2018年7月22日日曜日

尼崎天主堂

戦前の尼崎教会、天主堂


戦後、再建された天主堂、ガスタンクの横にこうした建物があったことを覚えて人は少ない



 幼い頃の記憶がある。石造りの門を越えると、だだっ広い空き地があり、その左に天に届くかと思われる高い教会がある。石造りの天主堂は広い敷地の中にぽつんと建っており、そのまま上の高くそびえていた。子供心にここは入ってはいけない場所のように思えたが、それでも教会であることはわかっていた。隣には尼崎のシンボルであった大きなガスタンクがあったが、その教会はそれ以上に高い印象を持った。

 尼崎の家は、東難波町4丁目にあり、前は菓子屋と餅屋、隣はクリーニング屋、裏は酒屋兼一杯飲み屋とあれは何だっただろう高い板塀に仕切られた砦のような家があった。確か、在日の家族が数家族住んでいたように思われる。家の前は毎朝、旭ガラスなど海岸沿いの工場に勤める人々が多く通った。イメージとしては軍隊の行進のようにザッザッという音が聞こえた。こうした工場で働く人々を相手にした店が道の周辺に集まり、他には病院、味噌屋、散髪屋、タバコ屋、飲み屋などが並んだ。酔っぱらい、キャバレーに勤めるホステス、ヤクザ、ヤクをやっている遊び人などあまりいい環境ではなかった。そうした場所に教会があったのは子供心には奇妙な感じがした。私は聖公会系の難波幼稚園に行ったいたので、キリスト教の雰囲気はある程度違和感はなかったものの、柄の悪い家のすぐ近所にこうした大きく、荘厳な教会があるのはどうしても納得できなかった。近所であったがここの入ることは2、3度しかなく、姉や兄、母に聞いてもあまり印象は少ないようだ。中学に入る頃になるといつもまにか解体され、空き地になっていたが、その内、何か建物が建ち、前がどうだったかすっかりわからなくなった。

 宮本輝さんの小説が好きで、新刊書はまっ先に買う方だが、昔の作品はそれほど読んでいない。今回、「真夏の犬」(文春文庫、2018)を読んでいると、尼崎を舞台にしている「力道山の弟」、「チョコレートを盗め」の二編が収められている。読んでいると何となくこの当りを舞台にしているという感じはするものの、こことは同定することはできず、おそらく著者も複数の場所の記憶を混ぜ合わせて小説の世界に落とし込んでいるのだろう。それでも当時の尼崎に雰囲気を十分に表現しているのはさすがに宮本輝さんである。宮本さんのお蔭で昭和30年代の尼崎をそのまま残してくれたことは本当にうれしい。こうした表現のプロがいないくて、昔の記憶が全く消失した多くの地域に比べると阪神尼崎近くに住む人は幸いである。

 尼崎教会のホームページによれば、昭和12年(1937)に本聖堂“尼崎天主堂”を建設するも、昭和206月(1945)に焼夷弾により聖堂、司祭館等焼失、伝道婦宿舎被爆半壊し、同年7月の半壊伝道婦宿舎を修理再建して仮聖堂にするとなっている。さらに昭和23年(1948)に前聖堂の焼跡基礎上に復興聖堂を建設、昭和33 年(1958)に聖堂建設委員会発足、昭和38年(1963)に尼崎聖堂建設運動一人一日十円献金を申し合わせる。そして昭和42年(1967)に北大物新聖堂完成に伴い教会移転となっている。現在、北大物のある建物をみると天主堂というような高い建物はない。

 この記述を信じるならば、私は小学校頃に見たのは、焼失した聖堂の幻だったのか。昭和23年に復興聖堂建設となっているが、物資の不足している昭和23年に私が見たような空に高くそびえる立派な天主堂が再建されたのか。さらにその15年後に聖堂建設の委員会ができ、19年後に移転する必要はない。私が見たのは多分昭和30年代、それも後半の昭和39年ころと思う。さらに尼崎教会のHPをくわしく見ると、昭和41(1966)の記述に“1948年に仮聖堂を建てて現在に至っている。遠くから見える塔だけは前のままで昔の面影を残しているが、工業都市だけに人口は急速に増加、信者も増えて、現在1370名を越え、実質上、大阪教区でも大教会の一つ、長崎出身の信者が多いのが特色”となっている。これによれば、私が子供のころみた教会は戦前にあった大聖堂をそのまま再建したものなのだろう。上の写真は尼崎教会のHPにある写真であるが、戦前、戦後の天主堂が全く同じで、再建したとすれば、全く同じものを建てたのだろう。ただ作りが低級で早い時期から再建が検討されたが、結果的には戦前のような大きな天主堂はいまだにない。

ちなみに尼崎大天主堂のあった場所は、今の尼崎地方合同庁舎隣の日本政策金融公庫尼崎支店のところである。



2018年7月20日金曜日

早道之者 追加





 図書館に久々に行った。最近はこれといって特別に調べているものがないためだと思う。弘前藩の古武術について調べていると、「津軽のやわら 本覚克巳流を読む」(太田尚美著)に戸田導(道)場の「門人帳」に、弘前藩の忍術集団、早道ノ者所属の阿保源八が天保七年(1836)に入門したことが記載されている。また文政十三年(1830)の入門にも早道ノ者、小野良助の名がある。明治二年弘前絵図では小野良助の名はないが、阿保源八の名は紺屋町足軽町にある。浜の町から岩木川の橋を渡って町への入り口、紺屋町枡形のところである。同書にある慶応四年(1868)?「両術伝授名前留帳」にも阿保源八の名がある。

 弘前藩記事をみていくと一巻に 早道ノ者、伊三郎倅、佐々木良作の名がある。また四巻には履歴調があり、その中には4名の早道ノ者の履歴が載っている。
まず外崎九八郎、文政三年十一月二十三日生まれ、東京で公用人吟味方をしていたが、秋田出張の折、病没。大森藤次郎。文政十年一月生まれ、庄内、仙台、秋田、南部各地を探索、明治後に安祟と改名。明治二年弘前絵図では田茂木町のその名がある。斎藤定一。天保十二年一月生まれ。隠密活動をし、維新後は第三大区第一小区目付(警察?)。斎藤雄司。文政十年十月生まれ。一年中斥候として各所探索。明治二年弘前絵図では斉藤勇司の名が品川町にある。同一人物である。

 他には工藤大輔著「青森勤番並同所御蔵廻御取締方見聞言上書」には文政四年(1821)、相馬大作事件にあたり密告者からの情報を報告した早道ノ者、工藤千蔵と高木半右衛門のことが書かれている。彼等の職種は、青森勤番、同所御蔵廻御締方となっていて、常に探索、間諜に従事していたのではない。

 履歴調を読んでいると、すべてではないが、父親が早道ノ者で、それを子供が継ぐケースが多い。忍者集団と言われていても実際の仕事は各地の探索であり、その場合、一番大きな問題点は言葉である。商人に化けて全国を探索する場合、津軽弁だとばれてしまう。商人言葉のようなばれない言葉をしゃべる必要があり、そのためには子供のころからそうした環境に育てられなくてはいけない。世襲の方が有利となろう。幕府では、伊賀、甲賀の忍者たちは、江戸城の警固の仕事などをして、間諜などできなくなったため、新たに組織されたのが隠密御庭番である。弘前藩の早道之者は、幕府の御庭番と性格が似ており、それに準じるなら、普段は城内の警固をしていたが、家老からの任務があればその仕事に従事したのであろう。鹿児島の薩摩藩ほどではないが、弘前藩は、陸路は秋田藩との境の大間越、碇ヶ関と八戸藩との境の野内の三つが有名で、それと海路の港を見張れば、ほぼ鎖国を達成できる。さらにはこれも薩摩藩と同じく、方言が強く、よそ者がばれやすく、他国者が藩内で探索するのを難しくさせている。相馬大作事件の際には、弘前藩から盛岡藩や仙台藩に間諜を送り込み情報を得ていたし、幕末では仙台、秋田、盛岡、京都、江戸、北海道にも間諜が送られていて、そこで得られた情報による藩の進路を決めた。


 こうした意味では、弘前藩の早道之者は、軽輩ながら、藩にとってはたいへん重要な仕事をし、とりわけ幕末期、幕府方より官軍派に藩論を急旋回した理由のひとつに早道之者による情報も役立ったのだろう。

2018年7月16日月曜日

150年前の幕末・明治初期日本

 
 高くて、本屋で買うかどうか、かなり迷ったが、買ってしまった。「150年前の幕末・明治初期日本」。明治初期に来日した二人のオーストリア写真家、ブルーガーとモーザーのガラス原板の写真を高精密画像で紹介した写真集である。こうした明治初期の外国人が写した写真集はこれまでにもあったが、この写真集ではそれをデジタル撮影して高倍率に拡大して周辺に写っている人物、風景を紹介している。普通なら5000円以上する書物は専門書以外買わないが、その前に渡辺京二著「逝きし世の面影」を読んだだけに、当時の日本を読むだけでなく、実感するのは写真が必要だと思った。同書には多くの外国人が幕末、明治初期の日本を清潔できれいだと感嘆しているが、「150年前の」にある写真を見てみても、農家、商家、町家とも家の前はきれいに掃除され、写っている人々は武士、農民、商人ともこざっぱりとしていて、確かに清潔である。当時、写真を撮るには数秒以上の露出が必要だったので、写真に写る人々は前もって動かないように指示されたであろうが(知らない人は動いたので亡霊のように写っている)、周りの風景ごとわざわざきれいにしたとは思えない。道をよくみると小さい黒点がところどころあり、馬糞であろう。

 「日本人は貧乏人はいるが、貧困は存在しない」とチェンバレンは言ったが、江戸時代にもスラムあるいは貧乏人の住む長屋はあったろう。ただ粗末な家、衣装ではあったが、汚いわけでないし、臭いわけでもなかったのだろう。「150年前 」写真集には、幕末の横浜の中村川から南一ツ目沼あたりの風景写真が載っている。川沿いには農家が写っているが、どの家のきれいに掃除がされ、屋根の藁葺きも整っている。対岸の菓子屋、団子屋、荒物屋などの写真もあるが、これも道には馬糞があるもののきれいに掃除され、きちんとされている。どの家も決して裕福な家ではなく、むしろ貧しいといってもいい家なのだろう。それでも写真を見る限り、決して貧困とは思えないし、むしろ美しい風景と思える。ところがこの数年後、南一ツ目沼が埋め立てられ、簡易宿泊所が多く建てられ、横浜でも有数のスラム街となる。小さな部屋の多数の人が寝起きし、不潔な環境で、病気が蔓延した。貧困の誕生である。おそらく西洋型のスラム街が発生するのは明治になってからだと思われる。江戸時代にも貧乏人が多く住む地域があり、学者によれがスラム街とされているが、ごみ、糞尿が捨てられ、不潔で、生活の乱れた近代型のスラムとは異なり、秩序だった、整頓された区域だったのだろう。

 さらに「150年前の」の写真集に載っている人物の着物姿が現代人とはかなり違った印象を受ける。まず女の人の着物の打ち合わせがものすごく緩い。襦袢がかなり見え、着物を打ち合わせの位置が低く、さらに帯の位置も低いし、着丈も短い。かなりゆったりと着物を着ていて、動きやすそうである。生活の根ざした着物である。もちろん屈んだりすると乳房が見えるかもしれないが、そんなことはおかまいなしといった感じである。着物自体も古着なのであろう、かなりくたびれた感じであるが、かえって動きやすそうである。庶民の着物姿は、肖像写真に残されたものより、こうした風景画の中に写る人物の方がより実際に近いのは、今でも写真館で写真を撮る場合は普段と違っておしゃれするのと同じである。

 江戸時代は、今でいうリサイクル社会であり、着物は何度も古着として使われ、さらにおむつ、雑巾などに使われてから燃やされる。糞尿は近辺の農家の者が買いにきたし、「150年前の」写真集にも写っている路上の馬糞も馬糞拾いという商売があり、それを集めて農家に売った。このことは馬糞売りという特殊な商売で生活が成り立ったことを意味するし、さらに競争が激しいと共倒れするため、専業だったのだろう。江戸時代は厳格に職業と数が決まっており、常に供給過多にならないように株がないと仕事ができないようにした。さらに江戸時代は盲人は座頭という団体に所属し、鍼灸、按摩などは専売となったし、金貸しなども許された。逆に健常者は鍼灸、按摩は基本的には職業に出来ない風潮であり、過当競争の弊害を防いだ。

  今回、デジタル写真は、デンマークのPhese oneという会社の8000万画素のカメラを使用している。Phase one社は、日本のマミヤを買収し、高解像度の中判カメラを販売している。1億画素のXF100moという中判カメラの価格は630万円。ガラス乾板は寸法がまちまちであるが、10インチ×12インチ(254mm,305mm)の情報量はとても大きく、数億画素であろうとされる。今回は8000万画素のカメラで撮影したが、それでも完全に複写できたわけではない。拡大、画像加工で、これまで見えなかったものが見えてきただけに、他の古い写真も同様な方法で再検討してほしい。現在、市販カメラで最高解像度はマルチショットによる4億画素のヘッセルブラッドのH6D-400c MS576万円。

2018年7月11日水曜日

診療所のプリンター エコタンク搭載モデル


 私の診療所には多くのプリンターがある。まず顎運動測定装置用のプリンター、筋電図用のプリンター、デジタルレントゲン用のプリンター、受付用のプリンター、そしてメインの院長室のプリンター、計5台のプリンターがある。開業当初、レーザープリンターがよいと思い、キャノンのA4専用のビジネスプリンターを買った。結構高く、40万円以上かかったと思う。これを十年以上使い、その後、アップルの接続端子が変わったので新しいタイプのキャノンのビジネスプリンターを買った。Image Runner IRC2110というもので定価は確か40万円くらいしたが、安くしてもらい、それでも25万円くらいした。こうしたビジネス用のレーザープリンターはいずれもキャノンのオフィース設備関連会社から買ったが、いつの間にか、そうした会社もなくなった。

 ビジネス用プリンターは使っているところが多いと思うが、問題は印刷費である。とくにインクトナーは驚く程高い。私のところでは2年間ごとに4色のトナーをそれぞれ交換し、各トナーがそれぞれ25000円くらいするため、交換の度に10万円近くかかることになる。カラーコピーで一枚当り10から20円くらいになる。この出費は大きい。

 そこで登場したのが、エプソンのエコタンクシリーズである。これはプリンターの価格破壊と言ってもよい商品である。これまでキャノンを中心としたプリンターメーカーの商法は本体価格を下げて、カラートナーでもうける仕組みであった。プリンターを5000円で買ったのに、交換したカラートナーが5000円かかったという笑えない話もあるし、インクがなくなれば新しいプリンターを買う人もいる。エプソンのエコタンクプリンターの本体価格は、インクジェットプリンターにしては高い方だが、インクがなくなるとトナーを交換するのではなく、ボトルでインクを補充する。そのため、トナーを買う必要がなく、補充用のインクも安い。今度、診療所のプリンターのインクがなくなったら、このエコタンクプリンターに交換しようと待っていたが、ようやくインクがなくなったので、エコタンクシリーズでは一番、大型のEWM5071FTを購入した。

 M5071A3までに印刷できるインクジェット複合機で、値段はヤマダ電気でちょうど10万円だった。印刷コストはカラーで一枚0.8円、白黒0.4円で、これまでのレーザープリンターの10-20分の一コストである。本体は20kgあるので二人がかりで3階まで運んでくれたが、接続は本当に簡単で、まずタンクに4色の液を注入し、その後は30分くらい運転準備をし、エプソンにHPからドライバーをダウンロードすれば、無線ランで簡単に繋がる。

 一番心配していたのが印刷速度で、カタログではカラーで約10ipmとなっていてはっきりわからないが、一分間に10枚であればレーザープリンターの半分くらいとなる。印刷速度が遅いのはいやだなあと思っていたが、医院の標準的な文書を数枚印刷したところ、ファーストプリントタイムも早いし、実際の印刷も早い。その後、普通紙に写真を全面印刷したが、これもそれほど時間はかからず、印刷速度については通常のオフィースで使う分には全く問題はないように思える。画質のついてはエプソンの写真用最高機種のPX5VIIをデジタルレントゲン用のプリンターとして使っているが、このプリンターで印刷したカラー写真に比べるとかなり劣る。ただ前まで使っていたレーザープリンターと比べると画質は違うものの、どちらもこんなものかというレベルで、印刷費を考えれば十分に納得できる。

 プリンターの印刷コストが1/10から1/20になるということは、経費削減が叫ばれる昨今の会社でも大きなメリットである。うちでも10年間のプリントコストが本体価格25万円にトナーを4回交換したので40万円、計65万円、年間6.5万円かかったが、これが本体価格10万円にインク代2180円×10回、5年で交換しても年間のコストは2.5万円くらいと1/3くらいになる。コスト的に最も大きなメリットがでるのはビジネス用であるが、本丸のビジネス用エコタンク搭載プリンターは、今のところ、今回買ったM5071FTと用紙容量の少ないM970A3Tしかない。おそらくM5071FTより印刷スピードと耐久性がもっと上がったインクジェットプリンターPXM7110Fのエコタンク版が将来でるであろうが、これが本丸中の本丸で、ある程度の会社ではこれで十分となる。印刷速度が一分間に20枚以上、耐久枚数が60万枚、印刷コストがカラーで0.8円、本体30万円以内であれば、これまでレーザープリンターを使っていたオフィースでもエコタンク内蔵型プリンターが標準になるかもしれない。うちの場合は、毎日20-30枚,月で600-700枚、年間で8000枚くらいとなる。この規模であれば、M5071で十分であろう。