2016年9月7日水曜日

難解な津軽弁



 先日も、“秘密のケンミンSHOW”を見ていると、難解な言葉として“津軽弁”が面白、おかしく取り上げられていました。私もこちらに来て、すでに25年以上なりますが、未だ津軽弁を十分に聞き取ることはできません。年配の方が早口でしゃべられると半分くらいしか聞き取れず、家内や従業員に通訳してもらうことがあります。家内や従業員は地元育ちですが、たまに郡部の方の方言はわからないこともあるようです。津軽弁と言っても、五所川原、青森では違いますし、弘前市内と郡部でも違います。さらに今はありませんが、昔は士族と平民で言葉が違っていました。私自身、文献的には武家言葉は知っていますが、それを使っているひとは見たことはありません。70歳以上の年配の方がわずかに聞いたことがあるという程度です。もはや死語となっています。嘘みたいな話ですが、家内の祖母(明治生まれ)は標準語すらわからなかったそうで、ラジオ、テレビの普及でようやくわかるようになったようです。

 津軽弁については専門家ではないのでよくわかりませんが、言葉が違うだけでなく、母音やイントネーションも違います。明治維新前、日本は沢山の藩があり、住民の行き来は基本的にはしにくい状況でした。庶民が藩外に出る機会と言えば、典型的な例として“御伊勢参り”があるくらいで、ほとんどの住民は在所を離れることはなかったと思われます。唯一の例は、江戸の藩邸に済む士族で、江戸詰めの藩士はその子どもも江戸で生まれ、育って、めったに国元には帰らなかったため、津軽弁を聞いたり、話したりできなかったようです。明治維新後には、江戸藩邸がなくなったため、江戸詰め藩士の家族は仕方なく、国元に帰りますが、地元民に溶け入れられず、早い時期に再び東京に帰るケースも非常に多くあります。江戸詰めの家族は地元に家がないため、今の新寺町や冨田町あたりに集団で居住しますが、地元からは江戸町と称されるように、異分子として扱われたのでしょう。

 江戸時代は、各藩の境界には関所が設けられ、通行手形などをチェックして出入を管理していましたが、東海道や中山道などの主要街道沿いの藩は、多くの人々が通過し、人の出入りも多かったと思われます。一方、青森、弘前藩は本州の末端で、北海道に渡るごくわずかな人以外に、領内を通過する藩外の人はいません。さらに他藩から弘前藩に入るルートはかなり限られており、いわゆる津軽三関と呼ばれる、奥州街道の八戸藩に行く野内番所、羽州街道の秋田藩、大館に行く碇ヶ関番所、さらに日本海側を行く西浜街道の大間越番所があります。地形的には周囲が山に囲まれた地点に関所があり、弘前藩自体が一種の要塞のような地形になっており、その出口が上記3カ所にあります。といっても通行量は限れていて、ある研究によれば、月平均で、碇ヶ関は250人、野内は100人、大間越は40人と非常に少なく、碇ヶ関は矢立峠があり冬場の通行はほとんどできない状態でした。東海道などの主要幹線での月の通行量は2万人を越えることを考えると、ほぼ鎖国状態と言えるでしょう。お伊勢参りについても、津軽から伊勢までは往復で3、4か月もかかる旅だったため、経済的にもよほど大変で、ごく限られた人が行っただけなのでしょう。庶民は領内の三十三カ所巡りがせいぜいだったと思われます。

 こうした孤立した地形的特徴により、津軽弁に代表されるような独特な文化が現在まで残っているのでしょう。同様なことは南端の沖縄も、島という孤立した地形が、独特の文化を醸成させています。明治以降、交通網の発達により県外との交流は活発となり、次第に文化的な違和感は減ったとは言え、2013年の海外旅行者数を見ると、出国率は東京の26.2%に対して、青森県は3.2%と全国最低であり(沖縄:6.4%),就職、進学で県外にでることはあっても、それ以外ではまだまだ県内から出ない傾向はありようです。またインターネットの利用率も島根県に次ぐ全国で二番目に低く、外部からの情報を取らない傾向があります。


 ついでに言いますと、津軽地域は今でも津軽三関を締めると鎖国となり、食糧自給率も北海道に次いで高く、カロリーベースで123、生産額ベースで222となり、それも魚、肉、野菜、果実などほとんどの分野で自給可能であり、東京1、大阪2、沖縄30に比べると対照的です。

2016年9月5日月曜日

武宮隼人先生 5

六甲学院新グランド(人工芝)

 武宮隼人初代校長
(1905—1980)

           
 学校、とりわけ私立学校はその創始者の理念、思想が色濃く反映されている。六甲学院は昭和十二年(一九三七)、日中戦争が始まった年に設立され、その初代校長として就任したのが、三十七歳の武宮隼人であった。戦時色が次第に高まり、カトリック系の学校としては最も厳しい時代であった。
 武宮校長については、自身で語ることも、書くことも少なかったため、「追悼 武宮隼人先生を偲びて」(昭和五十六年、六甲学院)や「六甲学院 五十年のあゆみ」(昭和六十二年、六甲学院)などで、一部、知ることができるだけで、その経歴についてはあまり知られていない。そこで「追悼 武宮隼人先生を偲びて」の中から、K・ライフの「六甲中学校創立のころ」と巻末の年譜を中心に六甲中学就任までについてまとめてみた。ライフ先生は、武宮先生とはイエズス会の三年後輩だが、ドイツの神学校、上智大学、六甲中学校、昭和二年から五十六年までの五十四年間におよぶ親友で、武宮先生のことを最もよく知る人物である。六甲学院の創立時、副校長格で武宮先生の補佐役を勤め、戦後、上智大学に戻り、神学部教授、神学院院長などを勤めた。

 『武宮師の武士道精神は、父親の遺産であった。鳥取の鉄砲隊長であり、明治維新後は、東京築地に移り庶民階級のしっかりした若妻をむかえ、警察署で剣道の指南をつとめた。旧制六甲中学校で剣道がどれ程重んじられていたかは、終戦後六甲中学校に入学した卒業生はよくおぼえている。初段、二段、三段までの資格をとった生徒も居た。教育上の理由で柔道にはあまり関心は持たず、したがって柔道の先生はつとめなかった。
 「キリシタン」として隼人師は二代目の信者にすぎなかったが、明白な証明はなくても自分の先祖が大分から鳥取に来たので、(そこには武宮という町もある)彼等がキリシタン時代にそこに居てキリシタンであったことは彼は確信していた。とにかく東京の下町に住んだ時代に全家族のキリスト教信仰への道を開いたのは武宮師の父ではなく、その母であった。求道者のなった彼女は洗礼準備が済むと二、三人、その時まで生まれた子供と共に、主人にはだまって洗礼を受けた。彼は最初の怒りがおさまった後、妻の祈禱書を好奇心にかられて読み、十字架の道行きの祈りに不思議に感激してしばらく後、妻には何も云わず求道者となり洗礼を受けた。係りの神父に妻からキリスト者として紹介されたのである。当時の彼の生活は、きわめて貧しかった。十人の子供達、その年長者たちは、小学校を卒業して社会に出たが、勤勉な働きによって、たくわえた財産によって、下の子供達に高等教育の道をひらいた。末っ子の隼人は、三男にあたる兄を自分の真の恩人として尊敬していた』(「追悼 武宮隼人先生を偲びて」より)。

 鳥取藩の砲術家業家の筆頭に武宮家がある。先祖の武宮親実は、豊後大友氏の支流で、キリシタン大名の大友宗麟(義鎮)に従い、砲術を以て仕えた。天正十四年(一五八六)の島津軍による臼杵城攻防戦では、武宮親実はポルトガルから購入した「国崩し」と呼ぶ大砲で島津軍を退散させ、その武功が世に知られた。大友家の滅亡後、親実の三男、久兵衛は姫路藩、池田輝政に仕え、さらに慶長十八年には鳥取藩の宗家にあたる池田忠継の臣下となり、大阪冬の陣には砲術を以て参戦した。この武宮久兵衛を鳥取藩武宮家の祖とする。
 幕末には、五百石を給された大筒頭の武宮貞幹(さだもと、丹治、甚之進)がいた。貞幹は砲術指南の武宮雅楽允(権之丞)の子で、安政五年(一八五五)にお台場築立御用掛に任命されると和田勝蔵、加須屋右馬之丞とともに水戸藩士、福地政次郎から神発流砲術を学んだ。さらに鳥取藩主、池田慶徳の命により境台場、由良台場などの鳥取藩台場の築城に携わった。境台場の建造においては文久三年(一八六三)から富山敬蔵の設計の元、会見郡大庄屋、山根作兵衛らとともに築城を開始し、明治元年(一八六八)十一月に完成した。その間に、父が眼病のために引退すると、慶応二年(一八六六)には家督を継ぎ、戊辰戦争では「武宮貞幹の砲術 後戊辰役の際、自ら大砲隊を率い。大阪から海路江戸に至らんとし、暴風に遭ひ遂に機に後れ、戦役に画すこと能わずして帰国した。」(鳥取県郷土史(一九三二))となっており、砲術大隊長として直接、戊辰戦争に参戦することはなかった。
 年譜によれば、武宮隼人先生は、「一九〇五年二月十九日に東京市麻布に父武宮一、母えまの九男として生まれ、霊名フェリックス」となっており、武宮貞幹が維新後に改名して一(はじめ)と名乗ったのであろう。ただ水戸への砲術留学を十五歳、家督を継いだのが二十六歳としても、武宮隼人先生が生まれたのが六十歳となることになる。いくら九男一女をもうけたといても、よほど晩婚であったか、先妻がなくなり、後妻としてえまをむかえたのかもしれない。高禄の士族が独身であったとは考えにくいし、庶民階級の娘を嫁にすることはない。維新後、禄がなくなり、困窮した士族は多く、武宮一もつてを頼って上京し、警察署で剣道を教えて細々とした生活をしていたのだろう。六甲学院の教師、阪上秀太郎先生によれば、『先生の家は鳥取池田藩の武士の出である。武宮家は藩の砲術指南役を代々勤め、あの有名な鳥取砂丘はその演習場であったということである。先生の父上は武士として明治維新を経験されたが、根っからの侍であった尊父は、新しい時代に士魂を捨てて順応しようとされなかったらしく、家は貧しく、一家の支えはもっぱら母上がなさったようです。父親は“孤雲”という、殿様より与えられた俳号を愛する俳人として一生を終えられたらしい。士風を保ち続ける狷介不屈の夫に仕えて一家を切り盛りした母上の姿を、先生は美しいもの、すばらしいものとして幼少の頃から強く脳裏に焼き付けられたのであろう。母上は一言の文句もいわず侍としての生涯を送った夫を尊敬し、いたわり、末子であった武宮先生を含めて十人の子女の養育にあたられたのである。また父上も妻の苦労を口に出さないながら、感謝しつづけ、老年に至って息を引きとる最後のきわに、はじめて妻に詫びと感謝の言葉をもらされたそうである。』(同上、「武宮先生を想う」)。またこの母について、吉川浩一郎先生の回想によれば、『先生のお母様のことをよくご存じの方から伺った所によりますと、先生のお母様は、東京築地の教会で有名な熱心なカトリック教徒で、経済的に御不自由なため、髪をひっつめに結び、洗いざらしの湯衣を着、背中に一人、両手に一人ずつのお子様の手を引いて、堂々と御聖体拝領台に進まれる御姿は、まことに天晴れだったそうです。』(「武宮先生の思い出(人間・武宮先生=僕の武宮先生)」。

年譜によれば、
一九〇五年  四月、芝南桜小学校入学
一九一三年  三月、麻布小学校卒業 四月、独逸協会中学校入学
一九一九年  四月、上智大学予科入学
一九二一年  三月、上智大学予科修了 この年、一年志願兵として兵役に就き、   
        翌年陸軍少尉に任官退役
一九二一年  八月、イエズス会入会
一九二三年  九月、オランダ、セーレンベルグ専門学校入学、教育学を専攻
一九二五年  九月、オランダ、フルケンブルグ大学入学、哲学・神学・教育学を  
        修める(一九三三年、八月まで) 
一九三一年  四月二十七日、司祭叙階
        十月、ローマ、グレゴリアン大学より哲学博士の学位を受ける。
一九三三年  八月、ドイツ、フライブルグ大学入学、教育学を研究
一九三五年  フライブルグ大学を終えて、八月帰朝
一九三六年  四月、上智大学教授となる
一九三七年  十一月、財団法人六甲中学校理事となり、同校校長に就任

 独逸協会学校は、明治十六年(一八八三)にできたドイツ語を中心に教育したユニークな学校で、当時は旧制第一高等学校への進学者も多かった。現在の独協学院である。武宮先生は旧制一高を受験するも失敗し、兄の武宮雷吾(一八九八-一九八三)、フランシスコ会、札幌光星中学校、高等学校初代校長)によれば『隼人神父が旧制高校の試験を受ける時、兄は弟を政治家にしたい考えがあった。けれど私は試験に落ちて司祭になる事を勧めた。弟はその後、上智大学に入学した。』(同上、「弟、隼人神父の想い出」)と兄が在学していた上智大学に進学した。
 戦前の予備、後備士官については、「陸軍後備役将校同担当官服役停年名簿」があり、大正十二年から昭和九年までのものが公開されている。「武宮隼人」の名を探すのと、大正十五年では「大正十四、三、三十一少尉志 同十一、十二、一予備役」、「第一(麻布)正八」となっている。また昭和九年では「大正十四、三、三十一少尉志 同十一、十二、一予 四、四、一 後」、「麻布第一」となっている。一年志願兵という制度はドイツの制度を参考に明治二十二年(一八八九)にでき、官立学校、師範学校、旧制中学校などを卒業したものに対して、装備、武器、弾薬などは部隊から支給されるものの、それ以外の食糧、被服、装具などは自己負担とし、一年の入隊を許可される制度である。最初の六か月で上等兵に進級し、下士官と同様に勤務し、満期の暁に学科と実地の試験を受けて予備役の二等軍曹となり、除隊する。武宮先生の場合、大正十一年十二日に予備役となった。予備役編入の翌年に最低三か月の予備役見習士官として勤務演習した後、最後に試験が行われ、それに合格すると予備少尉となる。武宮先生は、大正十四年三月三十一日に予備少尉になったことになり、さらに予備役は五年間と決まっているので、昭和四年四月一日には後備役となる。後備役は六年間で、昭和十五年に予備役と後備役が一緒になり期間も陸軍で十五年四か月となる。
 イエズス会の上長で上智大学学長のヘルマン・ホフマンはイエズス会入会を希望し、ドイツ語の上手な学生三名をイエズス会の司祭職への準備段階をすごすためにオランダ国境に近い修練所へと送った。その中で一番若かったのが武宮先生で、ドイツ語の得意だったので、留学自体はさほど苦労はなかったが、ドイツ、アーヘンに近いファルケンブルグでの哲学の授業はラテン語で行われていたため、相当に苦労した。そのため胃の工合も悪くなったが、結局、ラテン語の講義を最小限にしてもらい、もっぱらドイツ語の神学的な文献を読み漁った。二十世紀を代表する神学者で、カール・ラーナーは同級生であり、その友情は終生続いた。そしてラーナーの著書を死の直前まで枕元に置き、勉強した。上智大学で哲学、教育学を教えることになっていた武宮先生は、その後、ドイツのフライブルグ大学に移り、教育学を専攻したが、同級生のラーナーの紹介で、哲学者のハイデッカーのゼミナールに連れて行ってもらったりした。当時、ハイデッカーはフライブルグ大学の教授をしていた。
 昭和十年(一九三五)に十二年間に及ぶ、オランダ、ドイツ留学を終え、帰国し、そのまま上智大学で教えていたが、昭和十二年(一九三七)に六甲中学校創立に伴い初代校長と任命された。武宮先生には姉(ゆき、ルシア)がいたが、姉の嫁ぎ先は東北大学理学部長で地質学者の高橋純一(一八八一-一九五九)で、後に新制信州大学の初代学長となった。彼もまた熱心なキリスト教徒であった。
 武宮隼人先生は、士族、軍人、神父、学者、教育者と多面な顔を持ち、六甲学院に在籍していた二十八年間に、現在に続く便所掃除、中間体操、強歩大会、立山キャンプ、瞑目、訓育などの学校の礎を作った。他校に見られぬ六甲学院のユニークな行事は、こうした武宮先生の理念、思想が色濃く反映されている。私が入学した昭和四十三年当時、中高生全員が坊主頭で、黒い風呂敷に教科書を入れて通学していた学生もいたし、学校までの坂道で上級生を追い越す時は、必ず帽子を脱いで挨拶しないと睨まれた。詰め襟はきちんと締め、学生帽も必ず着用、学校に行くと体操服に着替えるなど、当時の社会でもこうした学校はあまりなく、ミッションスクールらしからぬ時代錯誤的な感触を持っていたが、こうして初代校長の経歴を知ると、ようやくしっくりと納得する。                                (三十二期 広瀬寿秀)

2016年9月1日木曜日

日本陸軍と中国 「支那通」にみる夢と蹉跌

佐々木到一

 山田良政、純三郎兄弟はじめ、孫文の中国革命に協力した日本人は多い。こうした人物がいながら、どうして日本は最後まで孫文率いる国民党を支持しなかったのか、不思議に思っていた。黄輿、宋教仁、胡漢民、陳其美、蒋介石など国民党の重臣の多くは日本に留学しており、当初は彼等の日本への期待も高かった。ただ孫文らが日本へ亡命していた時は、軍部、政府からは常に監視される側であり、政府、軍部はあくまで袁世凱や段祺瑞などの北方軍閥と手を握った。このことが結果として日中戦争、大東亜戦争に発展していく。もしということで言えば、日本政府が国民党に積極的に資金、武器を日本政府が提供していたなら、おそらく共産党は壊滅できたであろうし、満州の利権はある程度、確保できた可能性もあった。ただいずれは、統一した中華民国と日本の間に満州国を巡り対立し、朝鮮の民族問題もまた勃発するであろうが、欧米と日本が戦争に至るような事態は避けられたと思われる。現在の台湾に近いような国が隣国にあることになり、今とはずいぶん異なる東アジアの様相となったであろう。

 こうした疑問に答えてくれたのが、「日本陸軍と中国 「支那通」にみる夢と蹉跌(戸部良一著、ちくま学芸文庫、2016)である。戦前、支那通と呼ばれた中国の専門家は陸軍に偏っており、いわゆるシビリアンコントロールの下、外務省、あるいは政府諜報部門の専門家がいなかった。さらにこうした陸軍の支那通は駐在武官、軍閥顧問として情報を収集し、陸軍、あるいは政府の政策自体を変更しようとした。軍閥と日本政府の仲介役をしようとしたのである。こうした傲慢な姿勢は結局、陸軍を通して日本の政策を誤らせることになった。

 英米にも、支那通と呼ばれた人々はいたが、これらは民間人(ジャーナリスト、学者)や軍人、外交官など多岐に渡り、政府はこうした人々からの情報をもとに首脳で議論して政策を決定していた。ところが日本ではこうした支那通の軍人が勝手に自分の考えを主張し、逆に政府や軍がそれに振り回される結果となった。そしてその根本理念が日露戦争で得た中国東北部の権益の確保と増大にあった。日本にとって都合のよい相手と組み、思う通りの政策をするという身勝手なものであった。一方、中国のナショナリズムの胎動に気づき、積極的に孫文の中国革命を支持した人物もいた。本書では、その代表的な人物として佐々木到一に焦点を絞っている。佐々木は混乱した中国の中で唯一希望がもてる人物として孫文に共感をもち、軍務局長の小磯國昭からは「ササキイ、革命はまだかね」と揶揄されたり、大川周明からは孫文への傾倒から喧嘩にもなった。ところが佐々木もあやまって国民党軍に捕まり暴行されるという事件がおこったことをきっかけに次第に国民党への関心は薄らいでいく。こうした佐々木や他の支那通軍人に比べて孫文、蒋介石、袁世凱などの中国の人物はしたたかで、軍人では全く歯が立たない。人、時期により180度違うことを平気でしゃべるのが政治家であり、これは軍人の性格とは全く異なり、両者は基本的に理解することは難しい。明治時代は軍人であり、政治家であった人物も多くいたが、昭和になるとそうした度量の大きな軍人はほとんどなく、極めて偏狭な立場から事を起こした。さらに言うと、孫文への支持者は民間人が多く、軍人はそれに対抗して軍閥に肩入れしたのかもしれない。

 昭和になり総理大臣は終戦までに15人変わった。ほぼ1年ごとに首相が変わったことになる。一番長い内閣でも東条英機首相で、2 年9か月にすぎない(同時期、イギリスは4名)大統領制をとらない日本では、象徴天皇を除くと、最高指導者は総理大臣であり、これが頻繁に変わったのでは、官僚、ことに戦前では、その最大官僚勢力の陸海軍が主体となってしまう。その陸軍も大臣が昭和元年から20年までに14名変わった。上層部がこうでは、中国政策も支那通と呼ばれる佐官級の軍人のしたい放題になりがちで、一人のリーダーが長期に渡り国の方向を定めるのはリスクも多いが、一方、戦時下では、強い指導力が求められる。元老が消滅した大正期を境に日本の混乱は極め、その合間に官僚、軍部の歯止めが効かなくなる。支那通軍人の戦争責任を問う前に、その上部組織の首相の頻回な交代を許した世論、とくに新聞を中心としたマスコミの責任は大きい。日本もようやく安倍内閣が3年9か月の長期政権となり、これが外部からの侵略への抑止力となっているが、1年ごとに首相が交代した民主党政権時が最もやばかった。

2016年8月25日木曜日

飯田巽

京浜実業家名鑑から

 飯田巽は幕末から明治にかけた活躍した官吏、実業家で、弘前藩でも非常に優秀な人物だったようで、“津軽人物グラフィティー”でも取り上げたかったが、資料が少なくて諦めた。先日、弘前市立図書館に行って関連書物を調べたところ、多少のことがわかったので、報告したい。

飯田巽(いいだ たつみ 天保十三—大正十三 1842-1924)
 弘前出身。日銀理事。式部官。従四位勲四等。津軽藩士飯田勇蔵の長男。江戸津軽藩の別邸で生まれた。はじめ虎之丞、のちに巽、雅号を聴泉と号した。安政三年十二月、小姓組役、翌四年六月に藩主承昭の近習役、元治元年に近習小姓役に昇進している。明治五年大蔵省出納寮十四等で中央官界に入る。その後、昇進し、明治八年には出納大属、司計課長に昇進する。旧幕府の大副帳方式を一新して、西洋式計算方法に変更する。明治十六年には松方大蔵卿から日本銀行理事を命じられ、日銀の国庫局長になった。全国100余行の国立銀行紙幣を消却処分して日本銀行券だける大事業を成功させ、その手腕を買われ、皇室の財務整理にも関わった。明治三十一年には官を辞して、実業界に入り、日本郵船監査役、日本煉瓦株式会社、加納鉱山株式会社の取締役、日本赤十字社の監事などを勤めた。このあと津軽伯爵家から家政相談員を委嘱され、家憲の制定にあたった。青森県人の学生寮として東京に修養社を創設するときに委員として大いにつくした。(青森県人名大辞典、東奥日報社、昭和44年、一部略)

 この人の資料としては自叙伝にあたる“巽経歴譚”(1906)と、これを参考にした“明治の津軽びと 飯田巽と旗郎(一)”(東奥義塾研究紀要 第8集、川村欽吾、1975)がある。前者は飯田の直筆原稿をそのまま印刷した変わった本で、ぺらぺらの紙に薄い青のインクで印刷されていて、ページをめくるのが怖い。国立国会図書館にもない貴重図書である。端正できちんとした字にその性格をみることができる。その中から一部、抜萃する。

 飯田巽は、天保十三年八月に弘前藩江戸藩邸で生まれる。安政二年(1855)十月二日に発生したM7の大地震(安政江戸地震)では、住まいが一瞬に崩壊して、母、叔父、兄弟二人の計四人の親類縁者が家の下敷きとなり亡くなった(潰死)。これは子供時代の最大の事件で「巽経歴譚」でも、その描写はもっとも異彩を放つ。もともと飯田家は、初代を惣助といい、信州の飯田出身で、享保十六年(五代藩主、信寿)に足軽として定府に仕えた。才能があり、後には奥附取次役(中士待遇)となった。二代、甚次郎貞剛は馬廻番頭格奥附取次役、三代、謙蔵貞之は勘定奉行、長柄奉行格に出世(上士)し、四代、勇馬貞幹は長柄奉行格、錠口役となっている。五代が飯田巽であり、正式には飯田巽貞恒または貞徳で、幼名は虎之丞であったが、その後に巽(たつみ)とし、さらに読みを巽(ゆずる)とした。多くの本では“ゆずる”とは読まれていないが、本人がそう言うのだから、これが正しい。母は弘前藩医、山上俊泰の長女、チヨである。巽が二十二歳の時に川村熊吉(寛裕)の妹のマツと結婚した。

 幕末に江戸藩邸から国許に移り住むが、在府が長く、あまり親類もいないため、弘前、白銀町医学校後の江戸長屋(今の弘前図書館)に住んだ。八畳、六畳、長四畳の三室に下男、下女を加えての生活であった。財務の能力が高く、明治五年には新政府の役人となって上京するが、家族は明治十五年まで弘前土手町松野幹方に暮らしていた。そのため本籍は青森県中津軽郡弘前土手町61番地 松野幹同居となっている(松野家との関係は不明)。

 飯田巽は津軽の人には珍しく、財務、経営の才に恵まれ、大蔵省、日本銀行で大きな仕事をし、その後も実業界で活躍した。若い頃から優秀であたったのか、幕末、藩の使命で多くの交渉を行っている。いわゆる近代学校を出ていない人物だが、こうした人物が明治政府には多くいて、かえって変な理屈もなく、物事の本質から仕事を理解し、実施した。東京大学出が大蔵省、日銀の中心になったのは明治中頃で、その浸透は速い。

2016年8月22日月曜日

シーレーン


 
日本は周囲を海で囲まれた海洋国家であり、国土が狭く、食物、エネルギー資源など主要な物品を輸入に頼っている。そして、輸入のほとんどを船舶による輸送に頼っているだけに、シーレーンの確保が国土防衛の中心的なテーマとなる。太平洋戦争での敗北は米軍によるシーレーンの封鎖と爆撃による生産破壊であったことは身にしみた。それ故、海上自衛隊の編成は、旧海軍で最も不十分であった輸送船を護衛する護衛艦(駆逐艦)、哨戒機、掃海艇、潜水艦の充実が第一であり、ある意味、非常に偏った編成となっている。

 こうした戦略のため、四方の海に出口を持つ日本のシーレーンを外部から完全に断つのは非常に難しく、おそらく本土の港を徹底的に爆撃しない限りは海上での封鎖は、あの米軍をもってとしても不可能であろう。現在、中国が南シナ海でさかんに軍事拡張をしているが、あの海域を完全に中国に抑えられても日本の海路はいくらでもあり、輸送費の高騰を招くとしても国がつぶれることはない。一方、中国はどうかというと、鹿児島から沖縄までのラインを抑えられると、南シナ海からのラインしか残されていない。何度か、太平洋から石垣島—沖縄—鹿児島ラインを越えようとしているが、平時での警戒態勢でも、その侵入は日本に把握されており、これが戦時化となると、このラインを越えることは厳しい。ライン上には複数のソノブイが重層に張り巡られており、すべての船舶の音源も解析されている。地対艦ミサイルや誘導追尾型機雷(91式機雷)とのコンビネーションで哨戒能力の劣る中国海軍ではまず通れないし、さらに自衛隊の潜水艦と哨戒機による防御を突破するのも厳しい。

 中国は元来、大陸国家であり、外国に頼らなくても食糧、エネルギーを自給自足できる国であったが、ここ40年の改革開放政策により外国からの輸入なくては立ち行かない国となった。その当然の帰結としてシーレーンの確保が生死の要となってきた。これを確実にするための方法は、南シナ海の制圧か、石垣島—沖縄—九州ラインの切断であろう。尖閣列島自体、エネルギー資源を別にして、島自体はあまり価値がないが、このラインにくびきを入れる上では重要なポイントとなる。とりえず最終目標、沖縄の勢力化への橋頭堡となる。

 一方、日米からすれば東シナ海、南シナ海を抑えれば、中国のシーレーンを封鎖できる。あれだけの大国でありながら、海への出入り口は東方のみであり、また四方は必ずしも友好国に囲まれておらず、一旦封鎖されると国の崩壊にも繋がる。それ故、近年、シーレーンの確保にやっきになっているのである。日本がやる政策は、東シナ海の台湾—沖縄—九州のラインの防御密度を高め、宮古島、石垣島など離島へ地対鑑ミサイルの配備と基地化、台湾、周辺諸国との連携、できれば秘密裏の武器輸出、ベトナムへの中古潜水艦の譲与など、徹底的に中国のシーレーン封鎖を脅かすことが挙げられる。一方、大陸国家である中国が不慣れな海上国家に変換するには途方もない費用がかかり(アメリカと対抗するには)、ソビエト崩壊のような財政的な危機を生みかねない。シーレーンの確保だけが目的なら日米も含めた周辺諸国との条約を締結することで目的は達成できる。


 中国が中進国から先進国への向かうためには、今後、ますます年金、医療、学校などの社会主義的な保障の充実が必要で、これにも途方もない金がかかり、これ以上の軍事費の増大は中国国民にも不満がでるかもしれない。隣国の日本に息づく社会主義的な政策、これは本来の社会主義国である中国国民が最も渇望している政策である。くやしかったら医療の無料化、保育所から大学までの学校の費用の無料化、安心して老後を暮らせる年金、安い公営住宅の供給など、日本共産党が言うような政策を是非とも実施してほしいものである。