2007年3月20日火曜日

本多庸一3


本多庸一の生誕地は弘前市在府町3番地で、弘前大学医学部の校門前の閑静な住宅地にある。今は学生向けのアパートになっている。このあたりは、後に弘前大学教授夫人殺人事件の舞台になったところで、弘前出身のルポライターの鎌田彗さんが「弘前大学教授夫人殺人事件」という本をまとめている。60年前の事件とはいえ、関係者やその子孫もいるため、今読んでもなまなましい。
私は現在、弘前ロータリークラブに所属しているが、日本のロータリーの創始者で、現在でも中国やアジア諸国からの留学生を世話する奨学金制度で有名な米山梅吉も本多と関係が深い。海外留学を目指していた米山は、東京の東京英和学校に入学した。ここで米山は本多と知己を得、渡米後もかの地でも本多と親しくする機会があり、本多に深い尊敬の念をいだくようになった。帰国後、三井銀行に入った米山はあまり本多のところには寄り付かなかったようだ。別にけんかしている訳ではなく、むしろ本多に近づくことで、キリスト教に傾斜することを恐れたのではなかろうか。厳格な武士のような気概をもつ尊敬する本多は、俗人で若い米山からすればかえって近づきにくかったのであろう。本多のことを尊敬していたことは、米山の青山学院へのその後の支援にも現れている。米山は青山学院の附属小学校である緑岡小学校を作ったが、戦争中の疎開先として選んだのは、弘前市である(船沢字蒔苗)。本多のことを思い出したのであろう。
ロータリークラブの創始者ポール・ハリスの中に米山は武士の姿を見たようで、それは尊敬する本多の奉仕の精神とも関わり、その運動に強く共鳴したのであろう。
竹内宏文著「点描米山梅吉 日本ロータリークラブと信託業の創始者」(新風舎文庫)および弘前市教育委員会編「中学生のための弘前人物志」を参考にした。

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