2012年3月19日月曜日
須藤かく 9
横浜共立学園の資料室の方から、1879年当時の共立女学校の写真を送っていただいたので載せる。後ろの玄関に座る宣教師はクロスビーとピアソンで、Woman’s Union Missionary Society(WUMS)のメンバーである。
WUMSは正確にはThe Woman’s Union Missionary Society of America for Health Landsといい、この団体の1887年度第26回の年次報告書がインターネット上で見られる(U nz'ofz Missionary So~iety)。P19にMrs, Viele がピアソンらの日本での活動を紹介している他、Kelsey 医師が日本での医療活動について述べている。「こちらにきてから267症例の治療を行ってきました。多くの疾患は重度で、やっかいな慢性疾患でしたが、てんかんも含めて症状の改善ができました。またガンの手術にも成功しました。私はただ単に神の道具であると感じています。ここに来て、多くの命を助けることができたことを感謝します。ここでの仕事は大変うれしく感じますし、日本の内科医より彼らの両親の治療の相談に招かれたこともあります。ここで行った伝道事業は今後50年に日本でなされるであろうどんな事業にもひけをとらないでしょう。もし私と一緒に歩けば、日本の倫理的な堕落を見ることができるでしょう。ここでは高い倫理性が必要であり、それはキリストの教えなしでは無理だということを理解できるでしょう。この学校が日本で行ってきた善行は、広く、遠くまで知られているようですが、私は昨日初めて知りました。私のようなよそ者でも一見しただけで、その素晴らしさははっきりしています。卒業生の幾人かは今医学を学ばせようと準備しているところです。」この報告書からは少なくともKelsey医師は1887年には共立女学校の卒業生をアメリカに行かせて医者にさせようとしていたことがわかる。須藤、阿部らもこの候補者に入っていたのであろう。実際に渡米したのは1891年なので、この4年後になる。
写真に戻ろう。この写真に須藤かくと安倍はなが写っているとすれば、確実に左の女性が須藤で、右端の女性が安倍ということになる。ただ、こういった確証はなく、安倍はなの1897年のシカゴトレビューン新聞での証言によれば、安倍はなの在学時の学生は70名いたといっていることから、この写真はその一部の学生を撮影したものとも考えられ、必ずしも須藤と安倍が写っている訳ではない。とにかく須藤かくと安倍はなの肖像はこのシカゴトレビューン紙の挿絵しかないので、これと比較してみよう。写真は1879年、須藤かくは18歳、挿絵は1897年で、須藤は36歳、18年の開きがある。目元、口元はよく似ているが、下顔面が違う。写真では比較的がっちりした骨格ではあるが、挿絵ほど四角張った顔ではない。安倍はなについては、顔の輪郭は挿絵と非常に近いし、口元も似ている。1879年というと安倍はなが共立女学校に入学したかどうかという時期である。二宮わかは3年生、稲垣ぎん、吉田まちは2年生、渡辺かね、木脇そのは4年生というところか。岡見京子はすでに1878年に修了している。おそらく安倍はなは当時15、6 歳で、これは寄宿舎の給費生の写真であろうか。どなたかお知りの方はお教えいただきたい。
当時の着物姿をみると、今の着物より襟元を開け、襦袢をまるでブラウスのように出している。さらに襦袢もきっちり着るのではなく、首もとをみても、ゆったりと着ているようである。何人かの学生の襦袢は、色付きの、花模様が入ったもので、当時の若い女の子達のおしゃれを感じさせる。
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6 件のコメント:
二宮わかの子孫です。
自分探しをしていましたら偶然発見させていただき
二宮わかの写真を見て感動いたしました。
ありがとうございます。
何か二宮わかの情報がありましたらお教えいただければ幸いです。
よろしくお願い致します。
二宮わかは、近代女性活動家の嚆矢とも呼べる人物で、病院、幼稚園設立など幅広い活動を行っています。非常に開明的な女性です。
写真は、「横浜共立学院の140年1871-2011」(横浜共立学院、2011)からとったものです。二宮わかについては、横浜共立学院資料質の荒木さんがよく知っていると思いますので、お住まいが横浜に近いなら、一度、訪れたらどうでしょうか。色々な情報が得られると思います。
早々のご連絡ありがとうございます。
近くに住んでおりますので、お訪ねさせていただきたいと思います。
本当にありがとうございます。
二宮和可子について、
こんにちは、
なんだかんだ、忙しくまだ、横浜共立学院様には伺えておりませんが、
本年も、横浜久保山墓地にある二宮家の墓参に参りました。
キリスト教ゆえに墓石ではなく3メートル近い墓碑なのですが、裏面に刻まれている名前が今まで読めませんでした。
ネット上からの情報取集が多く刻まれた没日も同じ為、二宮わか(ワカ)と思い込んでおりましたが、大正時代に使われていた変体仮名を本年読む事が出き
曾祖母の名前は
和(漢字)
可(変体仮名)
子(漢字)
と、漢字で刻まれています。
※わか子と一件だけ、他のネット上の記載がありましたほとんど「わか」もしくは「ワカ」です。
数多くの書籍ネット横浜市の文献でも二宮わかとありますので、順次ご連絡が出来ればと考えております。
二宮和可子さんは、数々の慈善事業をしていますが、その一つに横浜婦人慈善会を組織し、その後、1891年に横浜婦人慈善病院を根岸に開業します。女性のための西洋式病院の嚆矢でしょう。この病院の創立に関わった人物として和可子と同級生であり、アメリカに留学していた菱川ヤスがいます。途中から名前が出ないことから若くして亡くなった可能性があります。その後、シンシナティー女子医学校を卒業した須藤カクと阿部ハナが帰国して、1898年に根岸病院に勤めます。菱川、須藤、阿部と和可子は親しい間柄で、その後、再び渡米した須藤、阿部は和可子と文通した可能性がありますが、もし和可子の遺品の中にこれらの人物のことが書かれていましたら、是非ともお知らせください。2015.1.31のブログに少し書きました。神奈川といえば、面識はありませんが、聖マリアンヌ医科大学の内田和秀先生の”横浜山手病院について12解説編:横浜婦人慈善会の発足まで
http://igakukai.marianna-u.ac.jp/idaishi/www/423/42-3-08Kazuhide%20Uchida.pdf という論文があります。
広瀬寿秀様
本当に、色々とご案内いただきありがとうございます。
ネットで検索していた中に、『聖マリアンヌ医科大学の内田和秀先生の横浜山手病院について』もひっかり、非常に詳しく書かれており驚いた次第です。
機会を作り『和可子』についてもお伝え出来ればと思います。
また、遺品の件ですが現在は特には無いのですが心掛けて探してみます。
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