2023年6月2日金曜日

堆雪帯を利用した自転車専用レーン 2

 



新潟県の長岡市は、弘前同様に雪の多いところである。平成27年から長岡市の都市部整備部が中心となって、自転車ネットワーク計画を策定し、実施している。高校生など学生を中心に自転車を通学、通勤に使う割合が多いことから、市内の中心部を中心に自転車ネットワークの整備計画を策定した。

1.     自転車ネットワーク路線の抽出

まず利用者のニーズや通学、通勤、買い物あるいは病院、公共施設あるいは観光資源を活用したネットワーク形成を行い、基幹ネットワーク、幹線ネットワーク、広域ネットワーク(将来)を設定した。

2.整備手法の選定

ネットワーク路線の自転車走行空間の設定方法としては、1。車道に自転車走行空間を設定する、それができなければ、 2. 自転車が通行可能な歩道においては歩行者、自転車双方が安全に通行できる空間を確保する、3. どちらも無理な場合は代替路の活用を検討する。

 1については、自動車の規制速度が50kmを超える道は、幅2m以上で分離工作物を設置して自転車レーンと車道を分離する。規制速度が40kmあるいは自動車交通量が4000/日を超える道は、幅1mの自転車専用通行帯を整備して視覚的分離を図る、そして規制速度が40km以下、通行量が4000/日以下は路肩のカラー化で対応し、さらに歩道を利用する場合は、歩道の車道寄りを利用する。

3.整備の基本的な考え

自転車レーンは幅員を道路交通法に従い1m以上とし、路面についても自転車の安全性確保のために平坦性の確保、走行の妨げになる段差や溝の解消を図る。

4.推進体制

自転車走行空間の整備には、計画は長岡市の交通政策課、道路管理課、土木政策調整課、長岡国道事務所、長岡地域振興局、そして実施は、道路管理課、長岡国道事務所、長岡地域振興局、そして協力は新潟県警、交通事業者、商店街、自治会などとなっている。

 

国土交通省が提唱した自転車ネットワーク計画については、平成24年の段階で計画策定を予定しているところは全国で229市町村、3割足らず、残り7割は今後とも計画を検討していないとなっている。青森県に至っては1件、10%しか計画策定を予定しておらず、残り90%は計画を検討していない。ただ実は、この1件は何と弘前市で、青森市、八戸市、五所川原市など他の市町村は今後とも計画を検討することを考えていないと回答している。青森県、秋田県、山形県など積雪地帯では、秋田県では9市全てが検討しないと回答し、山形県では15市町全て検討しないとしている。そして検討する必要がないとした理由は、青森市、八戸市、五所川原市は、積雪寒冷地で自転車利用ができる期間が短いためとしている。秋田県では、検討する必要がない理由は、自転車に関連する事故が少ない、今後必要に応じて検討となっているが、雪を理由に整備する必要はないと回答した市町村は、青森市、八戸市、五所川原市、以外には北海道の音皿村、黒石市、福島県の喜多方市、新潟県の十日町市、魚沼市しかない。雪が多いと言っても自転車が乗れない期間は12月から3月までのせいぜい4ヶ月で、残り8ヶ月は完全に無視したバカな回答である。この論理で言えば、冬場は雪にために使えない野球場やテニスコートは必要ないし、逆に夏場のみ利用の公営プールや八戸のスケート場も必要ないことになる。要するに自動車依存県では、車以外の乗り物には興味がないのである。この国土交通省の事案について青森県で弘前市が唯一、今後、計画したいと回答したのは、たまたま当時の市長が建設畑で、こういう話に乗り気であっただけで、今の市長は関心がない。ただ逆の言い方をすると、青森県の場合、雪対策の一つとして道路の幅員の拡張し続けてきた。結果として、雪にない県より道幅が広くなり、自転車ネットワークのために道路拡張をする必要もないし、片側二車線の道に自転車専用レーンを造るために一車線にする必要もなく、あまり費用、手間をかけずにネットワークを形成できそうである。こうした利点を有効に活用すれば、一気に全国的にも優れたネットワークを作れる可能性がある。ちなみに弘前市の自転車ネットワークについては弘前市議の伏見さんが平成28年に進捗状況を質問しているが、録画が見れないため、担当者の回答はわからないが、令和5年現在、その残滓はない。


4 件のコメント:

花田(30代) さんのコメント...

突然のコメント失礼いたします。
市内在住の花田と申します。先生のブログをいつも楽しみに拝見しています。最近弘前市の1970年代の地図をネット上で見つけまして(http://eclipse.star.gs/lock/hirosaki/hiro.png)鷹匠町小路、寿町、前町、古堀町など現在では残っていない町名があることを知りました。近年では東京神田や石川県金沢市など旧町名を復活している自治体もございます。弘前市の場合は古い町名の多くが残されているとは思いますが、変更された一部の町名を復活しても良いのではと一市民として勝手に思っています。これにつきまして先生のお考えをお聞かせ頂ければと思うのですがいかがでしょうか?

広瀬寿秀 さんのコメント...

 コメントありがとございます。確かに一部の地名はなくなっていますが、個人的にはほぼ残っており、これはある意味すごいことと思います。例えば、私の住んでいる坂本町は元々は土手町から東に伸びる道沿いの区域ですが、それに直行する道に面する家の玄関の向きで、町名が決定するので、菊富士、ひまわりが坂本町で、しばらく空いて、近江整形リハビリテーションは、山下町となり、その隣から私の家の横までが坂本町となります。個数は20くらいしかありません。こうした小さな町が多く、昭和40年頃から全国で古い町名が消えました。行政区としては20の世帯数しかない町は扱いにくくからです。行政としては路線式より区画式の町割りの方が扱いやすいようです。
寿町については、明治2年弘前絵図になく、明治以降に遊郭町としてできた町名かも知れずません。戦後、遊郭がなくなったために寿町もなくなったと思います。同様に前町も、明治2年弘前絵図ではここらは全て紺屋町、もっと古い18世紀の絵図では前町はコウヤ町、今の紺屋町がハニカイド丁となっています。江戸期もかなり町名は変更されています。
弘前の町割りは、古い絵図では”町”ではなく”丁”となっています。すなわちストリートで玄関がこのストリートに向いていれば、その町名となります。交差点では2つのストリートのどちらに玄関をもうけたかによって町名が違いますが、その後、家を建て直し、玄関の方向を変えたも町名は変わりません。最初の例で言えば、近江整形のリハビリテーションビルは、玄関が山下町にあるので、山下町1になりますが、玄関が北の坂本町にあれば、坂本町だったはずです。

花田 さんのコメント...

ありがとうございます。

広瀬寿秀 さんのコメント...

追加、手元にある「絵図に見る 弘前の町のうつりかわり」では江戸始めからの15の絵図がずっと載っています。それを見ると慶安の絵図(1649)から明治中期(明治23年)までは、前町の記載はなく、ほとんど”紺屋町”あるいは”新割町”となっています。唯一、安永4年(1775)では紺屋町前町と紺屋町後町の記載があります。上下の道を区別するために前町と後町にしたので、大きく言うとどちらも紺屋町となるからでしょう。大正5年の弘前俯瞰地図から前町の表記が見られまず。古堀町については、寛政末年(1800)の絵図で初めて古堀町の名が見られます。実際にここには堀がありました。