2007年4月26日木曜日

三上ビル




土手町の繁華街をお城の方に歩いて行くと、右手に見える古いビルディングが三上ビルです。昭和2年に建てられた弘前でもかなり古い鉄筋コンクリートによる3階建てのビルです。現在、文化庁の有形文化財になっています。もともとは弘前無尽社屋で、弘前相互銀行(
現みちのく銀行)の前身であったと思われます。その数年前の1923年には斜め前に、角はデパートが完成し、ここら一体は当時の超モダンな場所であったのでしょう。
このビルの前はしょっちゅう通りますが、なかなか入りにくいところで、一階の喫茶店は昔はレストランで何度か入りましたが、別にどうってことないものでした。外観は当時はやったアールデコ様式です。
このビルの前に津軽塗の老舗田中屋があります。地元の津軽塗の多くの作品を販売しています。また二階の展示室では、小さな個展も開かれていて、弘前在住で最近亡くなられた村上善男さんの個展も何度かありました。田中屋ではイタリアのアウロラ社と組み、津軽塗を使った万年筆とボールペンを販売しています。遠方から来られたお客さんにはかさばらず、おみやげとして好評です(万年筆は高いのですが、ボールペンはそれほどでも)。このようなコラボは今後も続けていってほしいと思います。今でこそ津軽塗といえば、七子塗や唐塗などを思い浮かぶひとも多いと思いますが、江戸時代の商品カタログに当たる津軽塗手板を見ると、本当に多くの種類があり、現代的なデザインとして評価できるものも多いと思います。以前みた小箱でも違ったデザインの3段の箱にするだけで全く異質なモダンなデザインになっていました。地元の伝統工芸にこだわらず、海外や若手のデザイナーとのコラボが必要と思われます。

2007年4月20日金曜日

玉田酒造、三浦酒造





今回はお酒屋さんの紹介です。上の写真は在府町から茂森町に行くところにあるカネタ玉田酒造です。見るからに古めかしい建物で、津軽藩ができたころからあるようで、すでに300年以上たつようです。下の写真は少し離れた石渡にある三浦酒造の建物です。弘前は古い城下町で市内には昔は何軒も造り酒屋がありましたが、近年は数は少なくなっています。私自身、「日本酒の会」http://www.hi-net.ne.jp/aoba/nihonshu/に入っていまして、これまで500本近くの日本酒を飲んできました。この会に行くと毎回、飲み過ぎになるのが欠点ですが。日本のいい酒はほとんど飲んだと自負しています。
青森の酒というと「田酒」が有名ですが、なかなか地元でも手に入りません。さすがにこの会のすごいところは田酒もほとんどの種類飲んでいます。玉田酒造は「津軽じょんがら」など3種類、三浦酒造は「豊盃」を6種類飲んでいます。豊盃については醸造元の三浦さんが直接例会に持ち込みもあるので、もっと多くの種類を飲んでいると思います。
この会は全国のいい酒ばっかり飲んでいると揶揄されますが、青森のお酒は全国的にみてもかなりのものと思います。とくに豊盃は生産量は少ないですし、年によりいい悪いがあるようですが、三浦さんの酒に対する方向性は確かだと思います。一度賞味してみてください。中心街というと鍛冶町にある酒の柳田http://sakura.tsugaru.com/yanagida/tenpo2.html、最近では中三デパートの地下にも青森産の日本酒を多く扱っています。豊盃のお酒で印象的だったのは「豊盃 三人のめば文殊の知恵 しぼりたて生酒」という春陽米という変わった米を使ったもので、非常に飲みやすいものでした。現在は生産されず、しぼりたて生酒に継承されているようです。なおベーシックな豊盃米を使った「豊盃 純米吟醸 豊盃米55」もいい酒です。

2007年4月17日火曜日

Q&A 矯正歯科治療をどこで学ぶのでしょうか


矯正歯科は歯科の中でも非常に専門職が強い分野です。1900年ころには先にでましたアングル先生が矯正歯科の専門学校をカリフォルニア州に作りました。その後は主として歯科大学の中に2年あるいは3年のコースが作られました。アメリカでは4年制の一般大学を卒業後に、4年の歯科大学を卒業してから矯正歯科の2、3年のコースに入ります。その後、勤務医を経て開業するようです。ただ一般的にはストレートにいくことは珍しく、4年制大学卒業後に一旦就職して金をためてから歯科大学に、歯科大学卒業後も一般歯科で稼いでから矯正歯科のコースといった回り道をするようです。かなり授業料がかかるようです。
日本では6年間の歯科大学卒業後に、1年間の研修医を経て、大学の矯正歯科学講座に入局します。国立大学では大学院大学になっているため、まず4年間の大学院に入ることになります。研究のかたわら臨床もして患者さんを見ますが、通常矯正治療は2年以上かかり、さらに保定期間の2年はみるため、これだけでは臨床経験が少ないことになります。さらに数年、医員や助手として大学に残りながら臨床経験を重ね、認定医の試験を受けることになります。かっては認定医の試験はそれほど難しくはなかったのですが、今では自験例の中から特定の症例を審査した上、合格となります。一応、大学などの指導機関で5年以上としていますが、現実的には7,8年はかかるようです。これで矯正歯科医を名乗れます。さらに昨年から認定医の上に専門医というものができ、カテゴリーの異なる10症例を提出してきびしい審査を経て、専門医となります。10症例とは言え、かなり練られたカテゴリーのため矯正専門で10年以上、500症例以上の治験がないと資料が揃わないと思われます。
アメリカやヨーロッパでは専門医制度(ボード)が確立していますが、日本でもようやく本格的な専門医制度がスタートしました。今後は、アジアボードに発展することを期待しています。
写真はフィギュアスケートの韓国の星、キム・ユナさんで、ばっちり矯正器具が入っています。

2007年4月16日月曜日

Q&A 指しぶりはいつごろまでにやめさせるのですか


昨日、「Thumsucker」という映画を見ました。キアヌ・リーブスが診療室でタバコを吸い、催眠術を使う変わった矯正歯科医の役で出ています。一人の少年が指しゃぶりに悩みながらも、自立していく青春物語です。
5,6歳のお子さまを持つお母さんによく指しゃぶりはいつごろまでにやめさせるのですかという質問をされることがあります。かっては指にからしをつけたり、包帯で手を縛ったりしたこともあったようです。また代償のものとしておしゃぶりを与える親もいるようです。歯ならびに影響する場合、期間と長さ、力が関係するとされ、特に一日にどれくらいするかが最も重要です。聞いてみると夜間のみの場合が多く、直接的には指しゃぶりが歯ならび、特に永久歯の歯ならびに関係することは少なく、それほど神経質になることはないと思います。ただ多くの場合、指しゃぶりが治っても、舌突出癖というくせが出てきます。これは歯と歯の間に舌を突っ込むくせで、つばを飲み込み際にこのくせが出てきます。通常、つばを飲み込むときの舌の位置はスポットと呼ばれる上の前歯の付け根の下あたりになりますが、舌突出癖をもつお子さんでは歯と歯の間に舌を入れるために垂直的な隙間が出来てきます。これを直すのが非常に難しい。ブラケットをつけワイヤーやゴムを使い、この隙間を閉じても、また舌を入れてくるため隙間があいてきます。舌が入らないような刺やループを付けた装置を入れたりもしますが、くせはなかなかとれません。舌機能訓練という方法を用いて、正しいつばの飲み込み方や舌の機能を訓練しますが、うまくいきません。
この映画の少年のように、この年齢まで指しゃぶりをする子どもは少ないでしょうし、影響も少ないと思います。舌突出癖は意外に多くの患者さん、成人も含めて、多くいます。これらの患者さんの矯正治療は非常に難しく、後戻りも多いようです。

2007年4月13日金曜日

東奥義塾外人教師館



本多庸一2でも紹介した弘前市立観光館内にある東奥義塾外人教師館は、数年前まではがらんどうで中には歴代教師などの資料があるだけでした。2、3年前から一階には喫茶店がその他の部屋にも当時を再現した調度品が飾られるようになりました。ロータリークラブの知人に聞くと、アンティークショップから当時の家具などを取り揃えてもらったようで、実際に教師館で使っていたものではありません。二階に上がると大きなリビングがありますが、ふと絨毯をみると、なんとMarasaliの絨毯があり、びっくりしました。Marasariは現在のアデルバイジャンにある村で、イラン国境側の南の内陸に位置します。ここの絨毯は、コーカサス絨毯のなかのShirvanに属するものです。小型なものが多く(!50cm程度)、ミフラブと呼ばれるデザインのなかに花やボテ模様で埋め尽くされています。コーカサスの絨毯は欧米では非常に人気があり、私も好きで2枚ほどもっています。ソ連により1910-20年に支配されるまでこの地の絨毯の生産は村単位でデザインが異なり、見分けがつきます。1920年以降はソ連の国営化により、この華麗な地場絨毯産業は消滅しました。そのため、現存するコーカサス絨毯は少なくとも80年以上はたち、多くのものはいわゆるアンティークと呼ばれる100年以上のものです。ちなみの教師館にあるMarasaliの絨毯は19世紀後半くらいのものと思われます。かなりコンディションが悪く、パイルはほとんどすり切れています。フルパイルのものであれば数万ドルはすると思いますが、この状態では価値はほとんどないでしょう。でも100年以上前の絨毯が捨てられもせず、このような場所で余生を送るのも幸せなのかもしれません。一階の喫茶店もいいところですので、一度紅茶でも飲んでみてください。
Marasaliの絨毯については、このサイトを参考にしてください。http://www.spongobongo.com/0heq9963.htm

2007年4月12日木曜日

旧第八師団長官舎



弘前偉人の方はまだまだ続けますが、地元のひとは知っているが、他県のひとは知らない観光スポットを紹介します。
一回目は、旧第八師団長官舎です。文科省の登録有形文化財に選ばれている建物で、弘前市市役所の横、駐車場にあります。少し奥にありますので、わかりにくかもしれません。大正6年に建てられたもので、今は何か市の事務所のように使われているようで、公開はしていないようです。師団長といえば戦前はそれは偉い人で、大体中将くらいのひとが着任したようです。二・二六事件で知られる眞崎 甚三郎もここで暮らしていたようです。普通、文化財に選ばれたらもう少し手を入れそうなものですが、裏から見た写真のように普通に使っています。まあこのあたりが弘前ぽいのですが。玄関に有形文化財登録のプレートがあるだけで、何の解説もないため、市役所にくる市民もよくわからないかもしれません。大正8年の弘前市俯瞰地図をみると、今の市役所全体が師団長官舎の敷地で、かなり大きなところだったようです。戦後は進駐軍の司令官宿舎に使われていたようですが、昭和33年の市役所新築工事に伴い2/3が解体され、残りが現在地に移転され、市長公舎に使われていました。一部でも残したのは良かったと思います。できれば市の所有ですし、ロケーションもよいので一般開放してほしいものです。一時は旧軍のものは何でもダメという風潮がありましたが、今では戦前の貴重な建物と思います。

2007年4月10日火曜日

陸羯南3


今年は羯南の生誕150年、没後100年に当たり、地元弘前市でも色々な記念行事が行われます。商工会議所などが主体として亡くなった9月1日を中心に8/31-9/2まで神奈川大学の復本一郎先生の記念講演やフォーラム、ゆかりの品が展示されるようです。何年か前にも同様な商工会議所でフォーラムがあり、参加しました。その時は羯南を記念し、優れたジャナリストに送る「陸羯南賞」のことが議論されていたが、その後どうなったのでしょうか。ピュリッツァー賞のような権威のある賞になってほしいですし、羯南の名は十分に冠になるに値するものだと思います。
昭和を代表する評論家、丸山真男の陸羯南論に、陸は「後進民族の近代化運動が、外国勢力に対する国民的独立と内における国民的自由の確立という二重の課題を背負うことによって、デモクラシーとナショナリズムの結合を必然ならしめる歴史的論理を正確に把握していたのである。」、「注意せねばならぬことは、進歩的とか反動的とかいう規定は、ある人間が口でどういうことを唱えているかで定まるのではなくして、彼が実践の上でどこまでその主張を貫いたかということが大事なのである。口先では羯南より勇ましいことを叫んでいた民権論者は少なくなかったが、そういう連中は後には、仇敵のごとく罵っていた藩閥政治家と平気で手を握ってしまった。それに比べると羯南は抽象的理論で示された限りの進歩性はそのまま彼の現実問題に対する批判において保持された。『日本』新聞が伊藤、黒田、山県、松方、桂等の歴代藩閥内閣に対していかに果敢に抗争したかということは、それが明治二十二年より明治三十八年までの間に、合計三十一回、二百三十三日に及ぶ発行停止を喰っていることからも推察されよう。」
陸の国民主義は単純なナショナリズムに迎合するわけでもなく、過激なリベラリズムに組みするものでもなく、両者の主張を認めながらも国としての節度と品性を求めたようである。
陸は50歳という若さで亡くなったが、昭和に入ってからの軍やナショナリズムに迎合したジャーナリストの終焉を見なくてかえって良かったという気もするし、生きていればもう少しましだったかとも悔やまれる。
羯南の反骨の精神は、今の時代こそ必要なもので、陸羯南賞の早期の設立を希望します。

2007年4月7日土曜日

透明な保定装置 Essix


先月、大阪での宮井先生のEssixの講義を受けてすぐに左のような機械をオーラルケアー社から購入しました。ものすごく重く、古めかしい機械です。最近のコンピュータ制御といった機械とは無縁の無骨なものです。上のヒータを3分ほど暖め、真ん中にプラスティックシートを置き、軟化させます。下には模型を置き、バキュームで引きながら、タイミングよく、圧接します。あとはハサミで切って、辺縁を仕上げて完成です。大変簡単で早くできます。購入してまだ2週間くらいしか立ちませんが、3例ほどで使用しました。従来の保定装置では6か月終日使用を指示していましたが、この装置では3日間の終日使用を指示しています。患者の評判はよく、成人を中心に使っていくつもりです。製作は結構、快感です。
子供の頃から親が歯医者だったせいか、手先が器用になるものはすぐに買ってくれました。そのため小学4年生ころからプラモデルを作っていました。主として作ったのは1/72,1/48などの飛行機です。レベルやモノグラムなど懐かしい会社名です。飛行機作りではいかに操縦席を作り込むかが見所ですが、キャノピーと呼ばれる風防の透明感がなければ中をいくら精密に作っても見えません。昔のプラモデルでは材質が厚く、透明度も低いため、まず木を削りこみ、透明のプラスティックシートをろうそくで熱して柔らかくして、木の原型に圧してキャノピーを作ったりしました。この装置があれば簡単に作れそうだし、バキュームキットと呼ばれるものもやれそうです。
タミヤからでた!/48のソードフイッシュをエッチングパーツとも買って、半分作ったのが2年前、その後は老眼のせいか、さすがにプラモデル作りもやっていません。

2007年4月5日木曜日

Q&A 矯正治療中に転居した場合はどうなるのでしょうか


今の時期、大学への進学や転勤により転居される方が多くおられます。当院でも今年は例年以上に転医される方が多く、8名ほどおられます。例年は3、4名ですので、青森県の人口減少のせいかもしれません。
治療途中で転居される方の一般的な扱いをお話します。進学、就職などで東京や県外に行くことが決まった時点で、まず該当地区の矯正専門医を探します。私の所属する日本臨床矯正歯科医会(日臨矯)は約500名の矯正専門医の集まりですので、この名簿から近くの先生を探します。交遊関係や使用のテクニックなどを考慮した上、先生を決め、連絡します。治療継続に同意いただければ、日臨矯で作った用紙にこれまでの治療経過などを記載して、当院でのレントゲン写真や模型、カルテなどのすべての資料と一緒に患者さんにお渡しします。
その際、治療費の清算を行います。基本的には進行状況に沿って清算されます。例えば元の状態と完成の半分くらいの進行であれば、治療費の半分を返却します。マルチブラケット装置による治療の場合は、比較的清算判定は難しくありませんが、子供の時からの長期の治療の場合は判定は難しく、2年以上治療を受けている場合は一期治療費の清算はありません。
これらの資料をもって紹介された先生のところに行くわけですが、基本治療費が地方と都市部では違うため、返金された費用だけでは足りないかもしれません。また先生によって治療テクニックが違うため、多くの場合、今つけている装置は一旦はずし、また新たな装置をつけることが多いと思います。そのため治療期間が伸びる恐れがあります。また治療に対する責任の所在が不明瞭になります。
いずれにしても転医はできるだけ避けたいものです。高校卒業後県外に行かれる患者さんが多く、できれば高校1年生ころには治療を始めた方がよいと思います。また大学生についても3,4年は就職活動もあり、1,2年生ころに治療を始めることをお勧めします。