2007年3月18日日曜日
本多庸一2
キリスト教徒となった本多は地元に帰り、東奥義塾の塾長となった。そして北の果ての地に高度な教育、特に英語教育を実践させるには優れた教師を招聘する必要があるとし、宣教師のジョン・イングを破格の待遇で招いた。イングの弘前での住まいは、現在東奥義塾外人教師館として弘前市立観光館にあるが、当時の田舎の建物としては別格の豪華のものである。本多らの意気込みが感じられる。イングもその期待に答え、珍田、一戸、佐藤愛麿などの優秀な人材を輩出した。また青森県に初めてリンゴを紹介した人物としても知られる。
本多は教育と伝道に明け暮れるかかわら、自由民権運動にも加わり、青森県の県会議員や、議長なども努めた。このままいけば名士であった本多は中央の政治の舞台に行っていたであろう。39歳になった本多は初めてアメリカに留学した。そこで奇跡的な霊的体験をした本多は政治家を諦め、神の道に歩むことを決心し、ニュージャージーのドールー神学校で本格的な神学の勉強をする。
帰国後、東京英和学校(のちの青山学院)に勤務し、その後学院長を努めた。青山学院の初代院長はMaclay(1883-1887)であるが、二代院長本多は1890-1907という17年の長きにわたり院長を努め、慶応の福沢諭吉、早稲田の大隈重信、同志社の新島襄の相当する実質的な創設者である。青山学院と弘前の関係は深く、第六代阿部義宗、第7代笹森順造らも弘前出身である。すべて本多の教え子である。ちなみに珍田捨巳も外務省に入る前にここの英語の教師であった。
日露戦争に折には、桂首相やおそらく外務次官の珍田らの依頼により欧米各国を訪れ、日本の立場を説明した。明治40年、青山学院を辞任した本多は日本メソジスト教会の監督として日本各地をまわり伝道を行い、明治45年にチフスにかかり亡くなった。
武士の魂をもったきびしい教育者であり、伝道師であった。その精神は現在でも青山学院の中に残っていると思う。
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