2016年3月25日金曜日

歯科医院 新規開業



 歯科業者に聞くと、あくまで青森県での話ではあるが、最近の新規開業の歯科医院では、CTは必需品で、さらにマイクロスコープとCAD/CAMシステムも導入するところが多いと聞く。また患者の感染予防意識の高まりに配慮したウォシャーディスインフェクターやBクラスのオートクレーブなどの消毒滅菌器具の完備も必要となる。フル装備で揃えるとなるとかなり費用がかかる。

 こうした最新の医療器具が果たして患者の治療にどのように役立つ検討してみよう。まずCT(コンピューター断層撮影)は、口腔を三次元的に把握する利点がある一方、以前に比べて被爆線量は減ったとしても、一般のレントゲン撮影よりは被爆線量は高い。こうした人体に悪影響のあるものは、それを上回る利点がなければ使うなというのは医療の原則である。そのため健康保険の要件では1。埋伏智歯等、下顎菅との位置関係、2。顎関節等、顎関節の形態、3。顎裂等、顎骨の欠損状態、4。腫瘍等、病巣の広がり、5。その他、歯科用エックス線撮影または歯科用パノラマ断層撮影で確認できない位置関係や病巣の広がり等を確認する特段の必要性が認められる場合と規定されている。5について解釈は分かれるが、重度の歯周病治療や根管治療、歯根の破折などにも適用できるとされている。一方、ヨーロッパの歯科用CTのガイダラインによれば、2の顎関節の撮影は意味がないと否定され、さらに歯周疾患、根管治療への適用は強く否定されている。おそらく厚労省の解釈においても歯周病、根管治療へのCT撮影は基本的には認められないだろう。こうした意味から歯科におけるCT活用はかなり制限されており、患者数の少ない新規開業でこうした器材を揃えるのは無駄であろう。唯一、役に立つのはインプラント治療をする場合に限られ、これについても新規開業でいきなりインプラントの患者が多いわけはない。勢い購入費用を捻出するため来る患者に過剰にCTを撮ることに繋がる。

 マイクロスコープによる根管治療については、あれば便利であるが、欧米でもこうした装置を備えているのはエンド専門医だけで、一般開業では持っていない。根管治療は歯科医の臨床技術が最も現れる手技のひとつで、通常の根管治療を満足にできない歯科医がマイクロスコープを使ったからといってうまくなることは絶対にない。相当なレベルの歯科医がさらにレベルを上げるにはこうした器材も必要であるが、臨床経験の少ない新規開業の先生には全く必要ない。

 また感染予防については、実際の歯科医療においてこれまで感染に起因する大きな事件は発生していない。エイズ、肝炎など重篤な感染症についても歯科治療を通じて確実に交差感染させた事例はない。むしろ患者から歯科医への、特に肝炎の感染例は多い。こうした点から歯科医院が感染予防対策に力を入れることは、必ずしも患者の役に立ってはいない、あるいは元々問題ないものである。内科の検査で、聴診器から心電図のパッチ、血圧計をすべて滅菌しろというようなものである。ただ口に入るものだけに患者が気になるだけである。ただこれについては、タービンを患者ごとに交換する必要はなくても、いったん他の診療所で交換していれば、汚く感じるもので、こうした患者の心理には十分配慮する必要がある。

 本日、歯科保険改定講習会に参加したが、齲蝕だけでなく、歯周疾患も次第に減っているという。そして未来像としては80歳で20本以上の残存歯があり、認知症あるいは寝たきりというパターンを想定している。こうなるとCT、マイクロスコープどころか、歯科治療そのものの必要性が減り、管理主体のものになっていくだろう。

2016年3月20日日曜日

経歴詐称

 経営コンサルタントのショーン・マクアードル川上さんの学歴詐称が炎上している。アメリカのテンプル大学とパリ第一大学で学んだ後、ハーバードのビジネススクールでMBAを取得したとしていたが、これがすべて詐称であることが判明した。その結果、すべてを失った。テレビ、ラジオの仕事以外にも本職の経営コンサルタントの仕事もなかろう。
  
 通常、雇用の場合、本人の持ってきた履歴書を信じるしかなく、わざわざ大学に問い合わせたり、卒業証のコピーの提出をすることはない。ばれることを考えると、履歴書に経歴を詐称するのは、躊躇われる。ましては今回のようにブログなどで自分の経歴、学歴を示すことは相当危険であり、怖いものしらずなのだろう。

 ある本の著者(女性)の経歴をみると、東北大学医学部に入学するも医者に向かないと中退し、渡米してオハイオ州立大学の工学部航空力学科に入学し、さらにカリフォルニア州立大学で航空力学の修士、心理学の学部と修士を学ぶ。その間にFBIのインターシップを受けた。学部、修士卒業後は、航空会社に乗務員として勤務した。仕事の合間に小型飛行機とヘリコプターの免許を取得。祖母の経歴もすごい。戦前に東京帝国大学医学部を卒業後、陸軍軍医として南洋で勤務(女の軍医?)。終戦後は、ベルリン大学医学部の教職につき、さらに北京大学で勤務した.母親は東京のある医学部に入学したが、祖母がベルリンに行ったため、一旦休学し、日本に帰国後、医学部に戻るが、途中で米国の航空会社の客室乗務員となり、その後は宇宙の関する勉強がしたいと大学院で宇宙工学を学び直し、今は宇宙工学関連の研究員をしている。

 著者、母、祖母ともかなり怪し気な経歴で、私などここまで読んで、うさん臭いと考えたが、読売新聞、女性セブンの記者、あるいは人権団体のメンバーなどはすべてこの経歴を信じ、今は大学教官である。少し知識のある人であれば、戦前、東京帝国大学医学部卒業の女性医師はいないこと、旧陸軍には女性軍医はいないことから、かなり眉唾の話と思うだろうし、航空力学の修士まで出たひとは何で客室乗務員になるのか(アメリカではこうした高学歴の人がなる職業ではない)、疑問に思うだろう。旧知の地元の新聞記者も取材をしようとしていたが、うさん臭いため、やめるように言った。著書のレビューも評価が高く、市町村などでの講演も多い。

 こうした経歴を詐称する人も問題であるが、それをそのまま信じる方もあまりに多い。批判精神がない。ショーン川上のケースでも、コンサルタントとして売り出した大和証券、著書を発行したり、コメンテーターとして採用した朝日新聞、朝日放送などもひどいもので、とりわけ天下の朝日新聞の調査能力は週刊文春に遥かに劣っていることが判明したわけで、これでは慰安婦問題、南京事件でもだまされるはずである。マスメディアの最も重要な要素は批判精神であり、採用試験にもこうした要素をみる試験をしたらどうだろう。

2016年3月13日日曜日

ミステリーランチ ASAP

左がTimbuk2

左がシェラデザインズのクラシックデイパック

 数年前までは革製の重い手提げ鞄を使っていたが、だんだん持つのが苦痛になり、ハンティングワールドのショルダーバッグに変更した。これはこれでいいのだが、設計が古いため、コンピュータを入れることができず、また一泊程度の旅行にも容量が小さすぎて役に立たない。

 そこで2年前に買ったのが、メッセンジャーバッグで有名なTimbuk2の中でも最も売れているクラシックメッセンジャーバックSをアマゾンで購入した。これは、13インチのコンピュータも入るし、一泊くらいの出張であれば、13inch MacBookAir、その電源と無線LANセット、I-phone、イヤホーン、カメラ、シェーバーなど洗顔グッズ、手帳、ペンケース、タオル、下着、靴下、文庫本2冊くらい、折り畳み傘、雑誌などは十分に入るし、暑くなって脱いだフリースなどもベンクロでくくり付けることもできる。またポケットも多くて収納に便利である。またメッセンジャーバッグは基本的には片肩ではなく、たすきがけにかけて、背に背負う。自転車の乗る場合は、さらにベルトを締め上げ、背中に密着させる、腹部の別ベルトで固定する。これでほぼリュックなみの体への密着度となり、荷物が軽く感じられる。

 普段はこのバッグに弁当、携帯電話、折り畳み傘、手帳、名簿、ペンケース、弁当、のど飴、小型タオル、ポケットテッシュ、老眼用めがねなどを入れているが、図書館など外に出る時はI-PadMacBookAirを追加していれることも多い。古本屋などで本を数冊買うとさすがにいっぱいになり、重くなるが、それでも日常生活には十分で、Timbuk2のメッセンジャーバッグは、値段の割には機能面で優れたコストパーフォマンスも高い。アマゾンのカスタマーレビューでも74件の評価で平均点数が4.3と高い。

 こうなると、いよいよリュックの登場である。以前に懐かしさもあってシェラデザインズのクラシックデイパックを買ったが、これは1970年代のものを復刻したもので、現代的な機能はない。そこで最新のリュックを探すことにした。リュックと言えば、日本ではグレゴリーが高い評価を受けているが、本場のアメリカでは意外に評価は低い、あるいは取り上げられていない。アークテリクスやオスプレイ、ドイターなどが人気が高い。さらに私が好きなミリタリーものでは、ミステリーランチ、ケルティー、5.11タクティカル、カリマーなどの評価が高い。いろいろと悩んだが、フル装備で1泊くらいの旅行ができ、なおかつ背負い心地の良いということで、ミステリーランチのものにすることに決定した。ミステリーランチについては以前からよく知っているメーカであったが、値段が高く、買うまでにいたらなかったが、最近は使うものなら買うということにしている。ミステリーランチは単純にミリタリーと考えていたが、今回調べると、街用のリュックも多く出している。ただ折角、ミステリーランチにするなら是非とも軍用ものということで、ASAPAs soon as possible、出来るだけ早く展開する)というものにした。1DAY ASSULTほぼ同じであるが、HPをみても前者はMilitaryの範疇に、後者はUrbanの範疇に入っており、よりASAPの方がミリタリーぽいと感じたからである。さらに細かいことを言うと、1Day Aaaultでは布製のラベルだが、ASAPでは直接の刺繍となり、かっこいい。値段もアメリカで245ドル、1ドル115円にして28100円、日本ではあまり安くならないが、それでも30000円くらいで、価格差は少ない方である。一方、1Dayの方は日本だけの販売で50000円は少し高い感じがする。来月は鎌倉に旅行に行く予定だが、このリュックの案配をみてみたい。

  *本製品はジッパーが堅いと言われているが、それほどでもなかった。むしろフィッティングの際にフレームシートをヨークとバックに差し込むが、これにはすごい力が必要だ。指を擦りむいてしまった。女子では無理であろう。一度、フィッティングすると楽になるが。




2016年3月12日土曜日

遺愛女学校の弘前からの学生


 NHKの朝ドラ「あさが来た」では、主人公の白岡あさが女子大学の創立を目指して資金集めに奮闘している。実際に広岡浅子のよる日本で初めての女子大、日本女子大学ができたのは1901年(明治34年)である。戦前の女子は、勉強はできるが、資産がない子女は師範学校へ、資産があり子女にさらに教育させようとする場合は女学校へ進学した。さらに女学校を卒業すると成績優秀者はお茶の水や奈良高等女子師範学校や東京女子医大に進学した。女子に認められた職業は先生と医者しかなかったからである。今のような女性が会社に入り、企業の役員になるようなチャンスはほとんどなかった。

 江戸時代の女子教育は、裁縫や茶の湯、生け花、礼儀作法などの女子教養に限定され、さらに文字を学ぶために寺子屋に通った。上流士族では、子女に和歌、古典文学や諸芸を学ぶことはあっても、基本的には家庭の妻という役割以上のことは求められなかった。こうした時代から明治になると、いきなり女子の教育熱が活発化する。不思議な現象で、それまで女子には教育は必要ないとされていたのが、男子同様に女子でも士族を中心に教育熱が急速に高まる。

 弘前藩でも、幕末、用人(家老に次ぐ高官)、毛内有右衛門の妻、毛内滝子は日本でも有名な女流歌人であったが、これは例外的な存在で、青森での女子教育のはしりは、明治84月にできた東奥義塾の小学科女子部である。最初の生徒数は66名であった。写真が残っているが、生徒の年齢差が大きい。多くの女子は、よほどこの学校の創立を待ちわび、入学したのであろう。この学校のすぐれた点は、女子教師にすぐれた人物がいたことである。中田仲、菊池きく、兼松しほ、脇山つやなど、当時の社会では最高の女子教育を受けた女性が教師となっている。そこでは英語も含めた現代的な教育がなされ、それまでの寺子屋とは一線を画している。

 始めて受けた教育は女性達には刺激があったのだろう。ついで明治152(1882)に北海道、函館に遺愛女学校ができると、もっと勉強したい、英語を習いたいという女性達は、津軽海峡を小さな舟に乗って渡り、寄宿生活をしながら、アメリカ人宣教師から本物の英語を習った。一期生は6名と言われているが、その詳細はわからない。珍田捨巳の姉、珍田みわ(安政元年、1854)は明治22年の最初の卒業生であった。一期生で入学したとすれば、28歳で入学したことになる。みわは弘前女学校、遺愛女学校の舎監を勤め、明治44年以降は東京の珍田捨巳邸で暮らした。敬虔なクリスチャンとして一生独身で通した。他には儒学者の兼松石居の娘、兼松しほ(1844年生まれ)は、東奥義塾の女子部の先生をしていたが、授業が終わると外国人教師イングの婦人に英語を習った。そして38歳の時に海を渡り、遺愛女学校に入学した。おそらく一期生と思われる。弘前女学校ができた時には請われて教師に迎えられたが、結局は津軽家の娘、津軽理喜子の養育、教育を頼まれ、養育係として勤めた。二期生の山田トク(明治元年生まれ)は、東奥義塾女子部から、県立女子師範学校、そして遺愛女学校に入学する。明治23年の第二回卒業生卒業で、この時の卒業生は山田トクといとこの中野うめの2名だけであった。兄は、メソジストの牧師となる山田源次郎と寅之助である。その後、弘前女学校の教壇に立ち、実業家の高谷貞次郎と結婚して、キリスト教徒として種々の社会事業を行った。大和田しなも東奥義塾女子部に入学し、明治11年に17歳で受洗し、遺愛女学校に入った。おそらく一か二期生か。弘前女学校の先生となったが、結婚して内海姓となり、子の一人は伝道師となった。他には今東光の母、伊東あやは四期生、鎮西学院の笹森卯一郎の妻、三上としは三期生か。

 遺愛女学校の初期の生徒は、今の感覚で言うと、かなり年齢の高い女性が多く、教師をしていたような女性が英語を学ぶためにわざわざ入学した。ある意味、女性のための高等教育機関と考えてもよかろう。それにしても明治初期の女性の知識欲は、江戸時代の女性教育の弾圧といってもよいほどの軽視への裏返し、あるいは抑圧されていた欲求の噴出のような気がする。函館も近くなったので、一度、遺愛学院で初期の入学者について調査をしたいと考えている。詳細について、もう少しはっきりするだろう。