2008年7月31日木曜日

山田兄弟14




 最近は山田兄弟のことばかり書いていますが、何だが関心がこちらに集中している状態です。

 先の弘前で行われた愛知大学の山田兄弟の講演会では、関連書も同時に販売していました。いくつか購入しましたが、その中の「同門書院記念報」におもしろい記事が載っていましたので、紹介します。

 山田純三郎の子息順造さんは、父親の偉業を後世に残すため、資料館の建設と本の出版を強く願っていましたが、なかなか進展せず、亡くなられました。無念だったと思います。体を壊し、もはや本の完成は無理だと知った、友人の結束博治氏と作家の保阪正康氏が何とか、その遺志を受け継ぎ完成したのが、「醇なる日本人―孫文革命と山田良政・純三郎」(結束博治 プレジデント社 1992)と「仁あり義あり、心は天下にあり 孫文の辛亥革命を助けた日本人」(保阪正康 朝日ソノラマ 1992)の2冊です。両書とも出版年が示すように山田順造氏の追悼と悲願をかなえる本です。どちらもすでに絶版になっており、今や本屋に並ぶことはありません。その後、16年間山田兄弟に関する本は一冊もありません。インターネット上では部分的には紹介されていますが、なかなか世間の注目を浴びるようなことはありません。

このような状況を打破すべき、朝日新聞出版に出したのが以下のメールです(朝日ソノラマはつぶれました)。

朝日新聞出版
  書籍統括
    新書編集部 御中

 私は青森県弘前市で歯科医をしている広瀬と申します。趣味で、郷土弘前の偉人について調べています。弘前市は多くの偉人を輩出していますが、そのひとりに山田良政、純三郎兄弟がいます。中国革命の父、孫文の最も信頼の篤い日本人協力者であり、兄良政は最初の蜂起恵州蜂起で戦死、弟純三郎は兄の遺志を継ぎ、蒋介石や陳其美らとともに孫文の革命を助け、その臨終にも立ち会ったと言われます。
こういった中国、台湾とも関連が深い人物ですが、地元でもそれほど知られていません。この最大の理由は、本屋に山田兄弟について書かれた本が一冊もないことです。

 唯一、朝日ソノラマ(1992)から出版された保阪正康「仁あり義あり、心は天下にありー孫文の辛亥革命を助けた日本人」に山田兄弟、宮崎滔天のことがくわしく書かれていますが、今は絶版になっています。

 中国では胡 錦濤主席になってから、それまでの排日政策を転換し、日中友好の方針を立てている一方、台湾では馬総統になり逆に日台の関係がぎくしゃくしています。日本、中国、台湾を結ぶ友好のキイとして孫文があり、山田兄弟があると思います。
平成22年は純三郎没後50年に当たります。あまり売れなかった本を新書、文庫化するのは非常に難しいと思いますが、是非ともご検討いただきたくお願いする次第です。

 著者の保阪正康は、今や現代史の売れっ子作家で、本が出された当時より購買層は多くなったと思います。また保阪さん自身、他の本や雑誌でも未だに山田兄弟については執着があるようです。知られざる日本人像としても一定の興味を引く題材だと言えます。


当然のごとく、一読者からのメールに反応するほど朝日新聞もひまではないでしょうから、そのまま無視されています。それでも何とか文庫、新書化してほしいと願いっています。

 先に紹介した同門書院記念報には、愛知大学が所蔵している山田純三郎関係資料の詳細が載っています。いろいろな人との付き合いがあったことを示す資料集ですが、どうした訳か、孫文、蒋介石とやりとりした手紙がありません。当然、両者と純三郎は手紙でもやり取りがあったはずですし、山田にとっても孫文からきた手紙は宝物で、大事に保管していたものと思います。ただ資料776に張継というひと(このひとかhttp://homepage2.nifty.com/ryurinsya/1zhangji.htm)から山田純三郎宛の手紙で孫文関係の資料、党史会への貸与願(1946.7.6)が記されており、また中国国民党、中央党史史料編纂員会から革命史蹟展覧会開催に際しての史料貸借願い(1947.2.7)などの手紙もあり、孫文や蒋介石との手紙は国民党に渡った可能性もあります。そうなら山田純三郎と孫文や蒋介石との手紙は、現在台北の国父記念館のある可能性が高いのではと思います。一度、台北駐日経済文化代表処か、台湾にいる友人を介して尋ねてみたいと思っています。

2008年7月27日日曜日

山田兄弟13






















 7月26日に弘前駅前市民ホールで行われた「孫文・山田兄弟と東亜同文書院大学の資料展示会」の講演と27日に行われた展示会を見てきました。当日ちょうど青森県のインターアクト大会が星と森のロマントピア(相馬)で行われていたのですが、5時までさぼり、講演終了後そのまま会場に直行しました、そこで宿泊した後、次の日もまた展示会を見に行きました。

 国の支援のもと2年ほど前から全国的に愛知大学の資料展示と講演会が企画され、昨年度は東京と横浜、今年度は山田兄弟の生まれた弘前でということで開催されました。市民ホールは歯科医師会でもよく使うところですが、一日目と二日目で配置を変え、かなり費用がかかったのではと思います。講演は愛知大学の藤田佳久教授、馬場毅教授、作家のいずめ凉氏、武井義和先生の4方の先生の講演が1時から5時まで行われました。最後の講演は途中で抜けましたが、大変興味あるお話でした。また山田兄弟資料の展示も、うまくレイアウトされていました。

 愛知大学の先生方には大変、ご苦労さまでした。豊橋、東京から多くの関係者が弘前に来られ、本当に感謝いたします。一方、この講演、展示会には後援として弘前教育委員会や弘前市の名前が見えますが、果たしてどれだけ積極的に後援したかとなると、はなはだ疑問で、関係者の姿もそれほど見かけませんでした。本来、こういった企画は山田兄弟の生誕地である弘前市が音頭をとり、愛知大学の協力を得るのがスジと思われますが、何か名前のみ後援しているようでくやしい思いもしました。市の広報などにもそれほど大きく、取り上げられず、講演会の参加者の入りも7割程度だったと思います。

 山田兄弟の多くの資料は純三郎の子息順造さんの遺志から愛知大学にすべて寄贈されたようです。順造さんは生前、山田兄弟の資料館と本の出版を熱望していましたが、志半ば死去され、その後相談の上、愛知大学に寄贈されることになったようです。同門書院記念報という小冊子が会場に売っていましたので、それを見ると実に多彩なコレクションです。愛知大学に寄贈されてよかったと思います。本当にきちんと管理され、研究もなされているようです。これも本来なら故郷の弘前でということも考えられるのですが、当然資料館など弘前市で作る意思もなかったでしょうし、仮に市に寄贈されてもそこらの倉庫にしまわれぱなしになる危険もあります。かって笹森儀助の洋服が青森商業高校で打ち捨てられ、脚光を浴びるようになると展示されたという例もありますから。

 今回の講演会では愛知大学(東亜同門書院)のOB会である霞山会の顧問の方とお話ができ、また愛知大学の先生方と名刺交換できたことが収穫でした。弘前では山田兄弟の資料館や生誕の碑などあるかと聞かれ、貞昌寺に山田良政、純三郎の碑があるとは答えたものの、これらは弘前の有志が作ったものではなく、あくまで中華民国が建てたもので、弘前市として何か顕彰するようなものはひとつもないというのが実情です。東京のひとや愛知のひとから見れば全くお恥ずかしい話です。ただ純三郎没後50年など、何か弘前で企画する場合は愛知大学、霞山会としても協力を惜しまないというお言葉をいただき、うれしく思いました。


 まだまだ資料がたくさんあるようです。是非とももう少し大掛かりな展示会を開いてほしいと思います。何しろこれらの資料は日本人からすれば孫文以外そうたいしたことないと思われるかもしれませんが、中国、台湾では国宝級のもので、上の山田純三郎から孫文への手紙は北京にある宋慶齢記念館に大切に展示されているくらいですから。歴史教育の差というのか、中国革命のキラ星の人々、ちょうど明治維新の西郷や木戸、大久保といった人たち、と山田兄弟は強い関係を持ち、その資料はそれだけ貴重なものなのでしょう。それ故、このような展示会が台北や北京で開催されることが、日中、日台友好にもきっと役立つものと信じます。

 上の左の写真は1922年11月8日に今の広州市に住む山田純三郎から上海の孫文に宛てた手紙で、内容は中国語なのでよくわかりませんが、前に山田が病気した時に孫文がお見舞いに来てくれたことの感謝などを述べています。先生釣啓とした書き方や、山田緘とした末字などはおもしろい書き方と思います。緘とは手紙の封印の×の時によく使う字ですが、手紙の名前の最後にもこのように使うのは初めて知りました。中国式の正式な書き方かもしれません。

2008年7月24日木曜日

カザックの絨毯




 以前、コーカサス地方カラチョフの絨毯を紹介したが、これはカザックの絨毯です。5年ほど前に西宮のアートコアで買ったものです。正確にはFachralo Kazakと分類されるもので、カザックを取り囲む村で織られる絨毯がここに集積されたことから、総称してコーカサスカザック絨毯と呼ばれます。現代のアルメニア共和国に属しており、ほぼ黒海とカスピ海の中間部にある山岳地帯です。特徴としては4つのメダリオンの形で、これがFachraloの特徴です。ボーダーのグラスワインおよびブドウ蔓のモチーフはカザックで多く見られるものです。この絨毯は特に左右の男女?の乗馬像がユニークで、また種々のモチーフが相当ランダムに配置され、おおらかで素朴に作られた感じがします。Tribal Rugの香りがします。20世紀初頭のものと思われます。修復もあちこちありますが、前回のカラチョフほど丁寧でなく、作品としては劣ると判断され、リペアーに金がかけなかったのでしょう。ただパイルはフルパイルとはいきませんが、まだ長い方です。もともとコーカサスの絨毯のパイルはペルシャに比べて短く、薄く仕上げられています。
コーカサス地方の絨毯は、もはや地元にはほとんど残っていません。長らく続く戦争、内乱で多くの避難民が流出し、その際に住民が持ってきた絨毯もロシアやトルコ商人の手で海外、特に欧米に売り払われています。

 「コーカサス 国際関係の十字路」(廣瀬陽子 集英社新書)を読むと、この地の複雑さがよくわかります。まず民族・言語グループの分布を見ると、コーカサス諸語系民族が15、インドヨーロッパ語族が6、アルタイ諸語系民族が7といった28を超える民族がこの狭い地域に
分散しています。諸民族感では母語では意思疎通ができないため、ソ連時代はロシア語が共通語だったようです。また宗教も多彩で、イスラム教のスンニ派、シーア派、キリスト教(ロシア正教)、グルジア正教、またアルメニアは独自のアルメニア教会が信仰されています。ちなみにアルメニアは世界で初めてキリスト教が国教化した国で(西暦301年)、アララト山(旧約聖書のノアの箱船で有名、トルコ領)を自分たちの故地だとしています。またユダヤ教もアゼルバイジャンやダゲスタンの住む山岳ユダヤ教徒で信仰されていたり、拝火教で知られるゾロアスター教やロシア正教で異端とされたモロカン教徒などもアルメニアにいたりして、全くバラバラな状態で、そこにロシア、アメリカ、トルコ、イランの利権やイスラム原理主義者などが入り込み、むちゃくちゃな状況に陥っています。

 絨毯で見られるように、この地は本当に小さな地区ごと(集落ごと)に独特なデザインが使われ、今でも大体絨毯のモチーフの特徴によって分類ができます。このことは逆に言えば、地域ごとでかなり独立していたことを意味し、独自の文化様式を保っていたのでしょう。ところがまずロシア革命後、ロシアの勢力下に置かれ、その後1991年のロシア解体後は多くの国が独立したのはいいが、紛争が多発して、難民が増え、これらのことで伝統的な村独自の絨毯産業はほぼ壊滅したといえます。

 この絨毯の2人の乗馬像を見ていると、コーカサスに関してもロシア革命前の国家としてのまとまりはなくても、それぞれの住民が共存していた時の方がかえって幸せだったような気がして仕方ありません。20世紀は民族自立をスローガンとして多くの国を誕生させてきましたが、こういった多民族、多宗教の地にそのような論理はかえって混乱をまねくばかりで、雑然とした中でのゆるい連帯が必要かもしれません。「日出で作し、日入りて息す。井をほりて飲み、田を耕して食らふ。帝力我において何かあらん」これは古代中国の堯虞時代の理想的な国家の形を示したものですが、一部の民族主義者を除き、普通の庶民からすれば施政者の影がわからないような国の方がかえって良いのかもしれません。

2008年7月16日水曜日

山田兄弟12



 近衛文磨首相の長男で、プリンストン大学に行きながら、帰国後は二等兵として招聘され、ソビエトで抑留中に死亡した近衛文隆の生涯と近衛家の足跡を描いた「近衛家の太平洋戦争」(近衛忠大著)を読んだ。著者の近衛忠大氏は近衛文磨の孫としてうまれ、父文隆と祖父文磨の戦争の混乱に巻き込まれた足跡を丹念に、追っている。

 以前NHKでも放送され、記憶に新しい。この本の中で、山田純三郎の日中和平工作のことが少し載っているので紹介したい。アメリカから帰国した文隆は祖父篤麿の設立した東亜同文書院の学生主事として勤務する。その頃、泥沼化する日中戦争を終結すべき、前に登場した陸軍武官の小野寺信中佐の小野寺機関の協力者として和平運動、日中両国の首脳、近衛文麿と蒋介石の直接会談を起こそうと計画する。「バルト海のほとりにて」(小野寺百合子著)の中でも小野寺機関の協力者の一人として近衛文隆の名前が見える。その他のメンバーとしてはモスクワ大学卒業で共産党転校者などの名前も見られるが、このメンバーでは和平工作は無理かと思った。直接、蒋介石と強いルートがないからである。きっと山田純三郎も一員に入っているに違いないと思い、この本を読んだが一行も出てこない。一方、「近衛家の太平洋戦争」に中には汪兆銘政権の樹立を目指した陸軍により文隆や小野寺の和平工作は失敗するが、このくだりについて、「文隆が「萩外荘に軟禁」された背景にあった圧力について、元建国大学教授の中山優氏の文章がヒントになる 「惜しいことをした。文隆さんと私が組んで、重慶との間に何か交渉の道を開こうと思っていたのに、上海の軍部の圧迫で東京におし戻された」と、山田純三郎翁が先日病床の私に語ったことである」」

 純三郎は、東亜同文書院の関連から文隆の計画に協力したのか、それとも同郷の一戸大将の孫に当たる百合子の夫である小野寺中佐に、その縁故で和平活動に協力したのか、はっきりしない。少なくとも最後の日中和平工作に純三郎が絡んでいるのはまちがいない。木戸幸一日記にも全くこの機にじゃまなことをするといった記載があり、結局は陰佐大佐ら陸軍軍部の圧力に負けてしまう。少なくとも、天皇側近に珍田や牧野らの常識派がいなかったことが残念である。何度も日中の平和を願いながらも、どうしようもない純三郎の気持ちはやるせない。国民党政府幹部をほとんどを知り尽くしている純三郎を政府として活用しようとしないばかりか、監視をつけて行動を見張っていたようで、このあたりも学者、官僚、軍部を重用し、民間人をばかにする日本人の悪い癖である。他方、戦争時のアメリカは実の民間人をうまく活用して戦争を有利に導いた。

 近衛文隆は、結局11年間の抑留されたあげく、モスクワ郊外の収容所で病死する。私の父もかってソ連国境の黒龍江沿いで測量部隊の中尉として勤務し、終戦後はモスクワ南部の捕虜収容所に入った。当時は歯科軍医は東京高等歯科医学校の卒業者のみで、私立を出た歯科医はすべて一般兵として招集された。父も繰り上げ卒業して、学徒として中野学校や士官学校で教育を受け、満州に行った。戦局の悪化に伴い、多くの戦友は南方戦線にかり出されたが、長男ということで中国に残った。ただソビエトの捕虜生活も満更ではなく、歯科医という特技を生かし、麻酔なしで抜歯をたくさんしたお陰で、戦後抜歯には自信がついたと言っていたし、余分に食料も与えられたようだ。幸い、2,3年の抑留後、健康な体で帰国できたが、シベリアなどの抑留組は悲惨だったようだ。モスクワ南方の収容所はドイツやイタリア兵もたくさんいたようで、対応も違っていたのかもしれない。黒海方面まで脱獄した強者をいたようだ。

写真は良政、純三郎が学んだ東亜同文書院の創立者の近衛篤麿である。

2008年7月13日日曜日

a-dec 500 6



このブログは書き込み禁止をしているのですが、直接医院あてにメールをいただくことがあります。それを見ると。かなり色々な分野の方が見ているようです。当初は患者さん用に矯正治療の概略を多少くわしく説明するつもりで書いていましたが、次第に自分の興味があることをとりとめもなく書き込むようになりました。ある意味、ブログらしくなったのかもしれません。だいたい1テーマ、20分くらいで書きますのでかなりスピードは早いと思います。今回は歯科関係向けの話です。

新しい歯科用ユニットを購入してだいたい6か月たち、エーデントのひとが定期検査に来てくれました。ついでにこのユニットの問い合わせはどうかと聞くと、少しは問い合わせが増えたようで、多少ともこのブログも役立っているかと思いました。決して宣伝料をもらっているわけではないので、ありのまま書いています。

6か月に2度ほどライトの電球が切れました。通常、1,2年ほどはもつもので、聞くと、ドイツのメーカのある期間作った電球に不良品があり、世界中からクレームが来たとのことです。今は違うメーカに変えたとのことでした。それ以外にはとくに故障もなく、問題ありません。

このユニットを使ってみての一番の利点はフレキシビティーが高い点です。バキューム、シリンジ、エンジンやタービンなどの差し込み口が自由に動くほか、テーブルも空気圧で30cmほど上下できます。国産の多くのユニットは(この形式では)本体とテーブルがバネで動くようになっているため、あまり重いものはテーブルにおけません。A-decのユニットはボタンを押し、空気圧で上下の高さを決めて固定するためひじを置けるくらいがっちりしています。また左ききのひとも簡単に配置を変えられるようです。最近では歯科医と助手の4ハンド治療が一般的ですが、アメリカでは助手なしのスタイルも多く(「ニモ」に出ていた歯科医もそうでした)、一人で治療する2ハンドにも便利な構造になっています。すなわち9時あるいは12時のポジションでも十分に2ハンドで治療できます。

モニターもかなり自由に動かすことができるため横になった患者さんの視線にモニターを位置づけることができます。診療中にビデオなどを流すにはいいですし、口腔内カメラの画像を見せるのにも適しています。

一方、失敗した点は、シャープのモニターの画像が悪く(マルチメディアモニター)、一昔前の性能です。またモニターからコンピュータのケーブルが邪魔でかっこ悪い点です。これから開業するひとは、このケーブルの処理を考えた方がよいかもしれません。

新しいせいもかなりあるかと思いますが、子供も大人もこのユニットに座るのを希望します。ある腰痛の患者さんは、こんな楽は診療台は初めてだ、他の医院もこれにすればという感想をいただきました。うちでは年配の患者さんはほとんどいませんが、多い医院では喜ばれると思います。

値段は国産に比べて割高ですが(実際はそれほどではありませんが)、東京など都会で、一日10人くらいの自費中心の診療室で、ユニット数も1,2台のところに向いているように思えます。やりようによっては完全滅菌体制も可能ですし、すべての給水をボトル給水できます。またすわりごこちの良さは安心感にもつながるもので、そうでなくても怖い歯科治療を和らげる効果はあると思います。

エーデントにもっと宣伝したらといったところ、今度、仙台で行われるデンタルショーの出すようですので、興味のあるひとは一度その座り心地を体験されたらよいでしょう。

2008年7月11日金曜日

山田兄弟11




東京のTさんからお借りした興亜先覚山田良政先生恵州起義殉難100周年記念出版「日中提携してアジアを興す 第1集 孫文革命の成敗と日本」(志学会 2000)に、文化庁初代長官で小説家、今日出海の文がのっていたので一部引用する。

孫逸仙を見た  「隻眼法楽帖」中央公論社 昭和56年

 母の子供時代の学校友だちで、片山おなりさんという人があった。明治2年生まれの母の子供時代にはまだ小学校はなかったから、寺子屋やみたいなものだっただろうか。それとも、母は家出してアメリカ人(若い女性二人)が函館で日本の女子教育をしようと、親の遺産を持ち、はるばる日本に来て女学校を経営するという噂を伝え聞いて、雪の夜、橇に乗り、青森から舟で海峡を渡る冒険を冒して遺愛女学校へ入学したのだ。その時の少ない同級生かも知れない。
 この片山のおばさんは結婚して大阪に住んでいたから、時々神戸の私の家に遊びに来て、時には泊まって昔話をして行くことがあった。男みたいにさばさばして、元気のいいひとだった。また極く稀におなりさんの妹という人も来て一緒に泊まって行ったことがあった。
 この人を山田先生と家では呼んでいた。姉さんとは異なり、山田先生はひどく若く、美しく、口数は少ないが、優しく、いつもにこにこし、私は大好きだった。何故山田先生というのか、これは函館で、遺愛女学校の付属幼稚園だったと思うが、そこの先生をしていたし、兄(今東光)がその幼稚園に通い、山田先生が担任の先生だったからだ。
 山田先生は一度お嫁に行ったことがあるのだが、それは津軽藩士で山田良政というひとだ。この人は血の気の多い青年だったらしく、既にシナに行っていたことがあり、将来はシナで暮らすという話しだった。それを承知で、結婚したのだから、山田先生は優しい人のみ思っていたのに、内心はなかなか情熱を秘めていた当時にしては珍しい女性だったと思われる。
 略
 半年間ながら山田先生は正式の妻として夫にかしずき、その後は幼稚園の先生をして生涯を終えた。早熟な兄の東光は自分の初恋は幼稚園の時だったとよく書いているが、このはかない子供の心に美しい山田先生のことが焼き付いていたと思う。母も山田先生のことを立派な人として、妹もように可愛がったいたから、その人の夫だった山田良政の師匠孫逸仙に路上で拝むようにお辞儀をしたのも、いろいろ感慨があってのことだったろう。


今日出海が小学校に入る前のころ、自宅近くの中華会館で孫文を一瞬みた思い出をここで語っている。ここに登場する山田先生とは山田兄弟7で紹介した山田とし子(敏子)のことである。とし子は藤崎教会の初期の賛同者で医者の藤田奚疑の三人姉妹の長女であり、片山おなりさんは妹か、あるいは親類であったのであろう。今日出海の勘違いであろう。明治31年に入籍したが、良政の生死もわからぬまま、弘前女学校に3年ほど勤め、明治37,8年に函館の遺愛女学院に転じた。今東光は明治31年生まれであるから小学校に入る前に赴任してきたとし子に会い、初恋をしたのであろう。とし子は明治9年生まれであるから28,9歳であった。
今日出海は1903年(明治36年)生まれであることから、孫文が清国政府の横やりからわずか2週間のみ日本滞在が許された1910年の出来事であろう。その後中国に行き、1911年に辛亥革命が始まった。

今家に出入りしていたころは、とし子は32,3歳で、日出海がいうほど若いとは思わないが、職場では子供たちに囲まれそれなりに幸せな生涯であったのであろう。

とし子は明治20年、わずか11歳で父の教育方針で函館の遺愛女学校にやられるが、今東光、日出海の母綾は明治元年生まれで、遺愛女学校が創立された明治15年から18年ころの早い時期に弘前から函館に行き、学んだのであろう。本多庸一のキリスト教への熱情が弘前で広がっていたことがわかる。

2008年7月6日日曜日

一戸兵衛 6


一戸は乃木希典大将亡き後、「今乃木」と呼ばれ、その高潔な人柄から、除隊後も学習院院長、明治神宮宮司、在郷軍人会会長などを歴任した。よほど人柄が愛されたのであろう。乃木と一戸は互いに尊敬しあい、よく漢詩を二人で批評しあっていたという。名将立見尚文中将や一戸を見ると、それぞれ叩き上げで指揮官となり、小隊、中隊、大隊、連隊の立場で多くの戦闘経験を積んできた。後の陸軍幼年学校ー士官学校ー陸軍大学校のエリートが兵隊を数とみ、人命を軽視した作戦をとったのとは対照的であり、これが太平戦争の敗因のひとつと考えられる。日本軍は下士官は優秀だが、将校以上は愚かであると言われたのはこういった教育制度にも起因している。

一戸はいくさ上手と言われた。そのひとつに203高地奪取の折、最も堅固な東鶏冠山北堡塁攻撃の際、副官が狙撃されてもなかなか動かなかった。待つこと1時間そこに立ち続け、大島師団長が攻撃を催促にきても「無謀な猪突は兵を損ずるばかりだ。そう急がなくとも、時がくれば攻撃する」といい、それからさらに30分してから突撃の機会を待って、攻撃した。冷静な判断と戦闘の経験から来た感覚であろう。日露戦争中の一戸の副官林鉄十郎大尉は後に大将、首相になったが、その時の外務大臣佐藤尚武は一戸の東奥義塾時代の同級生佐藤愛麿の息子(養子)である。

あるブログの中に一戸が弘前に凱旋した折のエピソードが書かれている。

彼が、故郷の弘前へ大将として里帰りした時の事です。一戸大将の乗った汽車が弘前駅に到着した時、駅には弘前中の人間が集まって来ていました。弘前市民がなんと言って閣下を出迎えたか。彼らは口々にこういって閣下をクサしました。(クサす=方言:嘲る、侮る、馬鹿にする、辱める等の意)
「わ(=方言:我)、いじのへばわらしのころ、ぶっただいだ事ある。いじのへばびーびー泣いでなぁ」だの、「いじのへばむがし、寝小便たれででなぁ、おがさ(=方言:母親)に尻ぶっただかれでびーびー泣いでのぅ」やら、何歳まで青っ洟たらしていた、だの、もうどうでも良いことを有る事無い事大声で喚き合っていたそうです。これを汽車の窓越しに聞いていた一戸大将は、あまりの恥辱に真っ赤になって、駅の裏から出て行ったそうです。それ以来、一戸大将は里帰りしなくなったとか。

有名な太宰の一戸の話と一致するが、彼の人格からは、こういったことから帰省しなかったことはありえない。軍人として各地に赴任したため、故郷の弘前になかなか帰れなかったのが真相であろう。あるひといわく、津軽は冬が長く、家の中でみんながおもしろがることといったら、ひとの悪口しかない。確かに津軽の銅像は殿様と相撲取りと言われるように、実際に津軽為信と若乃花の銅像しかない。隣の岩手県とはえらい違いで、あまり偉人を偉人として扱わない雰囲気がある。ひとつは功成り上げたひとは東京に住むことが多く、地元に帰らなかったせいかもしれない。

一戸には男の子がおらず、子供は長女の久邇子だけである。久邇子は養子を迎え、夫一戸寛との間にできた百合子は後に陸軍武官の情報将校小野寺信少将の妻となり、夫の日本の終戦工作を支えた。その著「バルト海のほとりにて」(小野寺百合子著、共同出版社)は以前、山田純三郎が日支和平工作に関連しているかと読んだことがある。興味深い本で、一戸の妻貞の軍人の妻たる教育が孫にも十分に伝わっている。

一戸兵衛 5


近くの本屋をのぞいていると、「北の鷹ー学習院長一戸兵衛大将の生涯」(佐野正時著 光人社)があった。以前私立図書館でも見かけた本だが、奥付をみると1992年発行となっており、16年も前の本を新刊として売っていた。

この本の中で面白かったのは、一戸が東奥義塾を卒業後、兵隊になろうと思い、弘前から東京へ徒歩でやってきて、明治7年に陸軍の臨時将校募集の試験を受けるくだりがある。そこで、試験官から「文章規範についてどうか」と聞かれ、「わかりません」、「十八史略はどうか」、「わかりません」、「日本外史はどうか」、「申し訳ありません」、「おまえは何を聞いてもわからぬ一点張りで、何のためにここにきたのだ」と問われ、「自分は立派な将校になりたくてきたのであり、軍にとって必要不可欠なものは、一にその人物、二にその知識であり、この一戸の人間を試験してほしい」と請願したところ、それならお前の好きな詩文を書いてみよということになり、自作の漢文を披露すると、試験官はその詩に感嘆して、その場で入学を許可されたという。

軍の入学試験が漢文の素養で決まるというのはいかにも明治初期のあらわれであろうが、面接で人物をみて、その場で決めるというやり方もすごいところである。一戸は、その後東京陸軍戸山学校生徒になったが、漢学は群を抜いていたという。おそらく稽古館および東奥義塾での修練の結果であろう。

東奥義塾は、明治5年に創立された学校で、おそらく慶応以外に福沢諭吉から唯一義塾の名前を使う許可を得た学校であろう。創立者の基地九郎も一時、慶応義塾に在籍しており、また創立メンバーの吉川泰次郎や小幡貞二郎ら慶応義塾の優秀な講師を教員として招くほか、学校制度も慶応義塾を模範にした。漢学部、英学部、小学部、小学科女子部、中学科、法学専門科、幼年科などがあったようだ。ちょうど慶応義塾の幼稚舎や普通部に相当するシステムである。珍田や佐藤愛麿らは英学部で、一戸は漢学部であったのであろうか。漢学の講師の一人で、初代頭取教授(塾長)つとめた兼松石居という人物がいる。非常に厳格で優れた漢学者であり、多くの門弟を抱えた。上の試験のやり取りを見ていると、多くの漢書を読むというよりは基礎をみっちり叩き込み、漢詩や漢文の作文を主とした教育法がなされていたのであろうか。また学問への真摯な姿勢も教えられ、生涯一戸は本を読み、学習をたやさなかった(同じ本を3回読むようにしていたようだ)。

明治5年当時、慶応義塾は私学では日本の最高峰であり、それを模した、さらには英語教育ではそれ以上の学校を日本の北の端に作ったことはある意味奇跡であろう。現在、義塾と名のつく学校は高知の明徳義塾と盛岡の江南義塾盛岡高校があるが、どちらも戦後できた高校で、慶応義塾とは関係ない。福沢諭吉の義塾の流れからすれば、直系を慶応幼稚舎や慶応義塾普通部とすると、東奥義塾はその傍流とみなすことができ、東奥義塾ももっと誇りに思ってもいいのではないだろうか。