2012年10月25日木曜日

昔の記憶を探して 釜萢堰





 本日は、休診日のため、以前から気になっていた明治二年弘前絵図の場所を探した。まず釜萢堰(かまやちぜき あるいは かまやつぜき)。その名前から、弘前藩士、釜萢家の先祖の誰かが作ったことは間違いない。明治二年当時、釜萢姓は4人おり、庄之助(茶畑新割町)、多門(長坂町)、是太郎(小人町)、字一(鷹匠町小路)である。住居地より本家は多門あるいは是太郎であろう。勝海舟の長崎伝習所に入学して海軍技術を学び、新規召し出しとなったのは、茶畑新割町の庄之助で、釜萢是太郎の弟となる。

 本によれば、釜萢堰が作られたのは、三代藩主津軽信義の時代であり、信義の在職期間は寛永8年(1631)から明暦元年(1655)までであったことから、この釜萢堰の出来たのも、350年以上前になる。ずいぶん古い堰(水路)である。

 絵図から私の診療所近くから、調査を進めた。代官町の石田パン屋の前のところ、建物と建物の間に水路がある。これが釜萢堰である。幅は50cmくらいの狭い水路である。そのまま石田パン屋の横の道に沿って進み、赤石歯科医院の手前で右に折れる。みちのく銀行弘前営業所と三上駐車場の間を進み、そこから中央通りの下を抜けて、植田町に繋がる。

 植田町沿いの右側をずっと進み、かなり進んで、一戸美容院のところで左に曲がる。ここまですべてコンクリートのもので、一部は完全に蓋がされている。和徳通りを横切り、瓜田飴店の横に再び姿を見せる。ここは昔ながらの石組みが残っている。さらに民家の間を抜けて、コープ青森の駐車場に出てくる。その後は民家の間を通って、蛇行しながら茶畑町の道と平行して進む。ずっとと進むと、野田団地市営住宅の裏の水路に繋がる。ここから水路は西に進むが、野田団地裏は一部石組みの古い作りとなっている。北大通りを横切り、総合保健センター横を抜け、さらに南横町に向かう。ここも一部石組のものが残っている。弘前第一中学校の横を抜け、土淵川と平行してさらに抜けて、そして土淵川と繋がる。

 以上が今回調査した釜萢堰である。ほとんどの場所は、周囲をコンクリートで固められ、350年以上の歴史のある堰の雰囲気は全くない。ただの融雪溝である。おそらく付近の住民も誰も釜萢堰という名前も知らないであろう。唯一、古い雰囲気を残すのは、和徳通り、瓜田飴店隣から、コープ青森までの10メートルくらいのみである。これも専門家の鑑定が必要だが、江戸期まで遡れるものではなさそうで、せいぜい明治、大正というくらいか。こういった水路は、現在のコンクリート製になるように、その都度、改修されていったのであろう。ただあくまでこれは推測であるが、江戸時代の堰自体は石組で作られていたのは間違いないであろう。幅は数十センチで周囲は丸い石を積み上げて組み、道と交差するところ、つまり道を横切るところは、板あるいは平たい石、例えば兼平石などで覆われていたであろう。幅が数十センチあるため、そのまま道を横切ることは、ありえない。飛び越えないと、歩けないからである。冬の雪を考えると、石で覆いたいところであるが、これだけ大きな石となると費用もかかり、やはり板による覆いと考えた方がよさそうか。

 350年前の水路というのは、弘前にとっても貴重なものである。それがそのまま現在でも水路として活用されているのは、すごいことであるが、ただ残念なことにほとんどがコンクリート製となり往時の雰囲気はない。少なくとも唯一残された部分については一度調査をして、残す必要があれば、整備すべきだと思う。つい最近までこういった堰は、昔の雰囲気を残していたが、その由来も知らないまま、安易にただの水路、融雪溝に変えていった。これはある意味、歴史と文化の町、弘前と提唱するには、恐ろしいことである。

 写真上は、代官町の石田パン屋前、二番目と三番目は和徳通り、瓜田飴店横、一番下は南横町の釜萢堰。

5 件のコメント:

te28 さんのコメント...

「釜萢堰」の名前は、このブログで知りました。ありがとうございます。植田町の一戸美容院近くの釜萢堰は、私の通学路(和徳小学校~萱町)でした。
 横町の南北は和徳通りで別れていたと記憶しています。
「南横町」とあるのは、「北横町」の誤解ではないでしょうか。

広瀬寿秀 さんのコメント...

仰るように”北横町”の間違いです。絵図をもう一度確認しますと、確かに和徳通りで二手に別れ、西に向かい、朝陽橋方向に進んでいきます。また土淵川より別の水路が御徒町川端町、徳田町に沿って流れ、現在の鎌田屋付近で繋がっています。農業用水というよりは、今の排水路あるいは下水に近い、水路で、町に住むひとに使われていたのでしょう。
ご指摘、どうもありがとうござました。

匿名 さんのコメント...

こんにちは
釜萢堰というんですね、初めて知りました。
実家が茶畑新割町(現:茶畑町)にあります。実家の裏を流れていて、今も融雪溝として使ってるようです。
私が子供の頃の昭和40年代はもう少し水量があった気がします。
また当時近所に釜萢さんという家がありました。今でも釜萢さん家があるのかどうかは不明。
10月にアップルマラソン出場のため実家に行くので、そのとき親戚と話してみようと思います。

広瀬寿秀 さんのコメント...

茶畑新割町については、ブログ画面の左上の四角のところに”茶畑町”で検索しますと、過去の関係するブログが出てきますので、ご参考に。

匿名 さんのコメント...

コメントありがとうございます。
明治二年の絵図が見たくなり、Amazonで検索したら在庫ありでしたのですぐ購入しました。
絵図は思ったより大きかった。
ルーペを使ってじっくり見るのも楽しいですね。