2018年1月26日金曜日

自衛隊の階級名、勲章


岡村大将

 憲法改正問題、とくに第九条の改正論争が盛んになってきている。自衛隊を正式な国軍、軍隊と位置づけることは、自民党、保守派の長年の望みであり、ようやくその論議ができる状況になったことは単純にうれしい。出来るだけ早く、実情と憲法が矛盾しないようになってほしい。

 先日の草津の噴火では、陸上自衛隊所属の陸曹長が部下をかばって、背中に噴石が直撃して死亡した。実に部下思いで、勇気のある行動で、こうした下士官は実際の戦闘においても同じような行為を取れる優秀な兵士であろう。同じように思い出すのは、18年前、1999年のことだが、埼玉県入間基地に着陸しようとする練習機が故障を起こし、墜落による基地周辺住民への被害を避けるために脱出せずに墜落し、機体とともに二名のベテランパイロトが殉死した。どちらも常人にはできない勇敢な行為であるが、こうした英雄に対して、現行の自衛隊では正式な勲章を与えることはできない。防衛記念章というのがあるが、どちらというと防衛庁による表彰に近い。金鵄勲章という武功抜群の軍人に与えられる名誉の勲章が戦前には日本にもあったが、今はこれに匹敵するような勲章はない。

 軍人と勲章は切っても切り離されないもので、武功を勲章により讃えることは、どこの国でもあり、アメリカ軍では名誉勲章、シルバースターなどの勲章があり、それらの勲章をつけることは階級の上下に関わらず勇気のある人として尊敬される。イギリス軍ではヴィクトリア十字章などがあり、軍隊のある国ではすべてこうした軍功勲章がある。日本ではこうした勲章がないため、海外の軍人と会う際に恥ずかしい思いがする。

 ウィキペディアによれば、戦前の金鵄勲章は功一級から功七級まであり、年金がもらえ、明治28年で一級では1500円、二級では1000円、三級では700円、四級では500円、五級では300円、六級では200円、七級では100円であった。夏目漱石が明治28年に松山中学に赴任した時の初任給が80円だったからかなり高額で、七級の年金で現在の30万円程度となる。最初述べた陸上自衛隊の曹長であれば功五級(特進した)、航空自衛隊パイロットはそれぞれ二佐、三佐、旧軍で言えば少佐、中佐なので功四級となる。こうした年金は残された家族にとっては大きな助けとなる.

 自衛隊を憲法改正により国軍にするかは、充分に議論して決めてほしいが、金鵄勲章、旧軍の階級の復活を是非行ってほしい。現在の隊員は、自衛隊の階級がすでに60年以上たつので愛着があるかもしれないし、旧軍との決別の意味があるかもしれないが、階級名も国軍にふさわしいものに変えるべきであろう。こうしたことを言うと、左翼の人々は軍国主義の前触れと騒ぐのは必定で、階級名の変更は必要ないし、勲章もいらないと言うだろう。自衛隊は軍隊ではなく、警備隊であり、軍隊の階級を使えないし、戦争で兵士が死ぬことはないので勲章もない。ところがその後、この警備隊は大きな組織に成長し、今や憲法改正で国軍に昇格しようとしている。そうなれば軍隊でないのだから軍隊の階級とは違う名称ということでつけられた現行の階級名に固守する必要はないし、PLOや訓練などで亡くなる隊員も出ることから勲章が必要となってくる。おかしな名称は階級だけでなく、歩兵部隊を普通科、砲兵隊を特科、工兵を施設科、軽空母を護衛艦といったわけのわからない名称にも現れており、色々な矛盾が噴出している。細かい話だが、一佐は陸上自衛隊では一等陸佐、三佐は三等陸佐の略となるが、一般の人は三佐の方が階級が上のように思うし、階級章も一佐は星三つ、三佐は星一つとなっており、明らかに一佐は大佐、三佐は少佐の方がわかりやすい。また勲章を作る場合も金鵄勲章はあまりに旧軍のイメージが強すぎるという声も当然あり、昨年、ドイツは“勇敢な行為のための栄誉十字章”を制定したが、有名な鉄十字章に似せていて、名誉の点からは歴史のある鉄十字章の方がよかった。失敗であり、日本で勲章を作るなら、歴史があり、年金もつく金鵄勲章がふさわしい。

もはや戦後73年以上、これは明治維新からほぼ太平洋戦争(1942)に期間に匹敵し、もはや過去に引きずられる必要性はない。階級名、組織名の変更、勲章の復活は、現政権でも充分でき、今回の悲しい事故をきっかけに国会でも議論が進むことを期待する。

2018年1月24日水曜日

弘前市の地番



新町 明治六年ころの地番

現在の新町の地番

坂本町


現在の住所は、私の家でいうなら“弘前市坂本町14番地”となるが、これが江戸時代であれば“弘前 坂本丁の広瀬”である。昔は、特に番地などの地番がなくても、社会的にもあるいは生活面でも全く困ることはなかった。明治六年(1873)の地租改正に伴い土地に課税されることとなり、個々の家の所在地をはっきりさせるために、地図上に番号をふった。この番号が後の土地登記、戸籍の作成に活用されることになり、今のような番地となった。最初は家一軒ごとに番地をつけたが、その後、大きな土地が分割されて住むようになると、さらに番地に枝番がつくようになり、一番地1と表現される。また現在では二丁目というような丁“が番地の前につくところもあるが、もともと町”は丁“と表現され、つまり英語でいうところの”Street”の意味である。区画ではなく、道路沿いの家並みが“町”となった。私のところは坂本ストリートで、それに玄関が面しているので、坂本町(丁)となり、そこに交差する上柳ストリートに面する家は上(南)柳町(丁)となる、交差点の家は、その家の玄関がどちらを向いているかで町名はかわる(もともとの大きな家の玄関がどの道に面するかで町名が決まるため、分割されて枝番になった家屋の玄関が南柳町に面しても住所は坂本町になる)。そのため〜丁目〜番地は、ストリートが二重となり少しおかしな表現である。弘前市では、旧市街地はすべて番地だけで、住所に〜丁目がつく土地は、新しく開発された地区あるいは町名が新しくなったところである。こうしたことから弘前では地番を見るだけで、1。旧市街がどうか、2。明治後に土地が分割されたか、を知ることができる。丁目がなく、番地の枝番もなければ明治以降、土地に変化がなかったことを意味する。ただうちの場合も明治以降、分割、統合を繰り返されているため、枝番は3つあるが、住所としてそれを代表して番地を出している。登記上、枝番もない土地は少ないと思う。

それでは番地などの地番は、時代により変わるかというと、これがしょっちゅう変わっているので、昔の人の生誕地が戸籍などでわかっても、今の番地とは違い、ここが生誕地とは断定しにくい。これは地番の付け方に問題があり、基本的には、東南あるいはその町の中心に近いところから番地をつけ始める。弘前の場合は弘前城が中心なので、そこに近い方から一番地とする。道をはさんで二番地、元の道並みにもどって三番地と交互に番地が進んでいくが、連続する場合もある。国有地には地租はかからなかったので番地はなく、無番地となる。また士族町も元々は藩主のもので、明治初期に個人所有になったが、しばらくは無番地であった。ただ後年、土地を分割(分筆)すると枝番になったり、新たな土地には最後の番地の次の番号がつけられたりする。そのため一番地の次が二番地の1、次が二番地の2、その裏の人の住んでいなかった土地が六十六番地になったりする。こうしたことが重なると、全く連続しないでたらめな順番となる。その度、番地の変更が行われ、また最初から番地が直される。例えば、現在の番地と明治六年ころの弘前市新町付近の番地を比較すると、その変化がよくわかる。昔の一番地、二番地は道路でなくなっており、六番地は五番地と一緒になり、十六、二十、二十二番地はこれも一緒になり二十四番地となり、二十五番地以降はすべて一つずつずれている。通常、土地が合わさると(合筆)、番地の若い番号となるが、これも例外が多い。同様に駒越町も四十番地くらいまでは明治六年地籍図と一致しているが、そこからはずれている。一方、西大工町は新町の一部で分断されて、町の一部が飛び地となっているが、番地は飛び地部分からずれており、再開部の番地が明治初期では十七番地であったが、今の番地は二十四番地とずれが大きい。

 住宅地図やGoogle Mapなどに記載されている住居表示と、土地登記上の地番が違うことがある。例えば東京タワーの地番は、東京都港区芝公園4丁目407番地6であるが、住宅表示は東京都港区芝公園4丁目28号と異なる。土地の固定資産税に記載されるものが地番だが、弘前の場合、とくに旧市内では一致することも多い。玄関の位置がどの道に面していたのかで、所属する町名が決まるということを知るだけでも複雑な弘前の土地区画が理解でき、面白い。坂本町の場合、一番地は土手町の隣で、すぐに南瓦ヶ町と西川岸町で寸断され、さらに田代町、北瓦ヶ町、山下町、南柳町で寸断され、3つの固まりに分断されている。番地としては1から16番地までしかないのに3つに分断されており、不合理で、これまで150年間、誰かが町名変更しろと提案しただろうが、頑固に反対した人に敬意を表したい。町には不可思議なことがあった方が面白く、そのひとつが地番であり、その歴史を遡ることで、昔の風景が見えてくる。。


2018年1月17日水曜日

都会の歯科医院


 国民皆保険が施行されたのが昭和38年だが、当初は5割負担で、本人負担なし、家族3割負担となったのは昭和43年ころで、その頃から歯科医院に来院する患者は飛躍的に増えた。それまで歯科治療は基本的には保険が効かず、金がない人は歯が痛くなっても今治水などを塗って痛みを押さえていた。また今では考えられないが、ゴールドの開面金冠と呼ばれるものを前歯につけるのが金持ちも証でもあった。今見ると、こっけいなものであるが、当時は別段、変だとも思わなかった。

 こうした訳で、私が中学校に入るころから、歯科医院だった我が家も急速に潤い、借りていた診療所、二階の狭い家から、近くのところに住居を引っ越すことなった。“パントモ買ってハワイに行こう”のキャッチフレーズでパントモX線撮影装置が売れたのはこの頃で、ほぼ全患者にパントモを撮っていたので、確かに1年程でハワイ観光するほどの収入となった。患者は多く、朝9時に診療所を開けるのだが、8時ころから行列ができるため、早目に診療所の玄関の鍵を開けた。昭和389年ころに歯科用タービンが売り出され、それまで電気エンジンで削っていたものが歯科用タービンの普及で一気に早くなった。それにより一日、十数人しかみられなかった患者数が大幅に見られるようになった。子供も大人も虫歯が多く、朝の9時から夜の10時まで患者が途切れない。

 この頃から、歯科医も増長するようになり、安い保険点数でやっていられない、同じ治療するなら自費でする、保険医を辞退すると言い出した。日本歯科医師会でも保険医総辞退という運動をおこしたり、医科とは歩調を合わせないようになった。昭和50年になると、ポーセレンがかなり普及するようになり、これで歯科医はさらに潤い、医師より歯科医の方が収入の多かった時期でもあった。時計は金無垢のロレックス、車はベンツ、愛人を囲う人もいた。この時期が絶頂期で、その後は、歯科医師数の増加に伴い凋落していく。当時のバブリーな歯科医院は、その後はみごとに凋落している。

 ここ十年ほど東京、大阪など都会を中心に、自費を主体とした歯科医院が増加している。昭和50年頃と違うのは、当時は患者が多くいて、保険でも充分な収入があったが、それ以上の収入を求めたのに対して、現在は保険収入で経営が厳しいため自費診療を行う。廉価の診療費で多数みるという方法がとれないため、高額な自費診療で稼ごうとする。例えば、歯石除去は保険が適用できるが、拡大鏡をつかった場合、自費となり50万円という歯科医院がある。また虫歯を取っていって神経までいったなら、ここからはやはり拡大鏡を使った保存治療となり、その費用に15万円、さらに補綴処置に20万円かかると言う。まあやりたい放題で、私からすれば、こうした歯科医院は医療法に違反しているから、保険診療は一切しない、自費診療だけにすればよいと思うが、初診、検査、抜歯などは保険で、補綴、歯内療法、歯周治療など、おいしいところだけ自費にしている。 

 東京に住む娘のことだが、少し下の歯がでこぼしている。すると親が矯正歯科医と知っていても、平気で若手の素人の歯科医が矯正治療を勧める。それも200万円という。怖いものしらずである。また、私のところで矯正治療を受け、高校卒業後に上京して、大学に行く患者が多いが、何かの事情で都内の歯科医にいくと、すべての金属のインレー、クラウン、充填などは再治療を勧められる。こちらで私が見て、明らかに問題はないと判断した患者でもそうで、“白くて目立たないのにしましょう”と言って全顎の歯科治療を勧められる。


 田舎の、それも矯正専門医がこうしたことを言うのはかなり批判があろうが、東京の歯科医に聞くと、田舎は患者が多く、保険でも収入が多く、経営的に問題ないだろうが、都内では家賃、人件費などがかかり、保険診療では厳しくてやっていけないという。確かにそうだろう。だったら何も都内で開業する必要はなく、群馬、埼玉、茨城など周辺地域を探せば、もっと患者の多いところがあろう。私の場合は、生まれは兵庫県だが、開業に有利な青森県で開業した。商売とはそういうもので、患者数の少ない都内で開業するなら、そうしたことはわかりそうなものである。さらに言うなら、保険医療機関を標榜しながら、自費に誘導するというのは、明らかな医療法違反であり、こうした姑息な手段を取るのなら最初から自費診療だけで診療すればよい。是非、勇気を持って自費診療だけでやってほしいし、患者からすれば、最初から保険は効きませんと言われた方が、治療途中で軟象をとって露髄した瞬間に自費になるよりはいいだろう。父も歯科医、兄も兵庫県で歯科医院を開業していて、私も子供のころから歯科の状況はある程度わかっている。都会でもまじめにやっている歯科医院がほとんどと思われるが、一部の歯科医院の自費誘導が露骨であり、ホワイトニングが特定商取引法に入ったように、矯正歯科など歯科治療(自費)への締め付けも今後、厳しくなる可能性がある。

2018年1月12日金曜日

医療の平等性


 日本では、健康保険に加入していれば、誰でも、どこの病院に行ってもよく、天皇陛下を手術した著名な先生から、健康保険の安い費用で手術を受けることは可能である。これが公的保険制度のないアメリカだと、こうしたドクターに手術してもらうのは1000万円を越える費用が必要であり、実体は金持ち専門の医者となる。スーパドクターは凄い邸宅に住み、自家用飛行機や別荘を所有する。一方、貧乏人は、大学の若手の研修医や人種差別的になるが、インド、アジア系の先生の手術を受けることになる。

 アメリカ人の資本主義による平等感覚からすれば、金持ちで、高い医療費が払えるなら、より高度な治療を受けることができ、金がなければ最低限の治療しか受けられない。金があれば高いホテルに泊まるというのと全く同じ発想であり、貧乏人はそれに対して不満はいわない。イギリスはアメリカと違い公的保険が発達し、基本的には医療費は無料となる。すばらしい制度のように思えるが、まず日本のようなフリーアクセスがなく、あらかじめ決めておいた家庭医のところに行き、問題があればより上位の病院を紹介され、そこで検査や治療を受ける。問題は家庭医から紹介され検査までの日数が相当かかり、場合によっては数ヶ月かかる。そのため、一刻も早い検査、治療を受けたい患者は、自費による治療を受けることになる。矯正歯科でも、保険は適用できるが、保険患者は午前中など、学校を休まなくてはいけない時間しか予約を入れないし、患者に通院時間を選べない。一方、自費の患者は好きな時間に予約を取れるようになっている。日本ではこうした自費と保険患者にサービス面で区別することは大きな問題となり、指導や保険医の取消を食らう。他にもドイツや北欧などの公的保険が充実している国も、自費と保険では、患者サービスに差をつけることが多い。アメリカでは、例えばコロンビア大学医学部附属病院では、金持ち専用の病院を持っている。要するに日本を除く国では(中国も含めて)、医療面での公平とは金があるものはいい治療、いいサービスを受けられ、金がない、公的保険は最低限の医療を受けることが普通なのである。

 こうした日本の医療の平等性は、世界でも稀あるいは唯一のものであり、日本に住む外国人からすれば、安全性とともに大きなメリットと考えている。実際、外国語指導助手(ALT)の先生の中には、これは津軽の場合だが、腰や顎の手術を受けたいがアメリカでは数百万の費用がかかるため、わざわざALTに応募する人がいる。日本では安い費用(通常数万円)で治療することができるためである。こうした制度を維持するには国も財政上大きな負担となっているが、一方、安い医療費で治療を行っている医療従事者の負担も大きい。実力のある医師は、限られた時間で多くの患者をみても、新卒の医師と同じ稼ぎでは、割に合わないと思うだろう。それよりはこうした名医は、一人当たりの治療費を多くして、見る患者を少なくする方が負担も少なく、収入もよい。最初に言ったようにアメリカの名医の手術費用は日本の数十倍であり、雑用もなく、手術だけして、リッチな生活をしている。最近は日本のネットでも、やれ医療、サービスは欧米に劣っている、もっと高度な治療を受けさせろという声も強いし、また医療ミスがあれば、すぐに訴訟ということになるが、こうした費用面のことは無視される。格安レストランと高級フレンチレストランの味とサービスを比較するようなもので、格安レストランで“なぜここでは外国産の肉ばかり使うのか”と文句を言うようなものである。

 医療の平等性、この日本のメリットは、何としても維持してほしいところであるが、ただ歯科では歯科医師数の過剰から平等性は崩れているし、将来的には医科の方もそうなるであろう。