2012年3月8日木曜日

須藤かく 3



 前回のブログで須藤かくの父親を須藤勝五郎としたが、どうも間違いのようである。本来、資料を周到に当たってから、書くべきであるが、ブログの場合、その性質上、思いついたことをすぐに書きつける、自分のメモのようなところがあるため、こういった失敗がおこる。お許し願いたい。

 本日、休診日のため、久しぶりの弘前市立図書館に行ってきた。須藤かくのことを書いたおそらく唯一の本、「安済丸船将須藤勝五郎 弘前藩士の信仰の軌跡」(佐藤幸一著、日本キリスト教団藤崎教会、1992)を探しにいった。IF、2Fの書棚を探すが、該当する本はなく、半ばあきらめ、図書館のコンピューターで検索したところ、郷土資料庫にあることがわかった。早速、職員に頼み、書庫から出してきてもらい、閲覧した。

 須藤かつは、須藤勝五郎の弟、新吉郎の娘であった。須藤新吉郎は、熊三郎の二男として天保2年(1831)に生まれた。兄、勝五郎とは3歳違いである。新吉郎は明治元年9月に甥の惟一(勝五郎の長男、後に戦死)とともに小湊口に出張して、野辺地戦争に参戦した。やがて函館に派遣され、ここで土木工学の新知識を習得する。維新後は、青森の作造村(青森市造道)に住み、青森県の民政局庶務掛の少属として勤務し、青森市の火災防止の都市計画に関わる。明治に入り、名を序に改名する。

 明治11年(1876)7月5日の七十一雑報の教会新報欄に
「陸奥国中へは弘前会より追々諸教所を設置して近頃は僅斗の距離ある黒石一ヶ所、青森港への二ヶ所取設けて、盛んに伝導に尽力されるよし。内一ヶ所は分営の通路なる川塚の須藤序という人の家を借り受けしとて(因にいう須藤氏の女は三年前より横浜女学校にありて、追々熱心の信者となり、已に今春バラ氏より受洗せられるよし)、何れも聴聞人百を以て数ふる程にて景次甚だよきよし。然し伝導者の少ないのはほとんど因却のよし。何れの地方も左こそあるべけれ」

 これから佐藤幸一氏は明治9年ころに須藤かくは横浜共立女学校に留学したとし、それまでは明治8年4月(1875)にできた東奥義塾の小学科女子部に行ったとしている。そして青森市からの通学は困難なので、叔父の勝五郎の家から通ったのではないかとしている。ただ1年くらい小学科に行くくらいなら、そのまま青森市から横浜に直接行き、明治8年に横浜共立女学校へ入学した可能性もある。どうして横浜女学校への留学を決めたかというと、佐藤氏は本多庸一の推薦があったとしている。本多の恩師バラは、横浜女学校の創立にも関わっており、十分にありえる。さらに明治11年ころから須藤序一家の記載が一切なくなったことから、須藤かくの卒業後に中央に一家挙げて移住したのではないかと推測している。

 さらに明治11年の弘前教会の記事より31円44銭を女学生三人の学資として教会より支出とあり、須藤かく以外の他二人の留学生が横浜に行ったのではないかと推測している。(以上「安済丸船将須藤勝五郎 弘前藩士の信仰の軌跡」(佐藤幸一著、藤崎教会、1991)より引用)

 須藤新吉郎の名は、大浦町小路に見られる。兄勝五郎とは別家を立てたのであろうか。須藤かくは父の名をTsuiji sudoとしているが、序は“序で(ついで)”とよむこと、二男であることから、序二として(ついじ)と読ましたのかもしれない。さらに須藤かくの一家は、かくの渡米に際して、一緒にアメリカに移住したため、記載がなくなったのかもしれない。くわしいことは、以前Wiltonm Newyork州のHPに須藤一家と成田一家の記載があったが、今はなくなっていて不明である。

 また弘前教会の本多庸一は、横浜女学校に弘前から3人の留学生を送っているが、この内の一人が須藤かくで、もう一人は阿部はななのかもしれないが、阿部はなについての記載は一切ない。

2 件のコメント:

青柳保子 さんのコメント...

シンシナティに住むcuratorが須藤かくさんの情報を探しています。安部はなさんのことも、Dr. Adeline D. H. Kelseyにかかわる日本人として知りたいようです。シンシナティにはDr. Adeline D. H. Kelseyが寄贈した日本の品物がたくさん収蔵されているようです。ブログをシンシナティに知らせてもいいでしょうか?

広瀬寿秀 さんのコメント...

もちろんお知らせいただいて結構です。シンシナティーには知人がいますので、彼にも連絡いたしますので、私のアドレスに直接メールいただきたいと思います。hiroseorth@yahoo.co.jpまで