2019年4月25日木曜日

インターネット不通 顛末



 先月のことだが、診療所のインターネットが突如、繋がらなくなった。前日、雪が降ったせいかと思ったが、まずコンピューターの問題かと思い、他のIphone, Ipadあるいはウィンドーズのコンピューターでも接続させてみた。無線電波の受信は問題ないが、いずれの機種でも繋がらないか、極めて遅い。これはコンピューター側の問題ではなく、ルーター側の問題と判断した。ルーターには3種類あり、まず川上には光回線が直接入っている灰色の箱のようなものがあり、3つのランプがついている。次にそこからヤフーのルーターに接続され、そしてそこからバッファローの無線ルーターに接続されている。

 まずバッファローの無線ルーターは、同じ機種をデジタルX線撮影用のプリンターに使っているので、取り替えて使ってみたが、変化はない。無線ルーターにはどうも問題がないようだ。次にヤフーのルーターが怪しいので、ヤフーに連絡してみた。何か機械音声で案内された挙句、数日後に間違って自宅用のADSL用の新しいルーターが送られてきた。送られた機種が光用でなかったので、もう一度、連絡し、今度は人間のオペレーターが出て、各種のリセットの方法を聞いた。すると少し通信速度が改善したが、それでもヤフーのホームページが出るまでに30秒以上かかる。速度計測すると通常の光通信の1/100にスピードしか出ていない。そこで以前にもお世話になったコンピューター修理屋さんに来てもらい調査してもらった。同じようにコンピューター、無線ルーター、ヤフールーターと調べたが、問題なく、これは光回線そのものが原因ということになり、その日は終了し、次の日に光の強さを調べる計測器を持ってきた。調べると、光の強度が弱く、やはり光回線自体に問題があることがわかった。

 早速、NTTに業者から連絡してもらったが、回線そのものがおかしいことはないと、なかなか認めない。それでも次の日に調べに来ることになった。ここまで故障して7日間が過ぎている。NTTも同じようにコンピューター、ルーターを調べ、最後にはやはり回線に問題があるということになり、そのまま終了した。2、3時間経って、かなり川上の方で光回線のコネクターの接合不良箇所が見つかったとのことであった。試すと、完全に回復した、NTTの職員に、この光回線に接続していた店、家は何軒くらいあるかと言うと、6軒くらいあるという。クレームはうち以外になかったかと言うと、なかったという。津軽の人はこうした不良があってもあまりNTTに文句を言わないという。ここ7日以上、インターネットがほとんど繋がらない状態でも他の6軒は何ともなかったというのが信じられない。コンピューター修理屋さんへの出張修理費は痛かったが、それでも近所の6軒のインターネット環境が治ってよかったと思っている。

 そういえば、一年前にも自宅のインターネット、電話が繋がらなくなり、調べてもらったところ、家に入る電話線の接触不良が原因であった。家の外の故障は無料であったが、家屋内の故障は有料であったが、こうした故障も時たま起こるので、注意した方が良いかもしれない。それとヤフーやNTTと最初に契約した書類は、きちんと管理していた方が良い。NTTの回線を調べる場合も、契約番号などが必要で、これを元に回線がつながっているか調べる。有線の方がネットでは安定するというが、こうした回線不良が起こると原因特定が難しく、むしろSoftbank Airなどの無線の方がいいのかもしれない。

 それにしてもこうしたネット関係の会社は、申し込みは簡単であるが、故障した場合の扱いはひどく面倒で、肝心の解決まで、なかなかたどり着けず、また相応の知識が必要となる。今回のインターネット不通でも近所の6軒くらいがネットを使えなくなったが、おそらくその解決のすべを知らないため、そのまま放置していたのだろう。確かにインターネットが使えなくても、スマホでほぼ困らないため、故障原因を特定して解決しよう、ましては費用の高いコンピューター修理屋さんを呼ぶ気が起こらなかったのだろう。そうした意味では、コンピューターを中心としたインターネット環境、光通信などは今後、5Gなどの高速移動通信システムが開始されれば、電話回線同様になくなる可能性がある。もともと電話回線、ADSL、光回線などは、携帯電話でのスピードが遅いために使われてきたが、5Gなど速度が変わらなくなれば、スマホと光回線という二重の契約をする必要はなくなり、将来的にはスマホの5G一本になるように思える。最初は通信制限があるだろうが、基地局の設置が多くなれば、制限も緩和されるだろう。有線から完全に無線の世界に突入することで、世界はますますボーダレス社会になるのだろう。基地局さえあれば、世界中どこでも光回線以上の速度でインターネットが利用できる、これは移動通信システムの漸進的に進歩であるが、それでも固定有線を超えるということは革命的な出来事だと思う。

2019年4月24日水曜日

デイパックの誕生

日本最初のデイパック? タウチェ

シェラデザインズのデイパック(復刻)


 今では若者からお年寄りまで大人気なのがデイパックで、色々なものが入れられ、両手が使えるため、非常に便利である。背負式のかご自体は古くからあり、日本でも竹やアケビを使った背負いカゴは昔からあったし、軍隊では両手で銃を使うため、背嚢が明治時代から使われてきた。一方、登山についてはイギリスやドイツでは布製のリュックが発明され、明治時代に日本にも導入されて登山用として使われるようになった。さらに学習院では小学生のために軍隊の背嚢を改良してランドセルが用いられるようになり、昭和30年頃から次第に多くに小学校でランドセルが使われるようになった。

 背負式の荷物入れの系統は、軍隊の背嚢にルーツを持つものと、登山用のリュックにルートを持つものに分かれる。ランドセルは軍隊の背嚢にルーツを持つ。私が子供の頃は中学生、高校生は重い革製の鞄であったが、家内に聞くと昭和50年頃には弘前市内の中学校はリュック式の通学カバンであったという。ナイロン素材に学校のマークと文字が入っていた。このルーツを調べると、京都のマルヤスというメーカーが小学生の通学カバンとして「ランリュック」というナイロン製の軽いランドセル兼リュックサックを昭和43年頃に作られた。その後、このランリュックを採用する学校も増えたというが、おそらく雪で滑りやすい道を歩くため、こうした背負式の通学カバンが雪国、弘前の中学校でも使われるようになったのだろう。ヨーロッパでは、横長の手提げカバンを背中に背負うようなタイプの通学カバンが使われてり、ボーイスカウトや少年団などで登山用のリュックが使われた。

 現在のデイパックは、おそらくは1950年頃からのフレーム式のバックパックから生まれたものである。フレーム状のバックパック形式のリュックはインディアンらも用いてきたが、登山ブームが起こるに連れて、アメリカではヨーロッパと違うアルミのフレームを背中に背負い、そのフレームにいろんなタイプの荷物入れをつけるスタイルができた。このスタイルはその後、登山には使われなくなったが、若者のヒッピー文化の共にバックパッカーと呼ばれる旅行者を生む出すことになった。バックパックの中にストーブからシェラフ、食料などをすべて詰め、世界中のあちこちを旅する、そうした生き方が流行った。日本でもその一種として大きなリュックを背負い、北海道のSLを見に行き。写真を撮る集団が現れた。

 一方、アメリカではこのバックパック文化から、まず1970年代にケルティーという会社が初めてのデイパックを作った。当初は、一日の登山用のものであったが、次第に街用のバッグとして活用されるようになった。同じ頃にジャンスポーツも小型のリュックを発売し、これは小・中学生の通学カバンに使われようになった。こうした両手を自由に使えるバッグの誕生は瞬く間に若者を中心に使われるようになった。その後、シェラデザインズの二室式のデイパックがでたり、日本でも国産のタウチェというブランドのものが作られた。私が1975年頃に買ったのはタウチェの赤のデイパックで、仙台の登山シップで買った。

 当時、私は創刊されたばかりの雑誌ポパイにすっかりハマり、自転車は仙台の自転車にあった型遅れのクロモリのロードバイク、ジーバンはリーバイスの501にカンタベリーのラガーシャツ、シェラデザインのダウンベスト、ノースフェイスの60/40パーカーに、靴はアディダスのスタンスミスという格好であった。ここに登山ショップで唯一見つけたタウチェの赤のデイパックに教科書やサッカーの用具を入れて持ち歩いた。こうした格好で信号待ちをしていると、よくおばさんからどちらの山に行かれるのですかと言われたり、その後三年ほどすると、衛生士をしていた家内の後輩からは、日系二世と間違われたりした。

 このころで買わなくてよかったのは、盛んにポパイで宣伝していたトニーラマのウェスタンブーツで、神戸の専門店まで試着に行ったが、あまりの履くのの大変さに流石に購入を諦めた。多分ほとんど使わなかっただろう。

 ロードバイクは一時かなりのめり込み、上はパールイズミのイタリアンブルーのジャージとパンツ、当時は固定ペダルはなく、ストラップ式のもので靴も底が木でできていた。休みになると仙台—松島間をよく走った。その後、一番町の喫茶店モーツアルトに行くのが定番であったが、今考えるとお恥ずかしい。

 デイパックは、1970年以降、非常に進歩して普及していったが、世界的にみて、日本のランドセル、および京都のランリュックは登山、軍隊以外で使われた早い例であったと思う。

2019年4月18日木曜日

年配者向けのプレゼント(冬向け)

パタゴニア、キャプリーンシリーズ、右上、ライトウェイト
左下ミッドウェイと、右下がサーマルウエイト

ニューバランスの990と960
価格の差以上に性能差がある、もちろん990>960

サーマル山用ボトル、500mlと900ml, スノーピークのチタンカップ

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 ようやく長い津軽の冬も終わり、暖かい日が続くようになった。何しろ津軽の冬は長い。だいたい12月から翌年の3月頃までが真冬で、気温も氷点下となる。周りは雪に覆われた白い世界で、道は雪道で、それ用の靴でないと歩けない。当然、衣服もそれ相当の重装備となる。以前は、若者はダウン、年配の方は、ウールのコートを着ていた。ところがここ数年は、ほぼ全ての老人はナイロンシェルの軽いダウンコートを着ている。その普及ぶりはすごい。

 私がダウンパーカーを初めて着たのは昭和50年頃で、当時は、仙台でもダウンパーカーは登山ショップでしか売っていなかった。山に登るためのものであった。フェニックスのナイロンシェルの赤のダウンパーカーを最初に買った。その後、ノースフェイスの60/40のパーカーと下にはシェラデザインズのダウンベストというコンビが長かった。これは全てポパイという雑誌の影響であった。その後、鹿児島に行くことになり、そこではダウンの世話になることはなかったが、また青森に来ることになり、まず買ったのがダウンパーカーである。LLビーン最強のMaine Wardenパーカーというもので、LLビーンの衣服の中では価格が高く、フラッグシップに当たる商品である。これは重宝して、その後、十年くらい使い、今でもジッパーが壊れているが使っている。その後、このWardenパーカーの二代目を買ったが、これは重くて、今はエディバウアーのカラコルムパーカーとエベレストパーカーを使っている。

 その下には、今年はずっとパタゴニアのR2R3を着た。R2は黒と赤、R3は青のも持っていて、最初の赤のR2は買って十年以上なるが、全くヘタれていない。すごい製品である。さらにその下には、以前はLLビーンのタートルネックのコットンシャツを着ていたが、今年はこれもパタゴニアとし、ベースレイヤーとして、キャプリーンサーマルウェイト、キャプリーンミッドウェイト、そしてR1を選んだ。どれもジップネックのものにした。サーマルウェイトとR1Lサイズを、ミッドウェイトはMサイズにしたが、ミッドウェイトは私にはやや小さく、またR1は丈が長すぎた。さらにR1はベースレイヤーとしては厚すぎる。個人的にはサーマルウェイトが最もぴったりして気持ちが良い。パンツはLLビーンの裏布付きのチノパンで過ごしたが、グラミチのクライミングパンツも楽でよい。

 靴については、ビーンーブーツもよく履いたが、メインはKeenSummit country IIIであった。ただいずれん靴も履くのが面倒なので、1月からの2ヶ月からはコロンビアのスノーブーツを好んで履いた。この靴は、靴性能としてはあまりパットしないが、それでも履きやすさで気に入った。朝出かけるときにいちいち、靴紐を結び直すのは面倒である。キーンのウィンターポートというブーツも非常にいい靴だが、私には足入れが地獄で、家内にあげた。

 かって冬になるとペンドルトンのウールシャツやLLビーンのフランネルシャルとセーターというコンビも多かったが、ここ二年ほど、こうしたシャツやセーターを着ることはほとんどない。着心地が悪く、重く感じてしまうからである。その点、アウトドアの衣料は暖かいし、軽くて重宝している。年配の方に最も勧められる冬用の衣料はパタゴニアのR2で、最新版は古いモデルの戻り、余裕のあるシルエットになっている。96歳になる母も重宝していて、冬の間、ずっと使っていた。何しろ軽くて暖かく、楽なのである。これにつけ加えるとすれば、これもパタゴニアのものになるが、サーマルウェイトが良い。いずれかなり高価であるが、私の場合は、この冬、少なくとも50日以上は着たし、これから10年間は使えるので、それを考えれば高くはない。

 老人向けの衣料を考える時、山用のものを選ぶのは、昔は山に登る人が使っていたダウンジャケットやデイパックが、今や老人の必需品になっているのを見ても、十分に納得できる。NewBalance990もそうだが、若者向けの商品の中にも十分に老人が使って良い商品がある。父母に何かプレゼントする場合の候補として次のようなものが勧められる。

老人向けのプレゼント

1.     パタゴニア R2
軽くて、丈夫で、暖かい。
2.     パタゴニア サーマルウェイト
軽くて、動きやすい。さらに消臭で、洗濯乾燥も早い。
3.     NewBalance 990
軽くて、歩きやすく、またサイズが豊富で幅もD, EE, Eの3種類があり、幅広の年配の方には4Eが魅力的である。ベンクロの577も良いが少し重い。
4.     サーモス山専用ボトル(500ml
母の場合、朝、好きな阿波番茶を入れて、夜まで暖かく飲めて、重宝している。私の場合は、スタバ、グランデ(470ml, 360円)を入れてもらい、それを飲んでいる。山にはいかない。

2019年4月12日金曜日

顎変形症患者に対する考えの違い



 アゴの前後、上下、左右のズレがある場合、診断名としては骨格性という言葉がつきます。例えば、噛み合わせが逆の反対咬合という不正咬合でも、上の歯が中に入り、下の歯が前に出ている歯性の反対咬合と、上アゴが小さい、逆に下アゴが大きい、骨格性反対咬合があります。同様に上顎前突や開咬などにも骨格性のものがあります。また顔の正面から見て、下アゴが左右にズレている、あるいは上下のアゴが斜めになっている顔面非対象の症例もこれに入ります。

 こうした上下のアゴに問題のある骨格性不正咬合の治療としては、アゴのズレはそのままにしておいて、骨の上に乗っている歯の移動により噛み合わせを改善する代償的改善法と、手術によってアゴそのものを移動する外科的矯正治療方があります。もちろんアゴのズレの程度により代償的改善法にするか、外科的改善法にするかが決まるのですが、かなり多くのボーダラインケースがあります。

 このボーダラインケースの取り扱いが矯正歯科医により異なります。これは教育を受けた大学あるいは先生によって違うのですが、マルチブラケット装置による歯の移動を主体とする先生では、どちらかというと手術ができるだけ避けようと考えます。例えば、骨格性反対咬合の場合でも、アゴのズレが相当大きな場合以外は、一般的な矯正治療のみを考えます。よほどアゴのズレが大きくなければ、手術をしないのです。一方、アゴのズレがあり、歯の移動ではかなり無理がかかると考え、すぐに手術を勧める先生もいます。両者の考えは矯正歯科医でもかなり違い、学会報告でも、手術が嫌いな先生がアゴのズレがひどいケースを何とか矯正治療だけで治してきます。自信満々で学会に出しますが、手術の好きな先生は必ず、“なぜこうしたケースで手術を併用しないのですか”と質問します。この場合の答えは決まって“患者さんが手術を希望されなかったので、歯の移動で治しました”と答えますが、実際に転医してきた患者さんに聞くと、こうした矯正歯科医院では手術の説明はないようです。

 確かに手術によるデミリット、顎関節症、知覚麻痺、全身麻酔による重篤な障害などを強調すれば、誰も手術を希望する人はいません。一方、成人患者の多くは歯並びの改善だけでなく、顔貌の改善を希望している人も多く、たとえ歯の移動により噛み合わせがある程度改善されても、顔貌が改善されないと満足しないことが多いようです。また手術が嫌いな先生は、歯の移動だけで治らない重篤な症例でも、これはおかしなことですが、アゴの移動をできるだけ少なくしようとします。通常、骨格性反対咬合に場合で言えば、補償作用という力がかかり、上の前歯が前に、逆に下の前歯が中に倒れます。そのため、手術の準備として、多くのケースでは上の前歯を中に、下の前歯を外に動かす必要があり、そのために上の小臼歯を抜くことが多くなります。手術が好きな先生の場合は、理想的な上下関係になるようにアゴを動かした時にしっかりと噛むように術前矯正を行いますが、手術が嫌いな先生は、歯の模型から理想的な歯並びができるように手術します。少しわかりにくいと思いますが、手術の嫌いな先生は、模型をとり、下アゴを動かし、咬む位置まで下アゴを下げるという考え方で、手術の好きな先生はセフォロ写真から決めた移動量、例えば10mm,下げるとすれば、その位置で咬むように術前矯正を行います。そのため、後者に比べて前者では移動量が少なくなり、手術後でも元のイメージが残ります。これも学会で突かれると、“患者のセルフイメージを大切にした”と答えます。個人的には患者さんが顔貌の改善を強く望む場合は、できるだけ移動量を多くしたいと考えますが、手術の嫌いな咬合派は、大臼歯関係はI級関係が理想であると主張し、上の小臼歯のみの抜歯を嫌います。

2019年4月7日日曜日

戦後最大の偽書事件 「東日流外三郡誌」 文庫版



 戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」(斉藤光政著、集英社文庫)を読んだ。五所川原市の和田氏による偽書を扱った本で、内容については、他の本、雑誌、新聞で知っていたが、こうして直接の当事者から時系列的に事件の経過を書かれると、あたかも推理小説のように面白い。何より文章がわかりやすく、さすが新聞記者だと思った。自分でも文章を書いているが、地名などの固有名詞の説明は面倒なので、つい省略していましがちだが、本書では、青森のことを知らない読者にもはっきりわかるような説明をつけていて、非常に丁寧な文章運びである。小説家の文体は、1の事象を想像力により5にするものだが、本書のような新聞記者の文体は1の事象をわかりやく2にする文体である。あまり長過ぎても紙面の無駄にあるが、そうかといって短いとわかりにくくなる。

 以前、このブログでも板柳町誌に載っていた板柳のルイ一族のことを書いた(2016.3.10)。これは板柳で果樹園を営む松山家に残る言い伝えで、自分の先祖はヨーロッパの百年戦争の末期にフランス王族、ルイ家が没落して、その子孫が津軽に住み着いたというのだ。そのため、今でも女の子が生まれる先祖のジャンヌダルクにあやかりエリ、ミル、リセ、レス、ミレなどフランス語にあやかった名をつけたという。地元には元県会議員が中心となってルイ一族亡命の遺跡を守る会が組織されているという。これは1977年の町誌に載っている話で、その後、全くそうした話は聞かないので、この会もすでになくなっていると思うが、本書でも紹介されているが南郷村のキリストの墓など、こうした不思議な話は青森県に多い。

 どうしてこうした偽書が現れるか、不思議なことであるが、世の中には虚言癖を持つ人がいて、しゃべるだけならまだしも、本にする人がいるからである。もちろん私のような自費出版する場合は、誰も内容をチェックする人が多いので、偽書は多いが、正式な出版会社が発行するとなると、こうした会社にも偽書の責任が出てくる。これも以前にこのブログで書いたが、「跳べ 世界へーエアラインから国連、国際NGOへー」(佐藤真由美著、解放出版社)もかなり嘘の多い本で、戦前、母が東京帝国大学医学部を卒業して、軍医となり、戦後は東ドイツ、北京大学の教官となったなど、普通に考えれば全くの嘘だとわかることが多い(戦前、東京帝国大学医学部は女性を受け入れていない)が、女性セブンなどの雑誌や毎日新聞にも取り上げられた。記者から編集長まで、誰もこうした明らかな嘘が見抜けないのに驚いた。さらに著者の佐藤真由美さんが板柳町の出身なので地元の東奥日報でもインタビューしようと思い、そのことで私にも連絡がきたが、怪しいのでやめた方が良いと助言した。
 
 時々、東奥日報でも津軽の忍者あるいは忍者屋敷という特集記事が出る。青森大学薬学部の清川教授が中心になって、資料の収集や忍者屋敷の保存、観光化などの提案をしているが、肝心の忍者屋敷の真偽については、専門家は口を閉ざしている。私のようなアマチュアが適当なコメントをしているが、どうも歴史の専門家はこうした厄介なことには首を突っ込まないようである。全く「東日流外三郡誌」と同じことが起こっている。この時も弘前大学国史学研究室では、「東日流外三郡誌」のような偽書を研究対象にするのは時間の無駄であり、黙殺こそが学会の常識という。確かに矯正歯科の分野でも、マウスピースのような器具でなんでも治るという馬鹿げた治療法があるが、いちいちこうした治療法に学術的に反論するのも面倒なので黙殺している。多分、忍者屋敷の件に関しても同様な態度をとっているのだろう。

 偽書あるいは嘘のニュースについては、専門家は黙殺するのであれば、それが真実として広まるのは、マスコミにかかってくる。嘘を否定するのは、嘘を言うよりはるかに大変で、また逆に非難されやすい。それでも慰安婦問題における吉田清治の著書(偽書)のような大きな問題となる場合もあるので、マスコミも偽書に対してはきちんと対応しなくてはいけない。

2019年4月4日木曜日

歯科医院のレビュー




 デンターネットはじめ、歯科医院のレビューをするサイトがあります。患者さんの中には、こうしたサイトを参考に、歯科医院を選択する方がいますが、少し注意が必要です。
まず自分の通っていた歯科医院のことをどのような患者さんがサイト上に報告するでしょうか。私も含めて普通の方はわざわざサイトに投稿することはまずありません。特にそこの歯科医院が良いという評価をすることは少ないと思います。仮によほど受けた治療が優れていて満足したとしても、わざわざ投稿するほどのことではないでしょう。逆にひどい治療を受けた場合は、腹がたつので投稿することは当然あるでしょう。つまり良い治療より悪い治療の方が投稿しようと思うものです。ただ一部の人は旅サイトやグルメサイトなどあちこちに評価を投稿する人はいます。一定人数いると思ってもよいと思います。その場合、患者数の多いところが、自動的に投稿が多くなります。患者数が少なくて、投稿件数のみが多いことは、ありえません。何か裏がありそうです。

 私のところにもよくメールや手紙が来ますが、歯科医院の上位検索を請け負う会社があります。こうした会社では、独自のノウハウでグーグルやヤフーなどの検索サイトで上位に来るようにします。その一環として、患者評価のサイトにも色々と投稿するようです。大学生などにバイト代を出して、投稿させていることもあるようです。こうしたことはもちろんよくないことです。医療法の改正により医療広告についてもかなり制限がかかり、自分の病院にこうした口コミを載せるのは禁止されていますが、口コミサイトについては『運営者が内容を改ざん・消去しない』を前提に口コミ掲載を認めています。ただこれについては『医療機関の口コミ情報ランキングサイトについては、広告規制の対象でしょうか』に質問に対して『ランキングサイトを装って、医療機関の口コミ(体験談)等に基づき、医療機関のランキングを付すなど、特定の医療機関を強調している場合は、比較優良広告に該当する可能性があり、広告できません』となっています。ただの口コミだけならいいのですが、ランキングすると違法となるようで、デンターネットなどはランキング形式なのでグレーになるのでしょう。

 友人などを話していると、どこのラーメンがうまい、どこのイタリアンがうまいといったことが話題になります。実際に行くと、たいしたことがない場合も多いのですが、それでも結構美味しいところに当てはまることが多いようです。少なくともまずいところに当たることは少ないようです。同様にどこの病院が良いか、歯科医院がいいかといったことも、判断材料としては役に立ちます。こうしたことを考えると、歯科医院もネット上の口コミサイトの情報よりは、実際にそこで治療を受けた人の口コミの方がより信頼がおけるということです。さらに言えば、食べ物屋ではっきりしていますが、うまくて、安いところで、お客さんが少ないところはありません。今のような口コミがすぐに伝わる時代、美味しくて安いところはすぐにお客さんが集まります。同様に医院、歯科医院でも良いところは患者さんがいっぱいで、なかなか予約が取れません。ただ歯科医院の場合は、食べ物屋とは違い、なかなか行く機会は少ないので、そこそこいい歯科医院でも患者数が少ないところはあります。
 
 私のように父親も歯医者、兄も歯医者という家庭でも、娘が東京にいるのですが、東京のどの先生が良いかと言われれば、もちろん有名な先生の名は知っていますが、保険診療でと言われれば、わかりません。矯正歯科という狭い範囲で、自費診療ということであれば、もちろん勧められるところはありますが、一般診療では難しく、一度、娘の治療で友人の娘に治療をしてもらったのですが、勤務している歯科医院が、保険医療機関でありながら、自費診療しかしないところで、やや不信感がありました。というのは保険医療機関では、保険で治療できる治療を拒否して自費に誘導することは禁止されており、そこの診療所ではう蝕が神経まで進んでいる場合は、顕微鏡による治療をするので自費になるとのことでした。もちろん顕微鏡を使った歯内療法は一部の症例を除いて自費ですが、こうした形で自費に誘導するのは、違法です。相手の親が歯科医とわかっていても、こうした治療を平気で進める歯科医院の経営者に、実際に治療を行なった友人の娘以上に不信感を持ちました。

 同じようなことは、25年前になるので、もう時効ですが、家内が近くの歯科医医院にう蝕の治療で訪れました。当時の国民健康保険証では、旦那の職業はわかりません。歯の根っこ近くの虫歯があります。通常は無理やり、虫歯を削ってレジンを詰めます。ところがここの歯科医院では、その虫歯治療よりは歯並び全体の矯正治療を勧められたようです。私は見てもかなり難しいケースで特に問題がなければそのままにしておきたい症例です。大きな診療所で、数人の歯科医が勤務しており、若手の先生が担当していました。もちろん矯正治療を行う知識も技量もないと思われます。旦那が矯正歯科医ということはバラし、丁寧に断りましたが、本当に良い歯科医院を見つけるのは難しいと思います。

2019年4月1日月曜日

藤田(山田)とし 4


別離の一言・迎えに来るぞ、親達は頼んだぞ・
夫婦の契りを結んで一週間にして、山田良政はその年の十一月上京。其の足でふたたび革命の暗雲乱れ飛ぶ支那に向けて旅立った。別れるときに、『向こうへ行って落ち着いたらきっと迎えに来るぞ。親達のことは頼んだそ』と言い置いて行った。それが永久の別離になろうとは知る由もなかった。
話は傍道に外れるが、明治三十二年と言えば、第一次広東革命に失敗した孫文が、日本にあって未来の秘策を練っていたときである。帰国以来、良政氏がたびたび上京したのも孫文達同士の者と画策するためだった。当時、良政氏は東京市神田区三崎町で梁山泊の様なものを設けていた。舎弟山田純三郎氏がはじめて孫中山の面影に拝したのも、やはり此所だった。
ある日、良政は集まっている青年達に、『今日だけは相撲を取らずに居れ。二時頃、支那の豪い人が来るから〜—』と言った。どんな豪い男が来るのかと思い、純三郎青年はじめ障子に指で穴を開けて覗いてみると額も後頭部も無闇に出っ張っている男の姿が見えた。その男こそ、中国革命の父と言われる孫文であった。
その後、上海で、広東で、孫文と山田良政はじめ日本人志士はしばしば画策した。そして、前に述べた恵州の旗上げとなった。義に勇む東亜の志士は、父母を、妻を故国に残し、上海の宿にある純三郎氏宛の『将来の日本に貢献するようにせよ』との書面をのこしたままついに恵州郊外三多祝の花と散ったのである。とは言え、乱世の常である、ましてや敗軍の跡は惨憺たるもので、山田良政氏の戦死は誰しも知らなかった。故郷に残る妻の敏子さんも、『志成ったらきっと迎えに来るぞ』の夫も一言を信じ、その日を待って義父母の許に仕えていた。その傍ら弘前女学校の教鞭をとった。明治三十三年から三十八年まで、官女は優しい良い先生として生徒達から慕われ、家庭にあっても實子も及ばぬ孝行をつくした。待てど暮らせど夫の消息は杳として分からぬが、基督教の強い信仰に培はれた忍耐心と、彼女の日本婦人としてのはげしい自覚は貧乏揺るぎもしなかった。今日、山田純三郎氏夫人は過ぎ去りし方をふりかえって、『姉さんはまったくお父さんやお母さんの面倒を見ていただくために、お嫁にきていたようなものですわ』と感慨深げに語ったが、敏子さんはその艱難を貫き通したのである。
明治三十八年、弘前女学校から母校の函館遺愛女学校へ転出し、明治四十年の函館大火には彼女の花嫁時代のかずかずの思い出の品を焼いてしまったけれども、夫を待つ貞節の心は巖の如く堅かった。郷当の近親者は彼女の崇高な気持に眼を瞠った。山田良政を知らぬ人達の間では、実の娘とすら思っていた。息子達を支那に送り、永い間便りもないまま老いゆく親の心は淋しかったにちがいない。父の浩藏氏はさすがに旧藩士であり、津軽塗の衰退を慨して同士と共に漆器授産の社を起し、うらぶれてゆく塗師群に更生の活力をあたえたほどの人物だけに、表にこそ弱味を見せなかったが、息子をおもう気持の切なさは嫁の敏子さんにも察しられた。が、敏子さんの蔭日向ない孝養に、老夫婦は淋しい気持を慰められた。山田浩藏氏は大正七年二月二十日、八十二才の高齢で歿した。流行性感冒が蔓延していた頃で、敏子さんは寝食を忘れて看護師した。

三多祝の土  ・貞烈報いられた慰霊祭・
南北に別れた夫山田良政を待って二十年。いつか帰る日があると彼女は待っていた。支那の黎明がくるのを待つ気持と、それは奇しくも結びついていた。その望みがようやく果たされたのは大正九年九月二十九日のことである。しかも、帰ってきたのは、いかにも革命志士にはふさわしく恵州郊外三多祝の土としてであった。
これよりさき孫文は、山田良政氏の功労を多として幕客朱執信を三多祝に遣わし、古老の聞き伝えによせて陣歿の地に遺骨を求めさせたが、その場所が判然しなかったので、已むを得ず四辺の土を拾って持ち帰り、日支の同志と共に東京でその土を祭って追悼会を催したのである。次いで孫文帷幕の要人廖仲は特使として、弘前貞昌寺に来たり、慰霊法要を行った。翌大正十一年の建碑除幕式には、孫文代理として幕客陳仲孚が弘前を訪れ、孫文は建碑記念詞を贈った。陳仲孚氏、汪主席特使として本年ふたたび弘前を訪れたのも、思えば奇しき因縁であった。陳特使は、弘前市主催の歓迎座談会の席上で感慨深く、『ヨーロッパは東洋において優越な態度を執っていました。その悪い政治をあらためさせるために起こったのが、孫文先生でした。支那はヨーロッパ、アメリカから追られている。亜細亜のための亜細亜を建設するという意志は、日本にも同士がありました。すなわち山田良政先生はその最も熱心な志士でした。中国革命は日本で一番』関係が深いのです。こんどこちらをまいり、山田先生の墓前に額づく機会を得たのはまことに欣快に堪えません』と語ったが、汪政権が大東亜共栄圏の一翼として力強い一歩を踏み出したいまこそ、敏子刀自の純潔荘厳な貞節は報いられたと言うべきだろう。弘前の旅館で、刀自は往時を回想してつぎのように語った。『小さい時から引込み思案で、思うことがあっても私には何と申してよいやら分からないのでございます。夫は豪胆な方でした。背丈は普通で、声も高い方ではありませんでしたが、いつもお友達と支那の問題の話に熱中していました。私はまだ若くて、何が何やら分からず過ごしましたが、あんな立派な方はないとそれのみ信じて生きてまいりました』琴瑟相和する折もなく、四十余年はしずかに、さびしく過ぎて行った。敏子刀自は本年六十六才。実家の藤田姓に戻った彼女は、彼女の姪に当たる人が住む芦屋市古屋敷二百十四番地、永井氏方に穏やかな余生を送っている。


藤田(山田)とし 3


前回に続き、読者からお教えいただいた雑誌が、弘前図書館にあった。国会図書館にもないということなので、著作権の問題があるのだが(保護期間70年は過ぎているが)、2回に分けて紹介したい。


月刊東奥 (昭和1611月号、東奥日報社)

中国革命史に秘められた津軽に咲く清浄の花一輪
 たった一週間同棲した夫を待って四十二年 —故山田良政氏未亡人敏子刀自の貞烈感話—

日本の妻の心  ・英霊の陰に崇光な女性の涙・
大東亜共栄圏に呼び声は、国民にとって耳新しい言葉だが、その淵源は今は去ること遠く四十数年の昔、孫文の支那革命に呼応して起った日本人志士の熱血の行動にはじまっている。
アジアをアジア人の手で、と当時の目覚めた日本人青年ししは叫び、欧米の魔手を排除して明朗闊達、独立自往の大東亜を建設線と献身した。孫文はじめ辛亥革命の志士と、これら日本人ししは堅く血盟の誓いをなし、彼等の血を大地の土に染めた。
中にも弘前市出身山田良政氏は、早くより支那民族の覚醒を叫んで大東亜主義の鼓舞につとめ、孫文と肝胆相照らす仲であった。孫の革命の義挙に賛し、孫が広東省恵州に煙火をあげるやたちまちこれに馳せ参じ、恵州郊外三多祝の革命軍に投じて兵を起こした。不幸にも時期熟せず、革命軍は敗北のやむなきにいたったが、山田良政氏は敵の大軍を前に頑強の三多祝を守りつづけ、ついに革命戦の花と散った。時は明治三十三年九月二十九日、齢未だ三十三の若さであった。
かって孫文は『人道の犠牲、興亜の先覚』と氏を讃え、時移り歳変わって四十星霜、孫文の遺志を継ぐ中国国民政府主席王兆銘氏は、日本人志士と因縁深き陳中孚氏を特使として日本へ派し、本年九月三十日鶴見総持寺に於いて『日本同志援助中国革命追念碑』除幕式を行い、盛大を極めたのであった。『外国義士、中国共和のために犠牲となれるもの君を以て首となす』と孫文の語にもある通り、支那革命の日本人同志二百五十名のうち、山田良政氏は殉難者の筆頭である。
超えて秋晴れの十月八日、山田家の菩提寺たる弘前市新寺町貞昌寺に於いて山田良政氏の慰霊法要は厳かに行われた。参列者二百名、大導師赤石寛導師以下衆僧の読経より式ははじまり、故人の潰列を讃えた陳特使の祭文は読み上げられたが、遺族席の故良政氏の舎弟山田純三郎氏夫人の傍に仲睦まじく並んでいる上品な老婦人があった。年の頃は六十の坂を越え、つつましやかに頭を垂れているこの婦人こそは、故山田良政氏夫人敏子刀自で、僅か一週間の結婚生活で夫を大陸に送り、爾来四十二年の永い一生を孤閨を守って貞節を全うしたその人であった。
やがて焼香に移り、山田純三郎氏夫妻につづいて、敏子刀自はうやうやしく霊前に進み出でて合掌した。夫婦の二世の契りとは、かくまで美しいものであろうか。東亜建設の偉大なる犠牲者の陰には、かくも哀しくも崇高なる女性の涙があった。『義姉さん、義姉さん』とやさしく仕える純三郎夫人の傍にしずかな敏子刀自の姿に往年を知る参列の人達は、ひそかにむせび泣いていた。刀自の半生は、涙ぐましい自己犠牲と検診の歴史であった。最愛の妻を故郷に残し、遠い広東省の、地図にも見られないような三多祝に興亜の土と化した志士山田良政氏の壮大な意志と、一生を亡き夫に捧げた日本の妻の心情をおもうと参列の誰しもうたた感動胸に迫るものがあった。

津軽海峡 ・楽しい一週間の結婚生活・
彼女は南郡藤崎町の士族、医師楽天堂藤田奚疑氏の長女として生まれた。『天を楽しんでなんぞ疑わんや』と陶淵明の詩からその雅号を引用したほど、彼女の父は津軽武士の典型であり、豪放磊落な人間であった。そして維新の苦難を敢然と切り抜けた士族らしく、非常に進歩的であったことは、長女の敏子さんを早くよりクリスチャンとして洗礼を受けさせたことにも分かる。
明治二十九年彼女は函館遺愛女学校を卒業した。その後、二年間、宣教師の子供たちの家庭教師として函館に踏み止まった。万事に控え目で、痒いところにも手の届く敏子さんは、子供たちをはじめ周囲の人達に親しまれた。『敏子さんはほんとうにいい人だね。いつまでも居てくれればどんなにいいか分からないけれどーーー』と、周囲の者は言ひ言ひした。『奚疑先生の娘が女学校を卒業してから家庭見習いに函館にいるようだぞ。その娘ならいいお嫁さんになるだろうな』、『おとなしくて、気立てが良くて、おまけに教育がある。あんな娘を嫁に貰う当人はもちろん、親達の仕合せが思いやられる』
そんな噂が、故郷にも高まっていた。藤崎の楽天堂へは、菓子折を携えて月下氷人の役を買って出る人達も多かった。その度に父の奚疑は、あははははと笑い流して来訪の客を追い払った。が、そのなかに同じ津軽藩山田浩蔵の息長政の名を認めると、藤田奚疑は一つ返事で承諾した。山田良政、時に三十一才、東亜同文会の施設に係はる南京同文書院の教授兼幹事をつとめていた。故郷を遠く離れていたが、風の便りにその活躍ぶりは藤崎へも伝えられていた。
幼少より頭脳明敏、覇気に富み、山田の兄さんなら将来どえらい者になるだろうと郷当の評判だった。『これからの日本は支那へも伸びねばなるまい。娘は山田家にやろう。日清戦争を起こしたのは不幸じゃったが、これからは日本と支那が握手するのだ。わしも娘を訪ねて支那へ渡る時もあるだろう』と楽天堂は乗り気になった。すぐさま、函館にいる娘を手許に呼び寄せた。
明治三十一年、当時二十三才の藤田敏子は、新しい生涯への希望に胸を躍らせながら津軽海峡を渡った。縁談はトントン拍子に進んだ。ひとまず家風に合わせねばという双方の心遣いから、弘前市蔵主町に在った山田家へ娘分として入った。そして朝に夕に養父母にまめまめしく仕え、まだ見ぬ夫たる人の帰国を待っていた。
待つ身の辛さというが、まして若い身には一年の歳月は永かった。やがてその翌くる年の七月に夫山田良政は帰ってきた。青春の熱血に燃えるこの若き志士のところへは、ひっきりなしに友人知己が訪れた。敏子さんが良政氏の居間へお茶を運んでゆくと、彼女の夫たるべき人は腕を撫し、熱のこもった語調で『明日の亜細亜』について語っていた。『亜細亜のための亜細亜をつくれ』、『大アジアの共存共栄は、支那民族を自覚させるぞ』、『毛唐共に呑まれてたまるものか?』、『中国人民自由奮闘』、『孫文』、『革命』、これら片言隻句は敏子さんの耳朶を打った。
女学校を卒えたとはいえ、そうしたむずかしいことは男の領分と信じている彼女には、友人知己たちに烈々と説き来り来る良政の理論を理解できなかったが、その真情には胸を衝たれた。剛胆な人だと思った。大事を爲す人、信頼できる方だと思った。敏子さんは、山田家に来た幸福をしみじみと感謝するのであった。やがて二人の結婚式は挙げられた。新郎は、花嫁は二十四才—夢のように過ぎた一週間、東亜の風雲は、楽しかるべき二人の結婚生活のうえに怪しく去来した。