先日の日曜日、紀伊国屋書店弘前店の開店50周年講演会がパレスホテル二階であった。会場には40人ほどの聴衆がいて、一人で待合室にいると緊張したが、会場に入り、話し始めると次第に落ち着き、テーマに沿った話、あるいはちょっと書面では述べられない話などをした。
以前からMacbook Proの調子が悪く、1年前にHDが壊れ、データーは費用がかかったが、業者に救出してもらい、新しいHDに換えて使ってきた。ところが最近はまた調子が悪く、動作がストップする。そこで評判のいいMac book Airを注文し、届いたのが土曜日。何とか講演に間に合うかと、朝8時にMacbook ProからMacbookAirにデーターの移行を始めた。ところが移行セットアップに従って、ドンドン押していったのが、間違い。無線でのデーター転送を選択してしまった。有線に比べて非常に時間がかかる。完了までの予想時間、22時間。途中で終了するのは怖いので、2台のマシーンは完了までどうすることもできない。幸い講演会のデーターは保存していたので、急遽、診療所のパソコンを使うことになり、Officeのインストールから始めて、何とか使えるようにして、当日発表した。ちなみのデーター移行できたのは夜の11時であった。
こうしたブログを書いていると、関係者から多くのメール、手紙をいただく。プライバシーに関わる可能性がある場合は、ブログへの掲載はやめているが、関係者の4,5代前に先祖になると、これはもはや歴史上の人物で、その子孫のプライバシーには関わらないと考えている。いただいた情報の一部を出すことで新たな情報が得られる場合は、許可なく、ブログで使わさせてもらっている。
今回の講演会でしゃべったのも、そのひとつである。
明治の外交官、伯爵、侍従長の珍田捨巳の父は、珍田有孚という。祖父有敬に子がなかったので、妹の子、野呂灸四郎を養子にもらった。野呂灸四郎は野呂家の長男であったため、ちょうどその頃に嫁に入った後妻は近所の人から責められたという。文生12年(1829)1月に灸四郎は珍田家に養子に入った。4歳だった。この有孚が神熊吉の長女いく(天保4年 1833生まれ)と結婚したのが、嘉永2年(1849)であった。妹は在府町の船水新五郎に嫁いだ。長男は神彦三郎で、その名が在府町に見える。
この神熊吉の墓は、秋田県湯沢市横堀の正音寺にある。参勤交代の途中に幼君を諌言して、その場で切腹して果てた。神熊吉は第11代藩主の世子、津軽 承祐の養育係であった。北方警固のため父順承の名代として、初めての国帰りの時であったのだろう。当時、羽州街道が参勤交代の道として使われ、横堀町は宿場町であった。津軽承祐が初めて弘前に帰国したのが安政元年(1854)であるから、神熊吉が亡くなったのもこの頃である。珍田捨巳は安政3年(1857)であるので、母方の祖父とは面識はなかったろうが、母からは、祖父のことをよく聞かされて育ったのであろう。50歳は越えた老臣の諌言がどんなものかを伝わっていないが、その後、長男、彦三郎が跡目を継いだところからも、正当なものであったのだろう。ただこの神熊吉の諌死については、成書には触れられていない。神熊吉は、承祐が9歳の時に初めて江戸に登った時も、御付御供(鍵口役兼目付)で、江戸藩邸でも御付書役であった。珍田有敬も同役(書役)で安政元年の帰国の時も随行している。珍田家と神家は非常に親しい関係であったのだろう。
一枚の墓の写真がある。正音寺の神熊吉の墓であるが、かなり前の写真である。今、どうなっているのか、もし湯沢に知人の方がいれば、お教えいただければと思っている。
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