2014年3月6日木曜日

弘前藩領絵図 出湯


 先日の日曜日は、天気もよく、だいぶ雪も溶けてきましたので、図書館に行ってきました。寒い日に体が慣れてしまったせいか、図書館のように暖かいところに長くいると手足、顔が火照ります。男の更年期なのでしょうか。

 目的は、大鰐の昔の村について調べることです。弘前藩領絵図の村の中で、新田と名のつくところは、蛇石新田、堀越新田、折紙新田の3つです。いずれも大鰐組の村です。これらの名称が出てきた時期がわかれば、絵図製作の下限がわかると思ったからです。

 まず「青森県の地名」(平凡社、 1982)で調べます。折紙新田は、折紙川沿いの村で、居土村の支村で、藩政後期のものといわれる「三免内山役人預山絵図」(八木橋文庫)にみえ、高田新田(注:宝暦六年(1757)にできた)と同じ時期に成立したと推測しています。「大鰐町史」によれば、折紙新田鎮守八幡宮の由来が載っていて、延享元年(1744)に再建されたとしています。堀越新田、蛇石新田は虹貝川沿いの虹貝村の支村ですが、あまりよくわかりませんでした。神社の由来はあまり当てになりませんが、折紙新田は1740年から50年には成立したようです。

 碇ヶ関の温泉については、以前のブログでも述べましたが、藩領絵図では「出湯」の表示があります。他には大鰐の川をはさんで、二つの「出湯」の表示があり、赤く塗られています。これは弘前藩主の御仮屋のあったことを示すものでしょう。三代藩主津軽信義は温泉を好み、参勤交代の時にはよく大鰐の湯を利用したようです。御仮屋は今の大円寺付近にあったとされていて平川の北の「出湯」がこれに相当するのでしょう。となると平川の南の御仮屋は大鰐温泉街のどこか、あるいは絵図に従えば大鰐町役場付近にあったのでしょう。仮屋がどこにあったかは今になるとはっきしりませんが、わざわざ二つの温泉を「出湯」と分けて書いているところから、二つの仮屋があったことは間違いなく、それも1740-80年ころには存在したことを示すものです。

 碇ヶ関の「出湯」の場所は、今の御仮屋御殿関の庄温泉あたりでしょう。なぜ赤く塗りつぶしていないか不思議です。青森県には温泉が多いにも関わらず、大鰐と碇ヶ関のみに「出湯」と書かれているには、この場所が藩主と関係した温泉だったからでしょう。「湯聖」と呼ばれる湯の管理を行う藩の役人も大鰐にいたことから赤く塗りつぶしているのかもしれません。

 といっても大鰐、碇ヶ関の温泉は、江戸時代、庶民にとってはなかなか利用しにくい温泉だったようです。

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