2013年10月11日金曜日

弘前藩領絵図(幕末ー明治初)





 弘前藩領全体を描いた絵図としては、正保(1645  写真上)、元禄(1701 写真上から2番目)、天保(1838 写真上から3番目)の3つの国絵図がある。さらに弘前藩では伊能忠敬の測量した伊能図の中図、小図(写真上から4番目)を所有していた。現在の地図と比べると、伊能図が圧倒的に精度が高く、次は正保となる。元禄、天保の国絵図の精度は低い。天保国絵図を作成時、藩はすでに伊能図による正確な海岸線を知っていたが、敢えて、幕府の指示に従い、精度の低い、元禄図に合わせたのであろう。海岸線は元禄、天保国絵図ともほぼ一致する。ただ十川の分岐場所が元禄では岩木川から、天保では十三湖から分岐している。ここでの元禄国絵図は弘前大学所有のもので、幕末ころの模写とされている。天保が元禄国絵図を基としたのであれば、この弘前大学の元禄国絵図と十川の分岐点が違うのが不思議である。

 明治二年弘前絵図と一緒に弘前市立図書館に寄贈した弘前藩領絵図(写真上から5番目)については、いまだはっきりしない。作成を幕末から明治初期とした。美濃紙を何枚も重ねて作られた絵図は、個人ではなく、弘前藩として作成したものであること、使用している文字が明治二年弘前絵図に近似していること、明治二年弘前絵図と一緒に保存されていたこと、青森市栄町(明治初め旧士族の作った町)がないことから、作成年度は幕末から明治初期(2、3年)と推測される。

 この弘前藩領絵図は、正保国絵図よりは正確ではあるが、津軽半島や十三湖の形が幾分異なり、とても伊能図には及ばない。天保国絵図(1838)は幕府の命令で提出を迫られたため、指示された様式、元禄国絵図に沿った絵図となったが、弘前藩領絵図はこういった規制はない。であれば、伊能図を参考に海岸線などの形態を決め、そこに村,町などを書き込めばいいと思うが、そうはなっていない。この絵図のために、幕末、明治初期の忙しい時期に弘前藩がわざわざ領地の海岸線を測量する暇と手間はなく、何らかの絵図を参考にして作成されたものに違いない。

 弘前藩領絵図は伊能図、現代図と比較すると、竜飛岬、小泊岬、黄金岬が実際より大きく書かれ、津軽半島も横に広い。一方、海岸線に沿った、各種の岩、岬についての書き込みが多い。内陸だけでなく、船による海岸の調査も行われた結果であろう。伊能図にもこういった書き込みはない。十三湖については、現在の湖は江戸時代の半分くらいになっており、伊能図に比べると、岩木川河口の舌のような張り出しを除くと、形態は大体似ている。

 幕末、明治初期に作成されたと思われる弘前藩領絵図は、おそらく戊辰、函館戦争の物資、人の搬送、あるいは廃藩置県に伴う藩領の把握、地租改正などを目的に作成されたものと思われる。模写したオリジナルの地図は、海岸線の記載が詳細であることから、1800年以降、ロシアを含む異人船の弘前藩領への接近と関係しているのではなかろうか。ロシア船は、津軽半島の三厩など、あちこちの海岸に接近、上陸している。この対応に弘前藩は逐われていたが、同時に正確な海岸線を示す地図が必要だったと推測される。弘前藩が伊能図の中図、小図を入手したのは、文化元年(1804)であったことから、オリジナルの弘前藩領絵図の作成されたのは、この前の期間であった可能性がある(1800年前後)。

 幕末、弘前藩は戊辰、函館戦争に絵図が必要となり、本来なら正確な伊能図を骨子に内陸部を描いた絵図を作製する必要があったが、時間的な節約から、最も新しい藩領絵図、おそらくは19世紀初めの絵図の模写を使用したと思われる。藩境には多くの山の名が記載されているが、それ以外では、岩木山の名がないのにも関わらず、増川嶽(岳)と大然嶽(然ケ岳)のふたつの山の名が記載されている。前者は津軽海峡からの目印、後者は鯵ヶ沢沖合からの目印になる山で、それぞれ航海に関連する山である。

 弘前藩領絵図は、領地の詳しい村、里、町を示しただけでなく、海岸線の細かい地形、目印の山が記載されており、正確な測量による地図ではなく、実用面を重視した絵図であった。不明な点が多く、専門家による解明が待ち遠しい。

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