2015年12月18日金曜日

ホーハイ節







津軽人でもないのに郷土史に関わってきたが、これだけは絶対に地元民でなければ理解できないのが、方言である。ことに津軽弁は沖縄弁(方言、語)と並んで、最も独特な言葉であり、未だにテレビで地元民の会話が放送されるときには字幕が入る。それでも方言自体は英語と同じく、単語を学べば何とか意味は理解できるが、発音はまねできない。大阪弁や鹿児島弁など他の方言は、母音としての日本語のアイウエオは残っているが、津軽弁は現在では使われない母音が使われる。Hの発音が、HSHの中間の発音となったり、PHの発音になったりする。例えば弘前は、通常はHirosakiと発音されるが、年配の方はShirosakiと発音し、さらに古い世代はPhirosakiと発音する。実際の発音は、Shiではなく、独特な発音をするため、よそ者にはまねできない。

これについて、直木賞作家の今官一は「津軽ぶし」(津軽書房、1969)で
「弘前と書いて「ひろさき」と訓むことになっているだが、その通りに発音できる人間は、生粋の「弘前ツ子」のなかには一人もいなかった。ぼくらの世代では、ほぼ「シロサキ」が普通だったし、じいさま・ばあさまの頃は、「フィロサキ」で用が足りていた。その「シ」も、Shi音よりは、SuitsSui音に近く「フィ」もfiではなくてPhiであった。略 他県の人たちには、ちょっと真似の出来ない「ほうはい節」という、古い伝承の民謡があって、いまは文句なしに漢字で、「奉拝節」と統合しているが、ぼくたちの少年の頃は、「ほう・ふぇ節」であった。これをフォネティック記に書き改めればーKhoPhaeである。同じ「は行」の「ホ」と「フ」が、二つの言語型式を、それぞれ固持しながら、同居しているのである」と記している。

「ほうはい節」は、同書では先祖伝承の民謡で、津軽為信公が藩内を巡察のみぎり、津軽坂という地方の農民が、歓迎のためにと捧げたのが起源としているが、青森県音楽鑑賞保存協会の解説では、この曲はもともと岩木山で歌われていた呪歌の「ホーハイ」の部分が、後に民謡化していったとしており、日本の古代呪術の「火開(ほうはい)、火開」、あるいは「火拝、火拝」と言って女性器をあらわにして、その女性器を火に見せる呪いとの関連を示している。これはこじつけぽいが、それでも津軽地方では熊に山の中で出くわした時には、女性の場合は前を捲くって寝て、女性器を熊に見せると、熊がその匂いをかいで逃げるという言い伝えがあり、恐ろしいものに対して「ほうはい」をするような迷信がある。

ホーハイ節は、民謡の中でも、裏声になる、その歌い方は独特であり、日本のヨーデルとも言われている。歌詞は時代とともに変わっても、「ホーハイ」という言葉と歌い方は、オリジナルの型式を残しており、即興で歌われた求愛、歌垣に近い雰囲気がある。歌詞は色々あるが、その一つに

婆の腰ゃホーハイ ホーハイ ホーハイ曲ホがたナーイ 曲がた腰ゃ 治らぬ
愛宕山遠けりゃ 吉田町ゃ長げよ
お玉良い娘何処通った お玉良い娘此処だ


ホーハイの合いの手以外の歌詞は、ほとんどアドリブで多分かなり卑猥な文句であったのだろう。古い弘前ネプタの囃子詞に“エッペ出せ出せ(イッペラッセ) ガガシコガシ”というもので、前半は言葉通りの卑猥なもので、こうしたかけ声はつい最近まであったそうだ。後半のガガシコは金属製のコップのようなものでこれを鳴らして踊った。案外、昔の庶民の楽曲は相当卑猥のものだったのだろう。

津軽民謡の第一人者の成田雲竹さんの”ホーハイ節”は、Kho-Phaiになっている。津軽でお正月のよく演奏される”俵積唄”です。南部の唄ですが、めでたく人気があります。

2015年12月15日火曜日

正常咬合 治療を必要としない




 健康病気という対立概念で考えると、どうしてもボーダ、境界領域が存在する。検査をしても体には異常はないが、頭が痛い、体が疲れる、腕がしびれる。医師にかかった病気のうち、85%は自己完結的(自然治癒する)なものであると言われ、必要もないのに投薬、手術など医療行為を受ける場合も多い。ウイキベディアの“医療”の項目では、面白い例を挙げている。1973年にイスラエル、1976年にコロンビア、1976年にアメリカで医師のストライキが起こり、それぞれ長期間医療を受けられない事態となった。当初、病気による死亡者が増加すると考えられたが、実際はイスラエルでは死亡率は半減、コロビアでは35%、アメリカでは18%死亡率が低下した。皮肉なことは、医療自体が人の死亡率を高めている。

 おそらくは死亡にはいたらなくても、ボーダラインの患者に対する医療行為には多くの問題をはらんでいることは間違いない。血圧が高いと降圧剤を飲むように指示されるが、この薬の副作用で他の症状がでることがあるし、血圧の調整機能がマヒする可能性もある。さらにこれは個人的な経験であるが、2,3日眠られないと精神科に来院すると、簡単に催眠剤や神経安定剤を処方される。ただこれらの薬は依存性が高く、やめるのは難しくなり、次第に量も増え、さらに鬱なども併発するようになる。

 こうした点では、矯正歯科も同様であり、不正咬合を主訴として来院すると、すべて治療を勧められる。少しのでこぼこであっても、本人が気になるのであれば矯正治療の対象となるという考えである。ここで不正咬合と正常咬合の違いを考える。全く問題がない100%正常なかみ合わせを理想咬合(100人に一人もいない)と呼ぶが、下の歯が1本だけ少し、ねじれている。これは95点と言えようか。叢生(でこぼこ)の場合は、こうしたでこぼこに程度で点数をつけることも可能であり、学校健診の定義で言えば、上下の前歯が多少でこぼこしていても、これは正常咬合とする。おそらく80点くらいの状態であろう(全体の3割くらい)。問題は80点以上のかみ合わせの患者として来た場合である。80点以上が正常であれば、治療は必要ないことになる。さらに言えば、矯正治療では必ず後戻りがあるため、80点の歯並びを直し、90点にしても2030年後には再び80点になる可能性も高い。

 矯正治療は、ブラケットなどの装置を歯につけるため、齲蝕や歯肉炎、さらには歯根吸収などの為害作用があるため、少なくともそうしたデメリットを上回るメリットがなくてはいけない。数年前から私の診療室では、自分の判断で80点以上のかみ合わせの患者には、一切治療を勧めないようにしている。今年になって、10人以上こうした患者が来たが、少しくらいでこぼこがあっても気にする必要はなく、正常咬合であり、治すのは簡単であっても、すぐに後戻りするから、高い費用を払う価値はないと説明している。自分でも下の前歯がでこぼこし、上の前歯は少し開いているが、あまり気になっておらず、それくらいの不正咬合は正常咬合に入ると考え、治療を勧めないことにしている。ただ例外は、上下顎前突の患者で、上下の歯が前に飛び出ているため、かみ合わせは正常でも口は閉められないことが大きい。口が閉められない歯肉が乾燥しやすくなり、歯周疾患になりやすい。さらに口を閉じなくてはいけない状況では常に口に意識を集中しなくてはいけない。こうしたこともあり、正常咬合であっても上下顎前突はデメリットが大きく、抜歯が必要であっても矯正治療を勧める。また下あごが大きく、かなりあごが出ているようでも歯並びは少し逆の患者もある。こうした場合も上下のあごのズレが10mmを越える場合は手術の適用として希望があれば治療を行う。


 個人的には、医療の大きな役目としては、患者に異常はなく、大丈夫だと安心させることがある。胃が痛くて、内科に行き、内視鏡で異常がないと知ると、その瞬間から胃痛が治ることはよく経験する。歯並びにおいても、多少の問題があっても、正常であると安心させることも必要かと思っている。逆に少しの不正咬合について深刻に考える患者さんは、精神的に不安定であることもあり、治療自体がますます混乱させることもあるため、注意が必要である。何度もよく相談の上、治療するかどうか決めてもらう。

写真はインターネット上で勝手に持ってきた写真で、インビザラインの患者のものであるが、上の患者は正常咬合、下も上のでこぼこがなければ正常咬合で、矯正治療の必要はないし、勧めない。

2015年12月13日日曜日

弘前市立郷土文学館 考



 市立弘前図書館の隣に郷土文学館がある。一階は弘前に関係のある太宰治、佐藤紅緑、葛西善蔵などの資料が、二階は石坂洋次郎記念室となっている。いろいろと努力はしているようだが、どうも入場者数は少ない。インターネット上に掲載されている議事録には添付資料がないため、はっきりしないが、年間の入場者数はおおよそ3500-4000人、このうち小中学生は平成25年で250名くらいである。一日、15から20名くらいの入場者となろうか。入場料は大人100円、小中学生50円だから、年間の入場料収入は40万円くらいで、完全に赤字である。

 石坂洋次郎記念室については、熱烈なファンがいて、郷土を代表する作家ではあるが、さすがにもうだめだと思われる。青い山脈が発表されたのは、1947年、その後、1960年代まで“百万人の作家”として活躍したが、1956年生まれの私でさえ、もはや過去の作家で、ほとんど本を読んだことはない。実際に、弘前紀伊国屋書店でも郷土作家コーナーをのぞいて、文庫、小説のコーナーには石坂の本は一冊もない。アマゾンでみても、多くは中古本で、新刊本は「石坂洋次郎わが半生の記(人間記録)(2004)」があるだけで、この本も11年も前の本である。おそらく石坂洋次郎のファン層は1950-60年代に青年、壮年だった層、つまり現在、75歳以上の人々となろう。これから十年を考えると、ほとんど無名の作家となろう。ちなみに葛西善蔵は、アマゾンで文庫、新刊書で26冊、太宰にいたっては文庫本だけで30冊以上ある。太宰、ましてや葛西を越えた圧倒的な人気作家、石坂洋次郎の凋落ぶりは激しい。絵でもそうだが、石坂の本はあまりにアップデート、当時の流行に沿った内容なので、今の読者には全く受入れられず、人気はないし、今後も葛西善蔵は再ブレークの可能性もあるものの、石坂についてはそうした要素は全くない。

 そうした状況で、文学館の2階の石坂洋次郎記念室はいつまで続けるのか。確かに石坂は弘前名誉市民であり、その業績を後世に伝えることは大事であるが、誰も行かない記念室もまた意味がなかろう。普通に考えれば、石坂洋二郎記念室を人気のある太宰治文学コーナーに変更すべきであろう。太宰を偲んで、わざわざ弘前、五所川原を訪れる若者は多く、そうした要望にそうような文学館であってほしい。文学館は地元の一部の文学愛好家のものではなく、広い意味での弘前観光、学校教育に関係した施設でなくてはいけない。幸い館名に作家名が入っていないので、変更自体それほど問題は少ない。宮城県では阿部次郎記念館、白鳥省吾記念館、原阿佐緒記念館、秋田県でも石坂洋次郎文学記念館、松田解子文学記念館、矢田津世子文学記念館などがあるが、作者名を聞いても、よほど文学通でなくてはわからず、今後このまま続けるのだろうか。こうした文学館は各地に多く存在するが、どうも市、県の教育委員会、文化関係に携わる人には文学好きの方が多いため、いきおいオラが町の有名作家ということで記念館に作るのだろう。ただこうした文学館に誰が訪れるかというと、地元の者で、文学好きな者でも、年に2、3回がせいぜいであろう。石坂洋次郎記念室の廃止を唱えると、必ず反対する人がでようが、その人に聞きたいが、年に何回、この記念室を訪れるかと。


 郷土文学館に訪れる地元の文学好きの人々は、おそらく年に何度か開かれる企画展に行くのであろうが、一階の常設展示場に併設されて開催されるため、スペース的にもどうも物足りない。石坂洋次郎も一階の常設展示場に移し、二階を企画展用にして、内容の濃いものにしてほしい。さらに言うと、今年は陸羯南展が企画展としてあったが、ジャナリストでも文学の範疇に入れるなら、愛知大学に協力してもらえば山田良政、純三郎展もできるし、青山学院に協力してもらえば本多庸一展、さらには弘前に関係のある今東光展、珍田捨巳展など、弘前の偉人についての企画展もできそうである。また図書館の附属施設と考えるなら図書館所有の古絵図、貴重古書の展示や、小中学校の郷土教育を一貫として、郷土文学館の二階も十分に活用できないだろうか。

2015年12月10日木曜日

ギャッベについて

19C末のコーカサス、カラチョフの絨毯
左右対称でない部分を示す


 近くのデパートで「ギャッベ展」がありましたので、ちょっとのぞいてみました。新作のきれいなギャッベが飾られていて、今の寒い時期、こうしたパイルの長いカーペットは暖かそうです。

 ギャッベ(ギャベ、ガベ)については、アートコアの竹原さんが以前ローリー族のものについて解説していますので、そのまま引用します。

 「ガベはテントの中で、あるいは放牧に際して羊飼いの寝具として使われました。春、秋の移動期には、その途上の休憩時に仮眠にも使われました。織り組織は同じ絨毯のなかにペルシャ結びと、トルコ結びが混在していることが多く、異なった部族が互いに影響しあっていることが伺えます。またよこ糸が多いもので10本以上あり、他の絨毯に比べて短時間で織り上げることが可能でした。素材は羊毛に加えて、ラクダ、やぎの毛なども使われました。Spring Woolと呼ばれる初夏にかられるウールは油がのってしなやかです。残念ながらガベは生活用品として使われ、また柔らかい組織構造より、使われ痛んだものは捨てられる運命にあり、古いものは残っていません。現存するものでは19世紀中期のものが最も古く、ガベの存在が外部社会に紹介されたのは今世紀中頃(20世紀)になってからです」

 もともとのギャッベは、柔らかく、長い毛先のウールを使っており、通常の絨毯よりかなり厚いものでした。最近のものは以前より毛足が短くなっています。またデザインも家庭用に使うため、凝ったものではなく、絨毯用の模様を簡略化したような模様です。今のようなグランドを中心とした、きれいなグラディエーションをしたものは、あくまで近年になって欧米の要望に沿って作られたものです。日本では、1990年ころから、大阪の絨毯ギャラリーなど一部の絨毯業者が、コンデションのよい古いキリム、絨毯の確保が難しくなったため、新作の絨毯としてギャッベに注目したことは始まると思います。その上で寝るという特徴から当初のものは厚みも5cmくらいありましたが、さすがに家具の下に敷くには厚すぎ、最近では1cmくらの厚みが主体となり、今回のデパートの展示会でもすべて厚みの薄いタイプでした。またウールもそれほど柔らかいものではなくなり、通常の絨毯とあまり違いはありません。デザインも抽象的なコンテンポラリーなものに人気があるようです。

 ギャッベは主として遊牧民のローリー族、カシュガイ族の織られた絨毯を総称しますが、絨毯ではなく、平織りのキリムに属するものとして、イランのクルド、バルーチ族などが織るソフレと呼ばれるものがあります。とりわけ人気があるのはイラン中部のカモ村で編まれたカモソフレは、焼き上がったナンを保管する布で、その素朴な模様に人気があります。模様はギャッベに通じるもので、素朴な模様な現代美術にも通じるものとして脚光を浴び、わずが100枚程の古いカモソフレは瞬く間に愛好者のものとなり収蔵されました。

 単純な図案のギャッペでは、一畳サイズを約20-25日で仕上げると言われ、これは通常の絨毯に比べてかなりスピードの織りです。カシュガイ、ローリー族など遊牧民にとっては、貴重な現金収入であり、イランの絨毯メーカーのゾランヴァリは、毛糸の刈り取りから、手紡ぎ、自然染料による染め、手織りなど、一貫した生産体制は、品質の向上と一定の生産量に益していますが、一方、各家庭、織り子によるデザインの違いが持つ面白みは欠け、コレクターアイテムとしてそれほど興味は感じられません。いずれにしても、手織りの絨毯については、ギャッベも含めて、生産国のイラン、トルコともに物価が上昇し、織り子の賃金も上昇し、その結果、絨毯価格が高騰して売れないというジレンマがあります。一方、アンティーク、オールドの上物は、コレクターアイテムとして市場に出ません。幸いなことに躍進めざましい中国ではそれほど絨毯ブームはなく、主として欧米の顧客が主体なので、それほど価格の高騰はありませんが、いずれに中国の金持ちが投機目的で購入することもありえます。

 写真は、以前紹介したコーカサス、カラチョフの絨毯です。19世紀末ころのもので、パイルは短くなっていますが、正方形に近い形態、緑のグランドが美しいものです。イスラム教では左右対称を尊び、高級ペルシャ絨毯では厳密な左右対称となっており、左右対称=高級です。そのため、最近のコーカサス絨毯はきれいな左右対称になっていますが、100年以上前のコーカサス絨毯は多少の左右対称の破綻が見られ、そこがおおらかな印象を与え、魅了となっています。この絨毯でも作者のユーモアでしょうか、変な文様がたくさん見られます。

*ギャッベについては15年前に買った「ギャッペ・アート」(堀田隆子、京都書院アーツコレクション、平成9年)にくわしく解説されています。小さな本ですが、オールカラーのきれいな本です。