2007年3月26日月曜日
陸羯南1
陸羯南(1857−1907)は弘前市在府町22番地で生まれた。津軽藩士 中田謙斉の子として生まれるが、後に親類の陸家の姓を名乗った。15歳のころ漢学者の工藤他山の塾に1年ほど行くことになり、そこで作った漢詩「風涛自靺羯南来」からその号を羯南とした。今の中学3年生と思うと、江戸、明治の日本人の漢学の素養は本当に高いものであった。その後、本多庸一が開設した東奥義塾の1回生として明治5年に入学した。同期には珍田や一戸、伊東らがいる。ここで2年間英語を習ったが、切り替えが難しかったのか、その後もあまり英語とは関係ない人生を送っている。家が大家族で(これも姓を変えた理由か?)、私学の義塾に通う金がなかったせいか、仙台の師範学校に移った。薩摩出身の校長の横暴に腹を立てすぐにやめ、東京に行き、今度は司法省法学校に入学した。入学したものの賄い征伐という事件に巻き込まれ原敬や福本日南などとともに退学している。結局、どこの学校もまともに卒業できず、弘前に戻ってくる。頭がいいのにプライドが邪魔するのか、このあたりの我慢のなさは笹森儀助にも共通する。23歳になった羯南は「青森新聞社」の編集長になり、ようやく天職に巡り会う。
羯南の顔写真をみると、典型的な津軽の男衆の顔である。津軽の男衆の顔は2通りあり、顔が長く、のっぺりした顔と、もう一方は目が二重でぱっちりしたかわいい顔である。両者とも色は白いが、いわゆる伊達男といわれるがっちりした男前の顔ではない。羯南に会ったひとはみな、その目でじっと見られると深い威厳に打たれたとしている。西郷隆盛のような大きくて、ぱっちした目が人を引きつけたのであろう。
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