2012年3月26日月曜日
本多庸一 4
今年は、本多庸一(1849-1912.3.26)の没後百周年に当たります。そしてちょうど今日が、100年目の命日となります。
院長を務めた青山学院では、5月に本多庸一先生昇天100周年記念事業が行われ、礼拝、シンポジウム、感謝祭、気賀健生著「本多庸一」の改訂版を出す予定です(青山学院資料センターだより)。弘前でも弘前教会、弘前学院で記念事業が行われるようですが、東奥義塾では特に記念事業はないようです。
本多庸一の墓は、ふたつあり、ひとつは東京の多磨霊園にあります。もともとは東京青山墓地にありましたが、昭和7年に多摩霊園に移されました。詳細については「津軽と江戸」http://kasatetu.exblog.jp/10749883/のブログに書かれています。もうひとつの墓は、故郷の弘前市、本多家先祖代々の菩提寺、新寺町本行寺にあるようです。小さなもので「本多庸一久亨墓」といかにも武士らしい名が刻まれています。明治19年、本多の妻みよ子が急死した際、本多家の菩提寺の本行寺に会葬者とともに葬列が到着しましたが、宗派の違いのため寺門は閉じられたままとなりました。何とか交渉して脇の通用門から通ることが許され、埋葬できたようです。後に本行寺の高僧と本多は親交を結ぶことになったようで、本多自身の会葬はこういった問題もなかったと思われます(津軽を拓いた人々より、相澤文蔵著)。この本行寺の本多の墓については確認していませんが、こういった小さな墓は来訪者がいないと整理されてしまいますので、探しにいくともうなかったということも度々あります。
本多の生誕地にも、この没後100周年を記念して説明板が建てられるようですが、場所は確実に特定でき、今の弘前大学医学部正門前のアパートのところです。門は在府町に面しているので、できればそちらに建てた方がよいでしょう。明治3年。本多家は藤崎に移住し、藤崎町の庄屋清水理兵衞宅に住んだと藤崎学エコミュージアムに記載されていますが、明治4年士族引越際の地図を見ると隣の中田彦五郎には△印がありますが、本多八郎左衞門(本多庸一父)のところには△印はなく、明治3年には本宅を残したまま移住した可能性があります。
(http://www.fujisakimachi.jp/apple-history/150-2011-03-28-06-49-04)
ついでにいうと、本多東作久貞と西舘俊子(西舘孤清伯母)の間に男子がいなかったため、分家の本多忠左衞門の息子を長女とも子の養子にして、本多家10代本多東作久元となりました。この久元が、本多八郎左衞門で、本多庸一の父親となります。それ故、本多庸一の武士として、本多家11代としての正式な呼び名は、本多庸一久亨(久の字を代々つける)となります。なお分家の本多忠左衞門の長男は、長坂町の本田軍蔵(本多の間違いか)と思われます。故郷の菩提寺には先祖代々の名前を刻んだのは、本多の士族としての誇りによるものかもしれません。
本多庸一は、最初東長町の清藤という漢方医の家で伝道所を開きましたが、場所は特定できません。その後、明治10年に今の弘前教会のある所に住まいと伝道所を移しました。櫻庭家の邸宅を購入したとなっていますが、明治2年絵図では、斉藤掃部の屋敷となっています。明治4年の地図では、それぞれ元は斉藤良助、今は町家となっており、ここが櫻庭家だったのでしょう。さらにおもしろいのは、今の教会の隣の喫茶店あたりは浴室となっていますし、道を挟んだ高屋恒之進宅は明治四年より劇場となっています。おそらく福士幸次郎の父親が働いていた柾木座のことでしょう。
本当に弘前博物館にお願いします。何とか明治四年士族在籍引越際之地図並官社学商現在図、なんとかデジタル化してください。館内に収蔵しても、何ら役には立たず、公開して初めて市民に活用できます。費用も明治二年弘前絵図でデジタル化した程度でしたら、数万円でできます。明治二年と四年の地図、両方を公開することで、比較ができますし、資料の保存の観点からも重要です。ちなみに今回は弘前市史に入っている付録資料の明治四年士族在籍引越之際地図を図書館で拡大コピーしたものを使用していますが、ほとんど判読できないものです。明治二年絵図を参照に何とか読めますが、一部の研究者のみに原本を見せて、写真撮影をさせるやり方はどうもあまりよいやり方ではないように思えます。
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4 件のコメント:
初めまして(*^^*)先生のブログを初めて拝見させていただきましたが勉強になりました(^.^)私も矯正して、ましたが前歯が少し戻ってしまいましたが、やはりしょうがないんだなと思いました(^_^;)
質問なんですが、私はまだ乳歯が一本抜けていません。やはり歯根吸収ということになり抜けてしまうんですよね?
抜けてしまう前に抜いてインプラントをいれた方がいいのか悩んでます(;_;)
矯正歯科と関係なさそうですが、お時間がある時にまた書いて頂けたら嬉しいです(*´∇`*)長々すみ せんm(__)m
乳歯の晩期残存は、かなり歯根が吸収していても、自然に抜けるまで、場合によっては20年以上もちます。従って、抜けてからインプラントを検討した方がよいでしょう。
お返事ありがとうございますm(__)m
抜けてからインプラントをすることにします(*^^*)
少しでも長くもつように頑張ります\(^o^)/
初めまして。生は藤崎町で受けまして 地元小学校図書館に何故外人さんの写真が飾られてあるのだろうと不思議に思っておりましたが 後にその人が本多庸一と知りました。
さて古地図のデジタル化されたご著書。月刊弘前編集部の方より教えて頂きました。私が「早道ノ者」の事を調べておるのを知っていたからです。先生のブログは前には拝見しておりました。北辰堂の編でであります。実は本覚克己流を調べるにあたり 前田光世の事もさる事ながら 中川小隼人の事に行き当たり 「早道ノ者」の事を調べておりました。稽古場がりんご公園の辺りだったと知り大変興味深く思っております。
また前田光世の柔術の師が斎藤茂兵衛であり その住まいを地図上で紹介していただけた事でも嬉しく思いました。もう少し早ければ古武術専門誌 月刊「秘伝」での弘前の武術の特集(今月号)にて取材に伺わせていただいたでしょう。前田の碑の写真も借用させていただきたかった。
本覚克己流は 現在伝承者が名乗り出ていただいていないので 独自に復元作業をしております。月刊「秘伝」にてはまたあらためて特集していただけるようなので いつかは先生にお目通りさせてもらう事になるやと思います。
ともあれ この地の文化に着目してくれる方が一部の地元の人のみであり 結構他県出身の方が掘り出してくれる事多々あり 少し残念に思います。
ある前田光世の事をまとめた方は 地元の剣道家でありますが その存在を知ったのはドイツでの交流試合にてだったそうで ドイツの人が知らない事に驚かれていたそうです。
さてさて 今後もブログ楽しみにしています。
追伸…古文書の類に関しての対応。ブログに出ていた地図。私も観ました。欲しいところのコピーではなかなか見切れないものがあります。地図は全体があって見えて来るものもあるからです。本当に融通が利きませんね。本覚克己流など津軽の武芸を調べに来られた東京の著名な流派の師範が十数年前その対応に怒っておられました。
こちらでも見つけた古文書を 保管管理が整っている図書館に寄贈しようと考えているのですが 後の研究する者に対してはどんどん門戸を開いてもらうようにと 一文添えねばと思うぐらいの次第です。
それでも変わらないところもありましょうから 独自でデジタル化をしてから寄贈しようと思っております。長々失礼いたしました。
さらに追伸
映画「阪急電車』観ました^^
大学は大阪でしたので 友が川西と宝塚にもおりましたよ。
ちなみに弘南鉄道のジュラルミン?車両。
Uターン組が 東急だね〜と言う中 あっ南海やと思うのは私だけです^^;
昔は近鉄車両も走っていたのです。
叔父が運転手だったので間違いありません。大阪から持って来た話しますんで。
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