するための最低限必要な社会になっている。

 

日本の高校進学率は、94.1%で、定時制を含めて97.8%とかなり高いものの、中退する率も1.4%となり、高校を卒業する割合は92.7%となり、この比率はここ50年大きな変化はない。人数で言えば、大体毎年12万人が中卒で、高校へ進学しない。毎年、毎年10万人以上の若者が、基礎的学力がなく、社会に放り出される、50年で言えば、500万人の人々となる。もちろん現実は、発達障害、学習障害の人もいて、全員に基礎的学力を持たせるというのは困難なことかもしれない。大学病院は医学生の教育機関であると同時に、高度医療機関として重篤な疾患の治療にあたっている。そうであるなら、大学の教育学部は、学生教育だけでなく、教育の疾患と考えれるこうした基礎的教育が不十分な人々の教育にもっとタッチすべきである。実際は、全国各地にある教育学部附属学校は、むしろ優秀な生徒が集まる進学校になっている。優秀な生徒であれば、どんな先生でも、何もしなくても勝手に生徒が勉強する。むしろ、発達障害、学習障害、登校拒否、落ちこぼれ、非行の多い生徒をいかに指導するかが、教育学部の大きなテーマであり、その実際の研究の場として附属小学校、中学校は、こうした子供たちを中心にした学校にすべきである。もちろん予算や、先生の数、質もふんだんにする必要はあろう。弘前市で言えば、弘前大学教育学部附属幼稚園、小学校、中学校がある。誰が行くかというと、医者の子供など比較的経済的に恵まれ、教育熱心な親の子供が多く、弘前高校の受験予備校化している。はっきり言って無くなっても全く影響はないし、むしろ無くなってほしい。なぜ税金を金持ちの子供の教育に使わなくてはいけなのか。それよりは貧困の問題は教育と関係するなら、普通の公立学校では教育しにくい子供達にこそ最高の教育を受けさせるべきである。確かに弘前大学教育学部でも特別支援学校があるが、調べると各学年3名、小学校全体で18名という規模である。ふざけるなという規模で、大方の児童は県立養護学校に通学している。これは医学部附属病院に当てはまめると、がんの患者を全体で50名しか入院治療できないようなもので、内科の一つの科、たとえば、消化器内科の、さらにその中の上部消化器チームのようなものである。話にならない。

 

県内各地にあるフリースクール、県立養護学校、あるいは児童相談所など福祉サポートセンターなども統合した、大規模、豊富な予算を持つ教育機関はできないであろうか。運転免許、仕事に就く上での最低限の技能試験に合格する学力、もっと言えば、基礎学力がなく、そうした試験に合格できない人々に無料で、その対策を教えてくれるところ、県、市、国の縦割り組織を解体して、本当の意味での教育支援学校はできないであろうか。これからは外国人労働者も多くなり、今は以前の夜間学校が日本語学習の主体となっているが、元々の目的とは異なり、やはりきちんとした日本語教育のシステムも必要である。


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