2007年3月5日月曜日

今和次郎1



今(こん)という名前は青森ではそれほど珍しい名前でない。今和次郎(1888-1973)は、弘前市百石町16番地にて、医師成男、母きよの次男として生まれた.三男の純三は日本における銅版画の先駆者のひとりで、叔父の裕は医者で学士院賞受賞、北海道大学の第四代総長である。時敏小学校から東奥義塾中学校に進学し、その後、東京美術学校図按科(東京芸大デザイン科)に入学した。この頃の今の回想に「少年時代から私は学校というものはきらいであった。教室の机に座っていても、講義している先生の顔をぼんやり見ているだけで、講義そのものは何が何だかわからない」とあり、弘前中学、弘前高校の受験にも失敗し、母親を泣かせたそうだ。両親とともに上京して入った東京美術学校の入学式で「この学校は、何も教える学校ではない。また勉強せよなどとはいわない。大勢入学した人の中から一人か二人天才的な人が出ればよい」との訓示には、勉強嫌いの今にはうれしかっただろう。明治45年には新設された早稲田大学理工科建築学科の助手として採用されたが、実際は「小使でもというのならよろしい。明日からきてもらうか」というものであった。それでも今が優秀だったのか、早稲田大学の懐が深いのか、2年後の26歳には講師、27歳には助教授、32歳には教授となっている。
この頃の研究に、柳田邦男や石黒忠篤らと行った民家の研究がある。建築家であれば、建物の構造に興味があるはずだが、今らしいのは家庭の器具、ひしゃくが何個、どこにあるとか、そんなことまで調べており、それを絵にしている。赤瀬川原平さんの絵のようでおもしろい。また関東大震災後のバラック調査は、すぐに壊される運命の建物を記録に残して点でも現在の目からみれば貴重なものである。
建築学科の教授となれば、西欧を模倣したその分野の研究を求めがちだが、今にとってはそんなことはどうでもよく、誰も顧みないもの、消えいくものに興味を示した。ここにも津軽人の反骨の気概が見える。

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