2019年8月21日水曜日

新幹線で怒られた



 私は人と喋るのが好きで、妻ともよく喋るし、母親、兄弟、友人とも喋るのが好きである。場合によっては、飲み屋などで見ず知らずの人と仲良くなったり、タクシーの運転手と乗車中にずっと喋っている。子供の頃からのおしゃべり癖は治らない。

 二年ほど前、新幹線で東京から青森に帰るときに、車内で家内とずっと喋っていた。もちろんそんなに大きい声ではないのだが。しばらくすると前の座席に座っていた中年の女性がこちらに振り向き、人差し指を口に当ててシーと言って、私たちの会話をたしなめた。その後、気まずい雰囲気で家に帰るまでほとんど喋らない状態が続いた。

 大阪では、特に阪神電鉄沿線では車内で喋るのは当たり前と思っていただけに、新幹線の中で会話したらダメだとされ、ちょっとムッとしたが、ネットで同様な事例を探すと、むしろ現在ではシーという人の方が正しいようで、電車内で喋る人は非常識、マナー違反とされている。さらにはイヤホーンの音漏れ、コンピュータのキー入力音、スマホの操作音さえもマナー違反であるようだ。電車の中での騒音は、どんな小さな音でもマナー違反になるらしい。寝ている人からすれば、小さな音も気になるようで、電車内の一切の音は不快になるらしい。図書館では、本を閲覧中の人のために基本的には館内での会話は禁止されているが、電車内でも同様というわけである。

 それでは海外ではというと、韓国は物売りがくるし、アジア圏、あるいはヨーロッパ、アメリカでも大きな声でなければ車内での会話で怒られることはない。そのため東京の山手線で聞こえる声といえば、外国人観光客のよるものであることが多い。中国人、韓国人、欧米の人々も日本の電車内のマナーを知らないのか、平気で喋っている。流石に英語でたしなめる人は少ないが、それでも“シャラップ”と言って注意しろという声も多い。こうした発想の怖いところは、こうしたマナーをどんどん拡大できることである。地下鉄のような満員の車内での会話はもちろん、さらに新幹線や同じ感覚で言えば、レストランや喫茶店での会話も腹が立つであろうし、ディズニーランドやUFJでも人の会話が気になる人はいる。病院でもそうで、例えば家族であっても、大部屋であれば、気になる人はいよう。すなわち、人のいるところでの会話は全てダメということになる。

 イギリスの列車では、Quiet Coachという会話禁止の車両があるし、喫茶店でも読書するために会話禁止のところや私語厳禁の寿司屋やレストランもある。おそらく解決法はないと思うが、一人で会話する人はおらず、少なくとも会話するは二人以上である。レストラン、喫茶店、飛行機、長距離電車、バスなどは、予約の段階で、一人だけ、二人以上の客はまとめればよい。そうすれば、一人で静かに過ごしたい人は他人の声が聞こえないし、みんなんで喋って楽しく過ごすのも気を使わない。このような目で見ると、人の会話が気になるのは、一人だからで、ラッシュアワーの地下鉄などでは、ほぼ乗客は一人客で、それ故、珍しい二人以上の観光客の会話がうるさいと思う。一方、居酒屋やレストランなどでは基本的には二人以上で来るため、会話がOKとなる。それでも喫茶店は微妙で、スタバ〜のように一人客が多いところもある。実際に一人客と二人以上の客と席を別にしているところも多い。

 一人の客が多いところは会話禁止でしゃべりたくとも我慢してもらい、逆に二人以上の客の多いとところは会話がうるさくても我慢ということでどうだろうか。さらに境界のところでは、できれば席を分離するような方法をとってほしい。実際に一人客の多いレストランはカウンター中心になっており、ファミリー層が多いところは椅子席となっていて、椅子席では会話OK、カウンターは会話禁止ということになろう。ただ冒頭の新幹線(普通車)に話を戻すと、新幹線のシートはABの二席とCDEの三席となり、二人が座るのはこのABが圧倒的で、場合によってはDEとなる。それ故、音を遮断し、景色も見ないでひたすら眠りたい人は、C席が一番良い。ここは一番人気がなく、また隣に人が座ることも少ない。また一人でもA席に座りたいという方もいようが、隣に知らない人が座る確率が高く、またトイレに行く際には気を使う。新幹線内の会話が非常に気になるような方は、きればC席に予約すればいいだろう。もちろんグリーン車はほとんど一人客で、それも窓側に座っており、基本的には会話禁止なのだろう。

2019年8月18日日曜日

全顎治療における矯正治療



 クインテッセンスという歯科雑誌がある。矯正専門で開業しているが、一般歯科の流れを知るために、開業当初から、すでに20年以上、購入している。この雑誌の特徴は、アメリカ型の高度の、違う言い方をすれば金のかかった歯科治療を紹介していることだ。補綴、エンド、外科の専門家による論文も参考になる反面、矯正歯科に関してはあまり矯正専門医の論文が登場せず、むしろ一般歯科医の矯正に関する論文が出てくる。少し専門家からすれば問題のある論文がある。

 昔から一番興味があるのは症例報告で、ある患者さんの治療、多くは全ての歯を直す全顎治療が多いのだが、詳細に紹介されている。いろんな治療がなされているが、多くは矯正治療が含まれ、下の歯列のでこぼこを直す治療が取り入れられている。すなわち下の歯にブラケットをつけてワイヤーを入れてでこぼを直している。一番簡単な治療なのでせいぜい半年くらいで治る。簡単に直せるので、全部の歯をきれいにするのであれば、ついでに下の前歯のでこぼこをなくすというのは悪いことではない。

 ただ無料でしているわけではなく、有料、それも数万円単位の額ではなく、数十万円以上とっている場合もあろう。クインテッセンスにはそうした治療費は一切書かれていない。下の第一大臼歯から反対の第一大臼歯までの12本の歯にブラケットをつけるのに15分、ワイヤー交換は5分、6ヶ月では完全に終了できる。マルチブラケットによる矯正治療の中では最も簡単で手間がかからない。

 矯正専門医から見ると、クインテッセンスの症例報告のような中高年の患者に、たとえ数万円であっても、矯正治療を行うのは勧めない。というのは非常に後戻りが多く、それを防ぐためには舌側から固定式の保定装置が必要となる。中高年でいえば、生涯、固定式の保定装置を入れておくのが良いのかという議論が出よう。クインテッセンスの症例では、おそらく数十万円の費用をかけて矯正治療をしていると思われるが、そうした費用をかけて矯正治療をする必要性は、おそらくほとんどの矯正歯科医は肯定しないし、エビデンス的にも肯定されていない。まあ、手間もかからないから、おまけでタダで矯正治療するのであれば、悪くはないが、費用をかけてする必要性は全くない。以前、あるスタディーグループで、こうした症例の演者に質問したところ“患者は矯正治療を希望した”という。これは全く詭弁であり、患者は治療に対する専門的な知識は持ちえず、演者が矯正治療を勧めた結果、患者が受け入れたと思う。たとえば“これだけ金をかけて矯正治療しても意味はありませんよ”といって誰が治療を希望するだろうか。ましてや数十万円の矯正治療費を追加しようとすれば、きっと“矯正治療をして下の前歯を綺麗に並べれば、歯周疾患の予防になります。十分な価値があります”くらいのことは言っているだろう。

 60歳以上の患者になれば、目標はいかに一生自分の歯で食べられるかであり、同時に社会心理的には審美性も求められが、それ以上にできるだけ歯に侵襲の少ない治療法が必要となる。昔、尊敬する一般歯科医がいて、彼の治療計画は、患者の口腔内の10年後、20年先を読んで、この歯は一時的な治療をして、逆にこの歯を他の歯がなくなった時に重要なので、自費でもきちんと直すという。多くの歯はテンポラリーという一時的な治療をして12年してから自費の補綴物に替える方法をとっていた。慎重に少しずつ進めていた。もちろん傾斜歯の直立などの矯正治療は必要に応じてやっていたが、単純な歯の整列はしなかった。

 矯正治療は基本的には患者の希望により始まり、歯科医から勧められて治療するものではない。なぜなら一部の不正咬合、顎変形症や口蓋裂を除けば、矯正治療による機能的改善は少なく、確実にエビデンスがあるのは、自己評価の改善、つまり自信を持って笑顔になり、積極的になったという社会心理的な改善である。これは患者本人が気にならなければ矯正治療は必要ないことになり、歯科医から指摘されて初めてわかるものではない。50歳以上の患者にこちらから勧めて下顎前歯のでこぼこを改善する矯正治療は、あまり意味がないと思える。うちの患者が東京の歯科医院で奥歯の虫歯の治療を行なったが、補綴治療に関して、自費と保険治療について説明があった。その説明書を見せてもらったが、保険の治療を銀歯の治療として否定し、ファイバーコア、セラミックの治療を勧めていた。その治療方針自体は否定しないが、そこの歯科医院のH Pを見るとドクターはほとんど若手の歯科医師であった。少なくとも彼らの経験上から長期の予後からセラミックの治療を勧めたわけではなさそうである。

2019年8月12日月曜日

山田良政 碑 南京



 山田良政、純三郎のことを書くのも久しぶりである。2007年頃から集中的に書き始めてすでに12年以上が経つ。以前はgoogleで検索してもほとんどヒットしなかったが、最近では良政、純三郎ともウイキペディアにも掲載されようになり、認知が上がったことは嬉しい。それでもまとまった本が少ないため、中国現代史に関心のある一部の人しか知られていないのが実情であろう。映画やテレビで取り上げられれば、さらに人々に知られるのだが。

 個人的に一番興味があるのは、中国の南京市、孫文が祀られている中山陵にあった山田良政の碑である。山田兄弟の評伝である「芳醇なる日本人」(結束博治)に“山田良政の碑は、南京、中山陵よりやや離れた丘にあり、楓の高い樹が植えられた楓林と呼ばれる公園のような奥の寺院の入り口に、十数基の革命志士の碑と一緒に祀られている”とある。

さらにそこを訪れた歌人土屋文明の歌に

日本志士山田良政君を悲しみて孫文自ら立てし碑を見つ
中山先生遺骸安置の白き室とともに輝く日に来りあふ
限りなくつづきて丘を上がり来るは中山陵参拝の青少年等
もみぢしてとぶらふ国民革命烈士の霊それを助けし日本志士の墓



こうした記述から、中山陵からそれほど離れていない国民革命軍陣亡将士公墓のある南京霊谷寺周辺や紅葉で有名な栖霞山を調べているが一向に手がかりがない。多くの山田兄弟の資料がある愛知大学に問い合わせるも不明とのことで、さらには南京日本人会にも照合したが、これもわからないという。また中山大学や中国領事館あるいは群馬にある土屋文明記念文学館にも問い合わせしたが返答はない。その後、弘前大学の中国人学者を通じて中国の研究者にも聞いてもらったが、これといった反応はない。さらに戦前の南京市の地図や旅行記に記載はないかとネットで調べているが、これといった資料はない。

 土屋文明が南京を訪れたことは間違いないが、そこで山田良政の幻の碑を見たのだろうか。幻の碑から土屋が4つの詩を作ったとは思えず、実際の碑を見て感動した。中国国民党が山田良政の建碑を議決したのは昭和二年(1927114日である。土屋が中国旅行したのは昭和19年であるから、碑が建てられ、南京市が日本軍に占領されても大切に保存されていたようだ。であれば、戦後、どこかの時点で山田良政の碑が破壊、消滅したと見なせる。少なくとも蒋介石が率いる国民党が南京市を支配する1949年まで、碑が破壊することはない。文化大革命では中山陵自体は保護され、破壊を免れたが、付近の寺は宗教はアヘンだというスローガンのもと破壊されていった。南京市でも霊谷寺、栖霞寺などが大きな被害を受けた。その際に国民党関係の墓や記念碑もかなり壊された。おそらくはこの折に山田良政の碑も壊された可能性が高い。“中国の革命・戦争記念碑に関する基礎的調査—広州地域を中心に”(王暁葵)によれば、広州にあった多くの記念碑、墓が文革中に破壊された。文革までは一部は壊されたものもあったが、この狂気の時代に壊されたものが圧倒的に多い。その後、壊された碑は、1980年代以降に修復あるいは再建されたが、中国政府の意向に沿わない碑はそのまま再興されなかった。山田良政の碑については、おそらく日中友好のシンボルとして中国政府で再建は可能と思われるが、写真がなく、場所も特定されていないので、いまだに再建されていないのだろう。何とか、存在の証拠を見つけて、山田兄弟の念願であった、師の孫文と一緒にしてやりたいものである。



2019年8月11日日曜日

弘前ねぷた 場所取り



 ようやく弘前の夏の風物詩である弘前ねぷたが終わった。駅前コースの集合地は家からすぐ近くなので、毎年、楽しみにしている。青森ねぶたと違い、まだ観光化しておらず、基本的には町内の人々が直接参加している。そのため、運行には町内の老若男女が参加しているため、あまり統一感はないものの、地元の祭りという感じがして好きである。

 ただ一つ残念なのが、場所取りである。ねぷた当日の昼ごろから、歩道に名入りのシートをガムテープで貼ったり、チョーク、テープで枠取りをしたり、あるいは椅子を並べたりしする。祭りが始まると、ここに陣取って食事や酒を飲みながらねぷたを見る。毎年、観光客から見るとみっともないため、市の職員がテープを剥がしたりして、禁止しているが、後がたたず、そのままになっている。もともと歩道は、道路を管理する市、県、国のものであり、それを使う場合は許可が必要である。もちろん許可を取って、ねぷたの場所取りをしている訳ではない。ある意味、違法といえよう。

 昔はどうだっかと、家内に聞くと、一部のお店は常連客のために店に前に椅子を並べるケースはあったが、一般の方がテープを貼って場所取りをすることはなかったという。確かに昔のねぷたの写真を見ると、今ほど歩道が広くなく、皆立って見物していた。狭い歩道にシートを貼れば、邪魔だと怒られたであろう。昼間に場所取りするのは、歩道も広くなった、ここ2030年のことであろう。弘前市の方も有料の観覧席を設け、年配の方には座って観れるようにしているが、今回でも有料席は空いていた(2000円)。

 この2000円という価格はりんごジュース代なども入っている料金ではあるが、一人当たりの歩道占有料金と考えて良い。つまりシートを貼って、場所取りをしているのは、その人数分、無断でタダで使用していることになる。市町村としては、場所取りを禁止するのも一つの手ではあるが、場所を取って使用している場合は、有料観覧席に準じて一人1000円くらいの使用料をとる手もある。椅子一脚分を1000円として4脚分の面積なら4000円とるようにすると前もって告知しておけば良い。当日は、市の職員が使用料金を回収に行く。

 うちの近所に青森銀行があり、その駐車場は夜になると不法駐車でいっぱいになっていた。ところが銀行がゲートを設けて有料駐車場にし、銀行にくるお客さん以外は有料にした。すると夜間に駐車する車はほとんどなくなった。弘前では駐車場はたくさんあり、一ヶ月の駐車料金も5000円くらいである。駐車場がないから銀行に止むを得ず駐車しているのでない。5000円が高いから銀行の駐車場にかってにとめていて、料金がかかるとなるととめない。現金なものである。

 おそらくねぷたの場所取りも同じ心理なのだろう。年配者が座って観たいというなら有料観覧席で見れば良いし、そんなうるさいことをいうなら祭りの雰囲気が台無しになるというのもおかしな話で、昔は場所取りはなかったし、京都の祇園祭、博多どんたくなどの他の夏祭りなどもそんなことはしていない。

 ねぷたの歴史は規制の歴史であり、あまり喧嘩がひどいので、喧嘩ねぷたが徹底的に禁止され、さらに門付けも強要がひどくなると、合同運行にして禁止してきた。また運行中の酒も死亡事故があったため、禁止することになった。今後、市の条例で、弘前ねぷた期間の歩道の場所取りを条例で禁止し、有料観覧席程度の罰金規定を設ければ、なくなるであろう。同時に遊覧観覧席の2000円は観光客向けの価格であり、せめて1000円くらいに値下げすべきであろう。

2019年8月10日土曜日

遺愛女学校 卒業生



 函館遺愛女学校については、以前このブログで何度か説明させてもらった。安政六年(1859)に日米和親条約により長崎、横浜、神戸、新潟とともに函館が対外貿易港として開港した。それに伴い、ロシア人、フランス人、アメリカ人、イギリス人などが住むようになり、商館もあちこちにできた。外国人が住むようになるとまずできるのは教会で、慶応三年(1867)にフランス人ムニーク神父によりカトリック教会(元町)ができ、さらにロシア正教の伝道活動も開始された。その後、米国メソジスト監督教会からフローラ・ハリス、メルマン・.ハリス宣教師夫妻の函館派遣が決定され、結婚したばかりの若い夫婦は明治七年1月に横浜から函館に到着した。彼らは、米国領事代理を兼任し、熱心に伝道活動を行い、明治十年(1877)には函館教会堂が建てられる。一方、女性の地位向上に強い関心を持つフローラは、自宅で「日日学校」などで女性たちに英語、聖書、手芸などを教えていた。明治九年10月(1876)、夫婦で弘前に旅行し、東奥義塾でイング夫妻と知り合い、ことに東奥義塾の女子部で教育をしていたルーシ夫人とは仲良くなり、函館の女学校の必要性を強く感じるようになった。またフローラは文筆家で、明治九年(1876)には米国メソジスト監督教会婦人外国伝道協会(WFMS)の機関誌に「如何にして婦人を救うべきか」という論文を寄稿したほか、数編の論文を機関誌”Heathen Woman’s Friend”に寄稿した。その後体調を崩し、帰国したが、それに感銘を受けたドイツ在住のライト米国公使夫人から多額の寄付の申し出があった。これを元にして明治十五年(188221日に開校したのは、のちに遺愛女学校となるカロライン・ライト・メモリアルスクールである。教師はアメリカ人女性3名と日本男性2名で、生徒は弘前からの寄宿生6名で始まった。その後、6月には生徒数は約20名(寄宿生16名と数名の通学生)となり、明治十八年には生徒数77名(寄宿生61名、通学生16名)となる。通学生より寄宿生が多いのが特徴で、寄宿生はほぼ弘前出身者で占められていた。これは弘前の東奥義塾女子部が閉鎖され、女子の教育を求めた結果、渡海して函館の女学校に入学した。そのために明治十九年には弘前に来徳女学校が開校し、翌年には弘前遺愛女学校、さらに明治二十二年には弘前女学校として独立する。初期の生徒の多くは弘前からの生徒であったので、弘前女学校の設立により函館遺愛女学校の生徒数は減少しただろう。

 当時の女学校ではカリキュラムを終了した卒業という制度は曖昧であり、函館遺愛女学校の最初の卒業生は明治二十一年(1888)に卒業した珍田みわである。珍田みわは明治の外交官、珍田捨巳の姉で安政元年(1854)生まれであるので、卒業時の年齢は34歳となる。遺愛女学校の開校時に入学したとすれば、28歳で入学し、六年かかり34歳で卒業したことになる。その後、弘前女学校の舎監などをし、晩年は東京の珍田捨巳邸で敬虔なクリスチャンとして過ごした。明治二十三年(1890)の第二回卒業生は、山田(高谷)とく、中野(一色)うめの2名で、山田とくは東奥義塾女子小学部から県立女子師範より遺愛女学校に入学し、卒業後すぐに弘前女学校の教師となり、実業家の高谷貞次郎と結婚後もキリスト教徒として種々の社会事業を行った。兄にはメソジスト牧師の山田源次郎と寅之助がいる。中野うめについてはわからないが、山田とくの従姉妹である。明治二十五年(1892)の第三回の卒業者は11名で、木本(川上)ときわ、竹中ひさ、石塚(山鹿)よし、大和田(萩田)ふみ、(水嶋)とよの5名のほか、鎮西学院の中興の祖、笹森卯一郎の妻、三上(笹森)としも三回生であろう。明治二十七年(1894)の第四回の卒業生には小説家、今東光の母、伊東(今)あや、両角(藤原)おとめ、野田(古澤)こう?、明治二十九年(1896)の第五回卒業生には照井(鹿討)まつ、(美野田)もと、久保(中野)きよ、藤田(山田)とし、(斎藤)しな、八木橋(中村)りか、(金子)とし、(吉田)とみ、(桜庭)、(縄田)、(白鳥)、東福(石澤)やえ、明治三十一年(1898)の第七回卒業生には、中野(小池)まつ、(浅野)まつ、(山本)はな、(渡辺)きよ、藤田(片山)なり、明治三十二年(1899)の第八回卒業生には、(三枝)けん、(羽咋)こう、(西村)せい、(石澤)みどり、藤田(羽多野)さたがいる(以上の卒業生のデータは、山田としの資料をいただいた埼玉在住の方の調査結果による)。

2019年8月4日日曜日

一般歯科でのマルチブラケット装置

Fake Brackets おしゃれのためにこうした偽のブラケットをつける

 矯正歯科医院では、その治療の70-80%はマルチブラケット装置によるものである。これは世界中の矯正歯科医院でもそうである。マルチブラケットというのは一本一本に歯にブラケットをつけてワイヤーの力を利用して歯を動かす装置であるが、日常臨床のほとんどがこれによる治療で、もっとも汎用性が高く、効果のある治療法である。成人で言えば、この比率はさらに上がり、ほぼ100%の治療がマルチブラケット装置による。

 子供の治療をおいても、永久歯列の完成する中学生頃までの治療は一期治療あるいは早期治療と呼ばれるが、それだけで治る可能性は40%以下であろう。残りの60%以上は、永久歯列が完成した時にはマルチブラケット装置による仕上げの治療が必要となる。

 こうしたことから、マルチブラケット装置による治療ができなければ、子供の矯正治療の60%以上、成人の矯正治療の100%は治療できないことになる。それ故、矯正治療をしようとすれば、まずマルチブラケット法を学ばなくてはいけない。ところがマルチブラケット法を学ぶのは非常に難しく、数回の講義を受けただけでは、ほとんど理解できず、少なくとも終日、矯正歯科のみをする環境で数年間の経験が必要となってくる。なぜなら大まかな治療法は決まっているものの、患者や不正咬合、年齢などによる治療法の修正が必要だからである。例えば、歯を動かす場合でも早い遅いがあるし、あるいは動かない場合もある。こうした違いに対応した治療法が求められる。かなり経験が必要で、私のような40年近く、臨床経験をしていても、いまだに診断ミスがある。

 最近も、フィリッピンで治療費が安いからといって治療を始めて、途中で日本に帰国した患者さんがいた。治療継続を希望していたが、典型的な一般歯科医のマルチブラケットで、ただ単に歯にブラケットをつけてワイヤーでデコボコをとっただけである。口元は突出して、前歯も全く噛んでいない。抜歯ケースで、治療を始めからし直さないというと、じゃ治療をやめるというので結局は装置を外したが、多分、フィリッピンの歯科医院で口元の突出感を訴えても治療してくれないだろう。同じようなケースは日本でも多くあり、患者が“前歯が開いている、口元が出ている”などと訴えると、これ以上の治療はできない、歯を抜くのは理念に反するといって治療を拒否する場合がある。最近のワイヤーは形状記憶合金を使ったチタン系のもので非常に性能がよく、簡単にでこぼこは治る。ところが歯を抜いてその隙間を利用してでこぼこを直したり、前歯を中に入れたりするのはそれなりにテクニックが必要となる。問題は、ここであり、一般開業医でもマルチブラケット装置による治療をしている先生は多くいるが、このでこぼこをとる、レベリングという段階でとまっている。これ以上の上顎前突や反対咬合、開咬などのケースについては一般歯科医では治療がかなり難しい。

 そのため、成人患者で一般歯科医院にて治療される方がおられるが、でこぼこだけで治るケースは非常に少ないことから、フィリッピンの歯科医院で治療を始めたケースと同じく、かなりリスクの高い医院選択と思われる。ただ一般歯科医の中にも、大学や矯正歯科専門医で長年、勤務していた先生もいて、そうした先生では十分なマルチブラケット装置による治療はできるが、そうでない先生ではまず専門医が納得するような治療は無理だと思う。そうした履歴がない場合は注意を要する。

治療の難度(永久歯列完成後、中学生以降)
  軽度のでこぼこ>中程度、重度のでこぼこ>反対咬合>上顎前突>開咬

一般歯科医では無理と思われる症例(成人)
 反対咬合、上顎前突、開咬、顎変形症  骨格性の問題(横、前後的)


2019年8月3日土曜日

韓国ドラマから見る韓国


 うちの家内は大の韓国ドラマファンで、私の母、姉も同様で、年配の方で、韓国ドラマが楽しみだと言う人は多い。私自身、特に好きでもないが、たまには家内と相伴してテレビを見ることがある。家内に言わせると、韓国ドラマでは必殺のパターンが繰り返し行われるようで、韓国映画「サニー」でも病院でドラマを見ている患者、皆おばさんだが、主人公が白血病だとわかると、一斉に“またかあ”、“こればかりだあ”などと口々に不満を言うシーンがある。定番なのが、孤児院で育った二人、一方は金持ちの子供になり、片方は貧乏。そして実際は貧乏の家の子が金持ちの家の実子であるが、実父が記憶喪失でわからない。徐々に記憶を思い出すが、金持ちの娘を何とかそれを阻止しようと嘘をついたり、悪事を働くといった内容である。キイワードで言えば、孤児、記憶喪失、金持ち、財閥の会長、嘘、憎しみ、交通事故、汚職、脅し、兄弟、親子、病気、これらのキイワードで現代物の韓国ドラマの90%は語られる。

 ある意味、ヒット作の模倣の連続で、一本ヒットドラマが出ると同じようなパターンのドラマが次々と作られる。そのため、今時、流石に孤児院出身者はないだろうと思っても、相変わらず主人公が孤児だというドラマは多い。ただこれも全く見当違いというわけではなく、韓国では1950-60年代、年間数千人単位で海外に養子に出された時代があり、今でも乳児遺棄の数は多い。一つには障害を持つ子供を育てにくい国であり、また混血児の偏見も強い。そうした子供を孤児院に捨てる親が多かったのも事実であり、ドラマでも取り入れられた。今、放送中のNHKドラマ「あおぞら」でも久々に孤児が主人公として出ていて、少し韓国ドラマの影響を受けたようである。
 さらに韓国ドラマでは嘘がつくシーンが多い。これだけ証拠が集まり、早く白状すればと思っても、そこから10話くらいは嘘をつき、証人を買収したり、殺したりして、逃げようとする。この根性たるや、すごいもので、悪役になると最後まで抵抗し、それがドラマのキイとなる。さらにこれと関係するが、平気で人に罵声を浴びせるが、しばらくすると何もなかったように仲良くなる。日本人の感覚からすれば、旦那の母親、義理の母から“あなたはウチにはふさわしくない、すぐに離婚して出て行け”と一回でも言われれば、生涯、その言葉が忘れないだろう。ところがドラマではこうしたことを言っても、“あの時は頭が混乱していて変なことを言ってしまった。許して”で、それで仲良くなる。思ったことをすぐに口に出すので、恋人同士、親子、兄弟間の喧嘩が凄まじい。あれを言っちゃお終いよと言ったやり取りの連続である。

 こうした韓国ドラマを日本のドラマと比較すると、明らかにドラマは両国の国民性を反映しており、ドラマとは言えあまり現実とは異なると、視聴者が嫌われる。そうした見方からすれば、現在の韓国は多くの韓国人に集まりと考えられ、こうし国民性格は国の政策や外交とも関係してくる。嘘をつくこと、嘘を罪とは思わない国は、慰安婦や徴用工のインタビューにも当てはまる。小さな嘘が大きくなり、にっちもさっちもいかない、その挙句に悪事を働き、犯罪人となる。こうしたドラマは多い。現状の韓国政府、文大統領の政策も同様で、前大統領、朴大統領の徴用工の扱い、握りつぶすのが最も現実的な解決策だったが、それを無視した結果、韓国経済を破壊するような流れとなってきた。韓国ドラマであれば、さらに悪あがきして、もっと深刻な状況となり、そして最後はすべての嘘がバレて、牢屋行きとなる。為替はついに1ドル、1200ウオンを超えてしまったが、明日もウオン安が続くようなら、最悪、日韓スワップがないだけに2008年の通貨危機以上になるかもしれない。解決済みの徴用工問題で国を潰した大統領の罪は大きく、次期政権下では、確実に死刑判決となろう。ドラマのように極端から極端に走る国であり、日本にとってはあたかも隣人がゴミ屋敷おじさんというようなもので、始末に困る。 

2019年8月1日木曜日

初音ミクと弘前

弘南電鉄の桜ミク

桜ミク関連グッズ

 81日、桜ミクの弘前ねぷた版のグッズが販売された。郵便局に行ったついでに、弘前まちなか情報センターに寄った。朝の9時半頃だったが、数人のファンがつめかけ、多くのグッズを購入していた。一人で数千円以上のグッズを買っていた。私も、クリアファイルセットを3つ、コースターを2つ、そして販売商品にはない、ポスターが売られていたので、iXimaの桜祭りとねぷたバージョンのポスターを購入した。若い人の多い中、一人年寄りが混ざり恥ずかしかった。

 前回の弘前桜祭りとのコラボグッズは弘前市立観光館で買ったが、この時は、販売して二日目だったのにすでに商品数は少なくなっており、クリアファイルと缶バッジを買った。1週間後に行くとほとんどの商品を売れてしまっていたので、今回の弘前ねぷたバージョンも同様にあっという間に売れてしまうのだろう。特にポスターは500円と安く、ネットでも購入できないので、売り切れは必然である。ただ個人的には商店に飾られている“弘前ねぷた祭り 日時”などが書かれた正式の広告ポスターが欲しかった。売っているのは、iXims、木屋町、なじょの三人の作家のポスターとセットが売られていて、ほとんどのファンは3枚セットを購入していたが、弘前ねぷたが背景に描かれているiXimaの絵が一番好きで、いい感じである。

 以前、弘前市を舞台にしたアニメ“ふらいんぐうぃっち”を観光に活用し、若い人を中心に一応の成功を収めた。一部のファンではあるが、聖地巡礼で弘前の舞台をあちこち回るフアンもいた。こうしたアニメを使った観光誘致は、なかなかのもので、弘前市あるいはコンベンション協会の良いアイデアであった。県庁所在地の青森市にすれば、“ふらいんぐうぃっち”は仕方がないとしても、桜祭り、ねぷた祭りに人気のキャラ、初音ミクを弘前市に使われたのはショックであったろう。桜ミクのキャラはタクシーや弘南電鉄の車両にも使われて、町中に桜ミクが見られる。こうした町中を何かのキャラで埋めてしまうのは、楽しい。最近では弘前市上空でブルーインパルスの飛行があり、これも夢中になったが、こうしたアクションを次々としていくのが、町の活性化に繋がり、この勢いをそのまま弘前レンガ美術館の開館に持っていきたいものである。

 弘前レンガ美術館も急ピッチで工事が進められており、完成が楽しみである。市民がおらの町の美術館、特に若者が誇りに思うような文化の発信地になってほしい。できれば美術館周りに雑貨店や喫茶店、さらにはしゃれたレストランなどができ、回遊式の観光ゾーンとなってほしいものである。さらにこれは一番の期待であるが、すでに弘前市の中心街に映画館がなくなった現在、美術館前の広場で、昔の映画の野外上映をしてほしい。ホットドッグ、ビール、クレープなどの売店があれば、芝生に寝転びながら昔のフランス映画“ロシフォールの恋人たち”やイタリア映画“フェリーニのローマ”、あるいは夏であれば弘前出身の女優、相馬千恵子さん主演の“四谷怪談”を見ることができる。ニューシネマパラダイスのようにスクリーン以外のレンガ倉庫の壁に上映できないだろうか。こうした美術館周りの祭りも是非実行してほしいところである。失敗しても良いからどんどん若い人のアイデアでいろんなことはしてほしい。もちろん、奈良美智さんの青森犬は外に展示すべきで、落書きや破損などの問題が出るかもしれないが、その都度対応し、そうしたことを恐れて屋内展示にするのはやめた方が良い。青森犬は一種の美術館のシンボルであり、それは屋外に堂々と展示すべきである。

2019年7月21日日曜日

十九の春

説明を追加



 川井龍介著“「19の春」を探して 歌に刻まれたもうひとつの戦後史”を読んだ。“ノーノー・ボーイ”(訳)、“大和コロニー”、“0122 けっぱれ深浦高校野球部”などの著者の本はすでに読んでいたが、この本は絶版になっていたので、今回、アマゾンに注文して読んだ。

 ノンフィクションの王道、関係者に会いに行き、インタビューをして、物語を作る、こうした手法により名曲「十九の春」のルーツを探りながら、奄美、沖縄を中心とする人々の暮らしと生き方を見事に描いている。

 私自身、この地域への思い出が多く、この本を読みながらいろんなことを思いだした。高校二年生の夏休み、それも八月の末ごろだったが、家庭教師をしている先生と一人旅のことが話題となり、したことがないというと、それでは今すぐに行ってこいということになり、母も同調したので、何もわからず、神戸から船に乗って42時間、着いたのが沖永良部島であった。船中で知り合った大学生のグループと仲良くなり、レンタカーであちこち行ったり、地元の女子高校生と一緒に泳いだり、彼女に家に呼ばれたり、懐かしい思い出である。その後、奄美大島にも行ったが、旅館のおばさんが自殺しないかと何度も様子を見に来て鬱陶しいので近所を歩いていると、どこかで盆踊りの音が聞こえる。9月に入っての盆踊りで驚き、曲も三沢あけみの島のブルースなどがかかっていた。その後、始業式から2,3日遅れて出席したが、小中高校で初めてのずる休みだった。なんとなく頭の中で三沢あけみの歌声がリフィレインする。その後、鹿児島大学歯学部に勤務していた時、1年間、4回ほど、奄美大島と鹿児島の間にある十島村の巡回診療をした。ここでは診療が終わってすることもなく、何度か地元の宴会に招かれた。沖縄ほどではないが、三味線と歌、踊りという流れとなった。賑やかな宴会で、男女とも酔うと踊る。鹿児島でも経験したことはない。曲は忘れたが、島唄であったことは間違いない。

 本の話に戻そう。著者とは先日、弘前で会ったが、同年齢で、育った時代も同じのために話題が合い、楽しい飲み会であった。本では“十九の春”の曲のルーツとして、ラッパ節、小川少尉の歌、さらにはノルマントン号沈没の歌などが出てきた。どこかで聞いた曲だと思い、調べると四年前のブログ(2015.3.7)に“日韓唱歌の源流”として安田寛先生の「すると彼らは新しい歌をうたった 日韓唱歌の源流」(音楽之友、1999)のことを書いており、そこで北朝鮮の軍歌とラッパ節などのYoutubeを添付していた。安田先生によれば江戸時代の日本人はファとシの音程がどうも崩れるようで、そのため賛美歌ではドレミソラの五音で構成した曲が取り上げられ、それが日本の唱歌のルーツになった。ところが琉球(沖縄)音階ではレとラを除いたドミファソシの五音となる。“十九の春”は、音階的にはファシ抜きの伝統的な本土の音階であり、歌詞も標準語で歌われていることから、多分本土から琉球に持ち込まれた曲であろう。ちなみに奄美音階は沖縄音階と異なり、ファシ抜きの本土音階となっている。越後民謡から発生した瞽女唄のメロディーが、津軽じょんがら節や十九の春につながり、さらには台湾や朝鮮にも広まった唄の伝播は、漁師、船員などの船乗りによるものであろうし、さらには東アジア人の原初的な、同じ人種間に流れる好感が関与しているのかもしれない。

2019年7月19日金曜日

京都のお座敷遊び



 知人が京都の祇園で、お座敷遊びを堪能したようで、四人で2時間のお遊び代が50万円以上すると聞いて驚いた。一人10万円以上、毎日通えば月に300万円、一年で3600万円、10年で3億六千万円。実際、贔屓になれば、これほど費用はかからないが、それでも同伴もあるし、心づけも多くなり、相当、金がかかる遊びであることは間違いない。誰がこうした遊びをするのだろうか。かって東京の永田町界隈には多くの料亭があり、政治家が密談したが、今ではそうした料亭も次々となくなっている。また今の大企業の社長といっても、多くはサラリーマン社長で、確かに役員としての給料は多いし、交際費も多いが、元々は新入社員から社長に登りつめただけであり、それまではそれほど給料も多くない。こうしたサラリーマン社長は、若い時から祇園でお座敷遊びはしていないし、社長になって、利用することがあっても、実際にそうした遊びが楽しいかわからない。さらに定年後はそうしたところに行ける金はない。また陶器や絵画を集めるような趣味もないだろう。昔のいわゆる金持ちの道楽、芸者遊びや骨董集めなど、金と暇、そして長い時間がかかるものについて、今は大企業のサラリーマン社長には全く関係ないものになっている。それではIT企業のオーナ社長など、自分の能力で金を稼いだ人物がこうした場所を利用するのか。外国人の接待にこうしたお座敷遊びを選ぶ場合もあろうが、回数からすればしれたもので、むしろ気の利いたフランス料理、イタリア料理あるいは創作日本料理などを選ぶであろう。それほど大した料理でもないものを食べ、芸者の踊りを見て数十万円の出費はいくら金持ちでも、贔屓にはならないだろう。つまりお座敷遊びをして大金を使う人は急速に減っているのだろう。私は63歳であるが、昔であれば50-60歳代がお座敷遊びのメインであったろうが、周りを見回してもそんな人はいない。

 40年ほど前であれば、女の子にマンションを買って、次々のおこずかいを与える人は周りにもいたが、そうした手合いも最近ではとんと聞かない。金がないのではなく、そうした面倒を背負いたくないのであろう。弘前でも鍛冶町という繁華街があるが、近年の凋落ぶりはひどい。20年前まではスナック、キャバレーやクラブなどもたくさんあったが、今はかなり少なくなり、居酒屋や食べ物屋に変わっている。この流れは全国中で起こっており、どこも若い人がスナックなどに行かなくなった。当然、その延長で京都に祇園にお座敷遊びをする人もおそらく激減していると思う。

 それでも京都だけはまだ芸者、舞妓さんもいる方で、それだけ利用があるのだろう。多分、水商売という範疇ではなく、一種の芸人になっており、何かの大きなパーティーの余興や、記念に呼ばれるのだろう。芸人であれば、人気の度合いで報酬も違うが、祇園の芸者さんでは、誰が来るかわからない場合でも、一定の費用がかかる。いわば祇園の芸者さんというブランド代なのだろう。芸人さんを出演料50万円でパーティーに呼ぶのに誰が来るかわからないことはあり得ないが、祇園ではそうしたことが許される。これはある意味すごいことだが、個人の遊びとして、お座敷遊びはもはや絶滅種であろう。

 津軽の手踊りは京都の方から見るといかにも下品ではあるが、芸人という観点から見れば貴賎の差はなく、私は三味線、歌い、太鼓も含めて津軽の手踊りに色気を感じる。

2019年7月14日日曜日

ヤフーオークションによる絵の購入 芳園? 西山翠嶂?

弁慶と牛若丸の図(芳園)


西山翠嶂「月下秋草図」

草の描き込みがうまい

 10年ほど前よりヤフーオークションにより絵や陶器を買うようになった。当時は、落札後、出品者とメールのやり取りをして、こちらから送金して買っていたが、今はネット上でカード取引ができるため非常に簡単になった。

 個人的には、絶対に偽物を買わないようにしているが、それでもオークションに出品されるもの、特に絵には偽物が多いため、かなり気をつけている。まず、1。有名な作家のものは買わない。 偽物作りを考えると、人々に知られる有名作家のものでなければ偽物を作る意味がない。素人にも知られる有名作家の名を出し、高い金額で偽物を売りつける、それが詐欺師のやり方である。それゆえ、誰も知らないような作家の偽物はないか、少ないといえよう。2。入札数の多い作品は避ける。 これも1と同じく、オークションを利用している人々は、有名作家に群がる傾向がある。また近年になって着目される作家に、どうしても入札が多くなる。伊藤若冲などは近年再評価されてきた作家であり、1の意味では偽物が少ないのかもしれないが、再評価を当て込み、同じよう構図の絵に若冲の落款、署名を書き込み可能性がある。3。高い作品は避ける
 万が一、偽物をつかまされてもリスクを減らすために、2万円以上のものは買わない。

 もちろん、落款や署名は本やネットで確認するが、全く無名の作者のものは比較すべき作品がネット上で公開されていない。私が集めている土屋嶺雪がそれで、初めて買った時、沖縄県立図書館に同じ頃の作品があったため、比較できたが、それ以外の作品は見当たらなかった。今では10点以上の作品を保有し、製作年代もある程度、分かるようになった。もちろんこうした無名作家の偽物は見たことがない。

 実は今回、初めて偽物の可能性が高い作品を二点購入した。一点は、芳園の署名の三幅の掛け軸である。芳園はシンシナティー美術館の方と一緒にここ数年、調査している画家である。今回の作品は追ってきた“芳園”のものとは画風が全く異なるし、落款も違うが、それでも署名は似ている。以前、同じような署名のものがあり、その時は題材が僧侶で、欲しくなかったので購入しなかったが、後の写真による調査で、それがこれまでネットで出た唯一の“芳園”の作品であった。こうしたこともあり、今回は偽物の可能性が高いが、一応、ものすごく安い金額(5000円くらい)で落札した。もう一つはたまたまネットサーフィンで見つけた西山翠嶂の作品である。西山翠嶂は文化勲章をもらった大正、昭和の京都画壇の大画家であり、とても本物が予算二万円以内で購入できる画家ではなく、1に反するため買わない。月下秋草図と題されたこの作品は、画面半分に風にそよぐ草を丁寧に書き込み、抜群にうまい。こうした細い線は一発で描くのはすごい技術と手間を要する。ただ落款は事典などに載るものと線の欠けなどが一部一致しないものの、ほぼ同じとみなされるが、署名が微妙に違う。二重箱に入った大型の掛け軸であったが、本物の可能性はどうかなあ。他の入札者もそう感じたのか、価格も上がらず結局、一万五千円くらいで落札できた。実際の絵を見ると工藝印刷ではなく、手書きのとても美しい作品で、この偽物を製作した画家は少なくとも日本画の十分な技術があったのだろう。豪華なもので、偽物であっても十分に楽しめる作品であり、ある意味、こうした巧妙な偽物が世に出ない世の中になったのは嬉しいことである。以前であれば、誰かに文化勲章をもらった偉い作家として高い値段で売っていたであろうし、この絵を見れば数十万円すると言われても納得する出来栄えである。

2019年7月8日月曜日

韓国はミニ日本



 半導体生産に不可欠な材料の日本から韓国への輸出規制に対して、日韓双方から声がうるさい。韓国の貿易の稼ぎ頭である半導体生産が万が一にも頓挫すれば、韓国経済は大打撃を受けるため、沈黙していた韓国政府もようやく重い腰を上げた。

 韓国というのは、現代(ヒュンダイ)やサムスン以外に世界的な会社はないという論が多く、日本からの輸入がなければ、韓国民も困るという声も大きい。ただ調べてみると、日本が得意とする分野にも韓国も肉薄してきている。

 例えば、楽器といえばヤマハ。ピアノやギターなど世界的なメーカーと日本人は勝手に思っているが、世界の三大ピアノといえば、スタインウエイ、ベーゼンドルファ、ベヒシュタインなどであり、ヤマハやカワイは一般向けのブランドであり、会社規模としてはSamickという韓国の会社の方が大きい。世界最大の楽器メーカーである。また建設機械では日本ではコマツやアメリカのキャタピラが世界的企業として知られているが、実は韓国の斗山インフラコア(ドウサン)が世界三位であり、コマツに迫っている。プリンターといえば、キャノン、エプソンが世界的に有名と思われているが、HP(ヒュレッドパッカード)が一位で、二位がサムソンとなっている。ただサムソンはHPに会社を売ったが。もちろんキャノンやエプソンより大きい。カメラといえば、キャノン、ニコンなど日本勢が強いのは当然であるは、一時はサムスンがペンタックスと技術提供し、ミラーレスカメラを大々的に売り出し、失敗した。価格が安く、世界的に話題になったが、流石に日本のカメラメーカーの牙城が崩せせず、撤退した。他にも日本が得意とする分野においてはその後追いを韓国メーカーはしている。そのため日本メーカーに比べて認知度は低いが、低価格、高性能で次第に大きくなった。文具でもパイロット、サクラやコクヨなどの日本メーカーが有名であるが、韓国の最大メーカーのモナミを知っている人は少ない。世界中に輸出されている。さらにアウトドアーメーカーではHelinoxは折りたたみ椅子の世界的なトップメーカーで、日本でも人気は高い。

 ただサントリーやニッカのようなウイスキーメーカーはないしアシックスやヨネックスのようなラケットメーカーもない。さらにビクセンやケンコーなどの望遠鏡メーカーもないし、ダイワ、シマノに匹敵する釣り具メーカーもないし、シマノのような自転車部品メーカーもない。時計に至っては、ロマンソンというわけのわからないメーカーがあるくらいで、セイコー、シチズン、カシオに匹敵するメーカーはない(かって韓国製も売れていたが、結局ムーブメントは日本製であった)。こうした国民生活には直接関係ない、趣味性の高いものについては、韓国には大きなメーカーがない。一方、携帯電話を含めて、韓国から日本への輸入で困るものはほとんどなく、輸入の多い石油化学中間原料や自動車部品にしても、韓国の過剰生産分を購入しているだけで、国内の増産や中国からの輸入を増やせば済む。

 韓国は、常に隣国の日本を模倣して発展してきた国である。世界的競争力を持つ電子部品、石油化学製品、鉄鋼などほとんどの産業が、日本企業との合弁で始まっており、こうした輸出規制以上に深刻な問題は、韓国企業がもはや日本からの知的、経済的支援が得られなくなったことである。あのサムスンとて、アップル、ソニーを超えた企業となり、すべて自主開発するとなると、まず3Dテレビで失敗、カメラ、プリンター事業の失敗、折りたたみスマホの頓挫など、ほとんどうまくいっていない。特に先行商品をパクる技術は、日本メーカーに逆にパクられ、サムスンの高級ミラーレスカメラの失敗、撤退を見て、ニコン、キャノン、オリンパスなどが参入してきた。サムスンが手を出してから日本企業は参入するようになったが、10ある企画のうち成功した1をパクられるのは効率が非常に悪く、もともと創造性の低い、韓国企業にとって、こうした状況に追い込まれるのは最も不得意である。安くて性能の良い製品を作る韓国企業のやり方は転換期を迎えており、そこに貿易規制などにより日韓の企業交流がストップすると、日本企業も足元の堅い欧米企業並みとなり、技術の流入が困難となる。日本企業と合弁して技術と金を引っ張ることはもはや難しく、こうした 流れこそ、韓国経済を締め付ける。

 今回の日本による輸出規制に対する対抗処置は韓国になく、恐らくは日韓の落とし所は、基金財団を作り、徴用工の範囲を絞り、韓国企業、韓国政府、日本企業、日本政府(残った慰安婦財団基金)が金を出すくらいしか解決法がない。慰安婦財団と同じやり方だが、今度韓国が約束を破ると国際的に言い訳は難しい。

2019年7月7日日曜日

セイコー ダイバーズウォッチ



 ロレックスのデイジャスト2を買ってから四年になるが、この季節、半袖の季節になると、どうしても時計をどこかにぶつけて傷がつく。長袖で時計を覆っていると、ぶつけてガツンと音がしても特に傷がつくこともないが、半袖で直に何かに当たるとすぐに傷がつく。以前、古いロレックスでは壁におもいっきりぶつけて風貌にヒビが入った。修理費が非常に高いので、この季節は気を使う。

 そこで半袖の季節、それも外出時につけて行けるようなサブの時計を探した。もちろん夏というと、ダイバーズウォッチである。もともとロレックスのダイバーズウォッチを好きで、2030年前、デパートに行っては眺めていた。当時は40万円くらいだったか、その頃、そんな金もなく、眺めていただけであった。4年ほど前に突如、ロレックスが欲しくて、いろんなデパートを回ったが、ダイバーズのようなスポーツタイプはほとんどなく、時計店ではノンデイトで確か70万円くらいだった。できれば8%のポイントがつく高島屋で買いたかったので、この時はデイジャスト2にした。その後も、ロレックスの価格は次第に上昇し、今では百万円近くなっている。

 これではサブの時計にならないので、10万円以下で、できれば5万円以下のダイバーズウォッチを探した。オメガやタグホイヤーなどの外国製はすぐに除外され、結論的にはシチズンかセイコーしか残らない。この中で、一番お得感があるのは、セイコープロスペックのダイバーズウォッチSBDC031 SUMOである。キャリパーは6R系(6R15)でまずまずで、この上はグランドセイコーになるが、自動巻のダイバーズはなく、クオーツとスプリングドライブしかなく、値段も予算をはるかに超える。また8系のキャリパーを使った同じプロスペックの02335万円近い。このSUMO6月から新型に変わり、風防がサファイアガラスに、駆動時間も70時間に伸びたが、値段は6万円から一気に85000円に値上がりした。旧型は20%以上値引きしているが、新型は値引きがなく、価格差は1/2近くになる。旧型の方が断然コストパーフォーマンスが高い。

 幸い近所の時計屋に旧型があったので、試しに装着してみると、デイジャスト2よりは若干大きいものの、装着感がよく、かっこいい。ベゼルの動きもいい。製造番号は7N15942017年の11月生産のようだ。時計マニアの中では、6R15搭載の4から6万円台のセイコーの中級時計が最も日本らしい真面目な時計と評価は高く、この時計とこれも廃盤になったアルピニストという時計が中でも評価は高い。おそらくはスイス製の2030万円のモデルに金属加工も含めて匹敵するもので、世界中からスイス時計を駆逐した日本製時計の真価をみるモデルと思われる。

 ついでに古い自動巻の時計を止めたままにしとくのは、何だか死んだようで、嫌な気がしたので、アマゾンでオートワインダーを注文した。6600円と安いが、なかなか高級感がある。古い二台をこれに入れて動かしている。定時で時間精度を調べてみると、ロレックスの1976年のオイスターパーペチュアル、2015年のデイジャスト2、2019年のセイコープロスペックでどれも機械式の自動巻きであるが、結果はどれも日差は数秒であった。素晴らしい。

2019年7月6日土曜日

My songs













 英語で”My songs”というと、自分の世代の曲、若い頃によく聞いた曲という意味となる。私の” My songs“というと1960年代から1980年代まで、年齢でいうと六歳くらいから三十歳くらいの独身時代に聞いた曲ということになる。結婚後もJazz, Classicやボサノバ、フレンチなどいろんな分野の曲を聞くが、どちらかというと古い曲を聞くことが多く、新作を聞くことはあまりない。My songsとは当然、時代を反映した新作でなくてはいけないので、1990年以降はカラオケで新しい曲をたまに歌うことがあっても、新作CDを買うことはほとんどない。

 最近は、保険請求のレセプトをコンピューターに打ち込むのは、本当に苦痛で、この2時間をどうすれば楽しくなれるか苦労する。今やっているのはレセプト入力のファイルメーカプロに画面の裏に、YouTubeを出し、昔の曲を聴いている。例えば、今、外国で流行りのJapanese City Popと検索すると、Matsubara Mikiの真夜中のドアやTakeuchi Mariaのプラスティックラブなどが出てくる。これを聴きながら、レセプトを書いていくのだが、一曲が終わる頃になるとYoutubeの右欄にいろんな曲が出てくるので、それを押してみる。すると今度は丸山圭子の“どうぞこのまま”となる。1976年、私のマイソングである。そうすると今度はペトロアンドカプリシャスの“別れに曲”の登場で、これは1971年で、中学三年生の頃の曲で、ラジオでよく聴いた。それが終わるとサーカスの”American Feeling”、おしゃれな曲で、確かどこかの航空会社のCM曲だった。1979年。海外旅行はそれほど珍しくはなくなったが、それでも恋人が海外にいる状況はカッコ良い。竹内まりやの“駅”、これは中森明菜が歌っていたが、後日、竹内まりあが歌った方がはるかにわかりやすい。すると突然、トワエモワの“ある日突然”となる。1969年で、中学二年生であったが、姉が山手女子短大のフォークソング部に所属して、アリスの堀内孝雄も知っていて、こうしたフォーク系の曲もラジオでよく聴いた。するとベッティー&クリスの“白い色は恋人の色”、これは懐かしい。同時代で、当時はこうした綺麗な曲が多かった。平山みきの“真夏の出来事”、こんな声の歌手はもういないなあ。西田佐知子の“アカシヤの雨がやむとき”、これは古いと思ったが、1969年で、綺麗な人という記憶がある。題名はずっと“アカシヤの雨に打たれて”と思っていた。

 まあこんな風に次々に連想ゲームのように歌が続いていき、最後は三橋美智也の“星屑の街”までいくことがある。新型のI-macは音質もそこそこ良いために最大音量で鳴らしている。こうして1960年代から1980年代のマイソングを聴いていくと、日本の音楽界において、ユーミン、山下達郎、桑田佳祐の存在は本当に大きい。彼らは、いまだに現役で、フアン層も10台から70歳台まで本当に広く、多くの名曲を生み出している。それと同時に何度もリバイバル作品があり、他の歌手によってもカバーされている。その結果、1980年代の曲もいまだに若い人にも覚えられている。昔の歌手は、歌手生命があり、割合現役時代は短く、40年間以上も現役で、ファン層も若い人から年配の方までいる歌手はいなかった。先の三人が初めてのケースであり、日本の音楽界の成熟を示す。最近ではこうした197080年代の日本のポップ曲が海外のクラブ音楽の流れで、脚光を浴び、世界的に注目されだした。Youtubeのおかげで家にいながら世界中の曲が聴けるため、こうしたことも起こったのだろう。

 My songsは聴いているうちに当時の時代まで感じることができ、不思議な感覚である。

2019年7月5日金曜日

変化した性に対する考え



 ここ2030年の変化として、一番強く感じるのは、男女の性差がかなり少なくなったことであろう。まず雇用均等法により、会社でも男女が均等に働けるようになった。法律ができた当初は、まだまだ男性優位のものであったが、最近では上司に女性がいるという会社はごく当たり前になったし、夫婦でも女性の方が、サラリーが高いケースも珍しくなくなった。寿退社という言葉の死語となり、結婚後も女の人が働くというのも普通となった。さらに家事や育児を手伝う男性も多くなり、女性より男性の方が、家事がかえってうまいという現象も起こっている。

 親父の時代、戦前から昭和40年頃まで、男性で料理や洗濯、掃除をする人はほとんどいなかった。男性は仕事をする人、女性は家で家事をする人と役割分担ができていた。これは共稼ぎ世帯でも、同様で、女性は外で仕事をし、家に帰るなり大急ぎで子供の世話や食事を作った。大変だったと思う。その後、家事と仕事の両立があまり大変なので、家事の一部、洗濯、風呂掃除、食事の片付けを旦那に頼むようなケースが出来てきたが、それでも旦那が料理を毎日作るようなケースはあまり知らない。私の場合も、独身時代は掃除や洗濯は自分でしていったが、結婚してからはそうしたことはほとんどない。同世代の男性の多くは同じようなものであろう。ところは私の子供の世代になると、旦那が掃除、料理をするのが、それほど珍しくなく、私の娘のところもそうだし、従業員のところの娘さん二人もそうである。共稼ぎで、早く帰った方が料理を作るようで、洗濯や掃除も分担して行なっている。

 こうした男女の違いが少なくなったことは、服装にもあらわれ、若い世代は別にしても、30歳以降になると女性のスカート着用率がかなり減る。ジーンズなどのパンツファッションが主体であり、今や病院での看護師さんの一般的なユニフォームはワンピースではなく、パンタロンとなっている。同様に女性下着もレースなどの華やかでセクシーなものよりはスポーティーなものが好まれてきている。またストキングも売り上げも年々減少し、生足の女性が多くなった。女性にすればストッキングを履くメリットがもはや見出せないのであろう。ハイヒール離れも進んでいるし、日本ではそうでないが、ヨーロッパでは化粧しない女性も多くなっている。また趣味の分野でも、かって男の趣味というのが存在したが、今では釣り、登山やカメラ、さらにはプラモデルや鉄道趣味などにも女性の進出が激しい。

 一方、女性らしいという言葉もなくなりつつあり、いい意味で女性は嘘をつかない、丁寧、優しい、きれいずきといった漠然としたイメージがあり、女性政治家などではそうした誠実なイメージを持っていたが、衆議院の豊田真由子さんの秘書への罵詈雑言でこうしたイメージは完全に消えた。近くの横断歩道を右折で突っ込むドライバーの多くは女性だし、郵便局の障害者用の駐車場に平気で車を止めるのも女性が多い。もちろん実態は男女、比率は同じなのだろうが、私のイメージとしては、女性はそうしたことがないと思っているだけなのだろう。

 もちろん男女の肉体的な性差はあるが、精神的な性差は急激に少なくなり、そうした中間型のゲイの方々の違和感も同時になくなってきた。ただ個人的に、最も恐れているのは、日本人男子の中性化、草食化である。欧米あるいはアジアでは、いまだに多くの男性は美容院ではなく、理髪店に行く。ところが若い日本人男子はほとんど美容院に行っているようで、簡単な化粧をしている人の多い。ありがたいことだが、街には暴走族もいないし、中学生同士の抗争というのもなくなった。清潔で、大人しくて若い男性が目立つが、どうであろうか。

2019年7月4日木曜日

住居番地の付け方(明治初期、弘前の場合)

新町(荒町)の番地、1から始まる

駒越町の番地


 ネットを見ていたところ、「明治前期の地籍図 その1 耕地絵図と壬申地券絵図」(佐々木甚次郎)という論文が載っていた。明治初期に施行された明治政府の地籍事業について詳細にまとめたものである。明治政府というのは全くの寄せ集め集団にありながら、極めて短時間に次々と新しい政策を打ち出した。中には失敗したものもあるが、それでもよくこれだけ短期間に近代化への政策を出せたものだと感心する。その一つに近代的税収の基本となる地租改正を明治六年に行なった。それまで各地は大名が統治して、農民からは米という現物を徴収していたが、一方、武士については今でいう税はなかった。近代的税収を確立するためには、土地を基本とした税収を早期に確立する必要があり、さらには土地の所有権と自由売買が求められた。全国一斉に土地の測量と評価が行われ、地検が発行された。同時に全ての戸主が姓名と居住地番号、すなわち住所を持つことになった。これにより中央政府は、全国の国民一人一人を把握し、租税や徴兵が可能となった。

 現在の住所は、例えば実家でいうと兵庫県尼崎市東難波町A丁目B-Cという具合になる。これは兵庫県というエリアの中の尼崎市というエリア、さらに東難波町というエリアということになり、何丁目何番地何号というのは地域により、例えば中心部(市役所など)に一番近い角を起点として反時計回りに番号を振っていく。弘前市でも明治以降に開発された土地は、こうしたやり方で町名番地が決まっており、例えば弘前市青山5丁目A-Bという場所は新しく開発されたところで言える。逆に江戸時代からある町名は、例えば私の住所、弘前市坂本町14という風に丁や番地、号はつかない。旧市内と呼ばれるところの多くはこうした地名となっている。

 古い絵図を見ると、“町”は丁“と表記されており、これはエリア、面積ではなく、ストリート、線を表す。つまり私の住所の場合、坂本丁通りに沿った場所を坂本町と呼ぶ。道と道の交差点の場所はその家屋の玄関がどちらを向いているかによって住所が変わり、玄関が山下町にあれば住所は山下町となる。間口は5、6間に対して、奥行きは次の通りとの間まで、20-30間あるのが普通である。現在、坂本町の住民は56名だが、江戸時代でも16軒くらいしかない。

 以前、現在の弘前市西部、新町地区の明治8年の絵図を見せてもらった。この絵図は地租改定の基本的資料として作成されたものと思われ、弘前で初めて番地が登場した地図である。それまでは町名はあっても番地はなく、どこに誰が住むかは、そこに住む者に聞くしかなかった。この時点で初めて番号、番地が振り当てられた。どのような順序で番地がつけられたかはっきりしなかったが、「明治の地籍図」に一部ヒントが載っている。地所番号の付け方、起点について“従前之地所番号多く紛乱致し候に付、古水帳に不拘其村方辰巳之角を壱番と定め、一字毎に順押に改め可申事”となっており、辰巳(南東)を起点に西北に終わる、検地の原則に基づいて番地が振られた。

 それでは実際に弘前市の番地がそのように付けられたか確認してみよう。新町(荒町)はその通りの一番南東にある田村駒吉宅が一番、その前にある西谷三四郎所持家が二番となっている。以下、南に向かい99番地まで順番に番号が振られ、ここから道は北に向かっていく。番号はそのまま続いていくが、誓願寺にぶつかるところ231番地で、道は東におれる。ここで専求寺、龍泉寺を無番地にするか迷ったのか、次の番号は236から始まり、252番地で新町は終わる。西大工町は8番地から始まる変則ではあるが、基本的には南東を起点として番号が振られている。同様に駒越町、平岡町も町の中で最も南東の場所を起点にして番地を振っている。

 他の地区はわからないが、明治八年弘前地籍図でも、番地の付け方は、南東を起点に西北で終了する原則にのっといていることがわかった。ただこれはあくまで、古い表記における住居表示であり、その後、道ができたり、火事により、住所表示はかなり変わっている。こうした旧住所で書かれた地図は大変貴重であり、この絵図以外にも、図書館には仲町地区のもあるようなので、順次デジタルで公開してくれれば、歴史研究には大変助かる。

2019年6月24日月曜日

イスラエルの矛盾


 イスラエルは、人口880万人、国土面積は22000km2で、それぞれ世界で98位と153位の小国である。またGDP3570億ドルで54位、日本の1/10以下である。人口およびGDPともヨーロッパでいうとスイスに匹敵するが、軍事費で言えばスイスが3700億円程度に対して、イスラエルは12000億円と4倍近い。軍事国家と言えよう。

 日本人には全く理解できないが、アメリカのこの小国、イスラエルに対する肩入れが半端でない。アメリカは北朝鮮、イランの核開発に関しては、戦争も辞さない強い態度に出ているが、イスラエルが確実に核兵器を持っても、全く文句も言わない。核保有国、アメリカ、中国、ロシア、フランス、イギリス、インドは世界的な大国であり、パキスタンにしろ、経済的には劣るものの人口は2億人近くおり、そうした核保有国に比べるとイスラエルの異常さは際立っている。本来なら、中東という危険なエリアにおいて核保有は時限爆弾を抱えるようなもので、疑惑でなく、確実に核兵器を保有するイスラエルこそが経済制裁を行うべきである。またユダヤ人の国、イスラエルは、自分たちがナチスから受けたホロコーストを過剰に宣伝するが、一方、パレスチナ人に対する迫害は何ら認めない。これも核兵器同様に、アメリカからの批判は全くといってない。

 本来なら、周囲がイスラム教の国に囲まれた、唯一の白人国、イスラエルは、かなり浮いた存在であり、戦争も含めた中東の多くの問題点は、イスラエルの存在自体に起因する。地政学的、政治上でできた人工国家であり、戦前、中国の満州にユダヤ人国家を作る計画があったが、今のイスラエルが、中国の東北部にあったと想像しても良い。その異様さが理解できる。ちなみにイスラエルはW杯予選はヨーロッパ枠となっている。

 このイスラエルに対するアメリカの支援は、すごいもので、10年間の軍事支援として約4兆円をすでに表明しており、常に最新の武器を支給している。実際、イスラエルという国がある日、突然に消失したところで、中東にはサウジアラビアなどの親米国家があるため、アメリカの存在を脅かすような問題がなく、どう考えても、アメリカがここまでイスラエルに肩入れする国際政治上の利点がない。

 一方、アメリカにおけるユダヤ人は人口の約2%で、メキシコ、キューバなどのヒスパニックの人口、17%近くに比べても少数派であり、数だけでいえば中国系アメリカ人と変わらない。隣国のメキシコが反米国家になることはアメリカにとって大きな脅威となるが、イスラエルほどメキシコに肩入れしていない。

 アメリカからすれば、イスラエルが核兵器を持っても、イランと違い、その使用は決してないと考えているかもしれないが、私にすればイラン以上に恐ろしい国で、かってイラクの原子炉ができれば平気で空爆、奇襲した。おそらくイランから攻撃があれば、核攻撃も多分躊躇わないであろう。エルサレムというユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地を人質にとっており、そこへの核攻撃はないとたかをくくっている。

 アメリカ人の知人に聞くと、高校、大学の知人にもユダヤ人はいるが、ほぼアメリカ人であり、日常的にイスラエルという国が話題になることもなく、アメリカそのものの利益にもなっていない。もしイランとアメリカが戦争することになれば、これはアメリカがイスラエルの代理戦争をしているようなもので、莫大なイスラエルへの軍事支援と合わせて、税金の支出者であるアメリカ国民の理解を得られるだろうか。

 昔、ハリウッドと言えば、ユダヤ系資本が牛耳っており、「ベンハー」や「十戒」などの映画や、極め付けは「栄光への脱出」というイスラエル建国の映画まであった。こうした流れは今でも止まらず、「シンドラーのリスト」や「戦場のピアニスト」まで続く。イスラエル、ユダヤ人=善、正義といった世論形成に長けているが、日本人を含めたアジア人には通用しない。これは絶対に無理とは思うが、日本政府はイラン、北朝鮮の核開発を批判するなら、同様にイスラエルの核保有をもっと追求すべきであり、それこそが中東の核開発を中止できる決め手となる。不思議なことに、こうした正論は共産党も含めて出てこない。

2019年6月23日日曜日

相良清兵衞について

弘前、 西福寺

「弘前の墓(昭和58年)」より


 ブログの読者の方から、相良清兵衞のことで問い合わせがあった。相良清兵衞については、弘前藩の初期の頃、九州の人吉から流刑人とした津軽家預かりとなった人物で、南溜池近くに住まいがあったことから、その一帯を相良町と呼ぶようになったことは朧げに知っていたが、それだけであった。

 ところが、出身地の人吉では平成九年に清兵衞屋敷跡の発掘調査から、水のでる謎の大きな地下室が発見された。他の類型がなく、その不思議さから、様々な説が唱えられ、その中でも隠れキリシタンの秘密の礼拝施設という説が広まっている。その後、2012年に「驚愕の九州相良隠れキリスタン:前代未聞の歴史的真実(原田正史著)という本が出て、人吉球磨地方全体が藩主も含めて隠れキリスタンだったという新説が登場した。本の内容については、未読のためわからないが、歴史の専門家からは証拠が少ないと認められていない。

「続弘前今昔」(荒井清明著、北方新社、1987)によれば
 
“清兵衞は、寛永十七年(1640)、十月九日上下六人で弘前に到着した。時に七十三歳の高齢であった。九州から陸奥の果てへの流謫は、さぞ身にしみたものであったと想像される。津軽三代藩主信義は、合力米三百俵三十人扶持を与えて鄭重に扱った。清兵衞は風雅の道に親しみ、藩士の子弟に文筆を教えたと伝えられる。また清兵衞の家来印藤三甫は連歌と茶道にすぐれ、書でも知られ、田浦主水の子孫は、四百石で津軽の家中となった。剃髪して翻然とした清兵衞は、明暦元年(1655)十月十二日八十八歳で病死し、最勝院に葬られた。”

となっている。

また津軽編覧日記(明暦元年七月二日条、青森県史より)には

“七月二日、御預人相良清兵衞死去、行年八十八才、最勝院に葬る、此人高屋村の配所に被居候処、火難に逢候て弘前に引越、南溜池堤の側に住居致し、家来田浦主水・印藤九郎右衞門両人有之、主水は追善の為高野へ罷登り、男子壱人有之候を九郎右衞門に預け参候処、九郎右衞門入道致し名を印藤三甫と改、手跡能筆にて歌学の師範なと致し暮し、主水子を養育し後、屋形様へ御小姓奉公に出し候処、御意に応し田浦四郎右衞門と名改被仰付、侍に御取立被遊候”

とあり、田浦主水の子を印藤九郎右衞門が養父として育てたようである。相良清兵衞の旧姓は犬童頼兄(いんどう よりもり)で、いんどうの音は印藤とも通じるので、おそらく相良清兵衞と印藤九郎右衞門は親戚だろう。印藤は著名な連歌師であり、延宝元年(1673)に76歳で亡くなったことから、生まれは1597年、弘前に来たのが58歳であった。一方、田浦は息子が寛文四年(1664)に御児小姓になったことから、印藤よりはかなり若かったと思える。高野山に行った後、弘前に帰ってきたのだろうか。

子供の名前は、「津軽史 解説目次抄五」では

田浦四郎右衞門長矩
寛文四年 四郎右衞門御児小性(姓の間違い?)被召出姓名を星出雲八と称す
延宝四年 御近習小性となり姓名再び田浦四郎右衞門と改む

とある。印藤九郎右衞門(三甫)は寛文三年には徳川家光十三回忌の恩赦で帰国を許された。相良清兵衞の実子とも言われている。

 相良清兵衞の墓は、当初、旧最勝院にあったが、その後、昭和57年に田浦家の子孫により、貞昌寺の塔頭、西福寺に移った。最勝院はもともと、今の田町、熊野宮と八幡宮の間にあった大きな地所を持つ寺であった。その墓所の一部は今でも熊野宮の前にあるが、そこからの移転であろうか。

 早速、西福寺に寄ってみると、寺の裏側の田浦家の墓所に相良清兵衞の暮石があった。古くて字が読めないが、「弘前の墓」(昭和58年度墓確認調査報告書)によれば、

“俗名 相良清兵衞尉墓処 盛徳院殿天金本然大居士霊 明暦元年乙未歳七月十二日寂”側面には“宝暦四年甲戊年七月十二日当百忌年”、“田浦吉右衞門源長英建之”とある。宝暦四年は1755年に当たるので、清兵衞が亡くなった100年後に作られた墓でオリジナルのものではない。

 “天”がつく戒名は非常に珍しく、これが隠れキリスタンの証拠だという意見があるが、むしろ人吉地方、相良家特有の戒名とも考えられる。清兵衞がキリシタンだったかどうかは不明であるが、弘前に流刑された寛永17年(1640)は、まだまだキリシタン弾圧の真っ最中で、弘前藩でも寛永14年には73名のキリシタンが処刑され、20年にも最後の処刑が行われた。流石にこうした時代にいくら高位のものとはいえ、キリシタンをお城近くに住まわせることはなく、これまで調べた弘前の資料では、相良清兵衞とキリシタンの関係は見出せない。人吉最初のキリスト教関係施設は明治39年にできた人吉修道院で、藩主以下、民衆の中にも多くのキリシタンがいたわりにはあまりに明治後のキリスト教の普及が遅い、隠れキリシタンなどほとんどいない弘前でも最初のプロテスタン教会ができたのは明治8年で、それより30年も遅いのは、人吉を隠れキリシタンの里と呼ぶにはあまりにつじつまが合わない。