2013年3月31日日曜日

弘前城の風水2


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 前回、弘前城の築城に関わる風水について触れたが、実はこの前読んだ「近世城下町の設計技法 視軸と神秘的な三角形の秘密」(高見敞志著 技報堂出版)に触発されたことによる。この本では城および城下町の設計を視軸と曲尺の比率から解明しており、実に興味深い。内容は難しく、今二回目を読んでいるが、工業大学出身の方で、理解しにくい。主として西日本の城郭について解説しており、できれば弘前城についても、説明してほしかった。 

 とりあえず、高見の手法に沿って、弘前城の天守、昔の五層の天守閣のあった本丸西南部を基点とする。そこから櫓に引いた線を赤で示した。天守閣—未申櫓を延長したラインは視座としては、茂森町の道に一致し、新寺町法源寺当たりに至る。逆方向には、本丸北西にあった三櫓物見に一致する。天守閣—辰巳櫓のラインは、住吉神社に至り、視座としては土手町がこのラインに平行となる。天守閣—丑寅櫓のラインは途中、豊臣秀吉を祭った二の丸、御館神を通り、弘前八幡宮に向かう。 

 次に門との関係を青線で示す。天守閣—亀甲門のラインは、本丸不通門、二の丸隅矢倉を通る。天守閣—賀田門のラインは神明宮に向かう。また天守閣—東門のラインは専修寺に向かい、視座は東長町の道となり、ここの道から東門を見ると、その延長に天守閣が見られる。天守閣—追手門のラインは袋宮寺に向かう。追手門を基点としたヴィスタは本町一丁目の道となる。

  さらに土塀のラインを濃い青で示す。東側土塀を南に延長すると新寺町の報恩寺に当たる。南側の土塀を西に延長すると、かなり距離は長いが羽黒神社、岩木神社に向かう。北川土塀を西に延長すると、旧城の大浦城あたりに向かう。 

 ここまでグーグルマップで色々な線を引いてみたが、もっと多くの線が引けそうであるが、面倒なのでやめた。確かに多くの線がひけ、こじつけであれば、どっかの寺や神社に当たる。ただそういった寺や神社を指標にして設計したのか、あるいは逆に築城後に寺、神社を建てたのか、それとも無関係かは、はっきりとはわからない。少なくとも明治二年絵図では、こういったラインは必ずしも一致せず、1600年ころの測量技術が1860年より進んでいるとは考えにくい。逆にラインに必ずしも乗っていなくても、視座として考え、建築したが、現在の地図上では間違っていたこともあろう。

  こういった築城の謎を探ることは面白いが、かなりこじつけめいた所があり、本来なら天守閣—門、櫓のライン上に神社仏閣を作るとすれば、建物はそのラインに正対するように建てられるが、実際はそうなっていないところが多い。革秀寺や津軽為信霊屋、革彦稲荷神社などは弘前城に正対しているが、八幡神社や最勝院などの大きな神社仏閣でも弘前城とは方位が違う。作られた道に沿って建てられたもので、城の位置を意識したものではない。また視座とは見通して、天守、門、櫓などの施設が3点以上が直線上にあることで、ヴィスタとは街路や水路の突き当たりに天守や主要な櫓、門をおくものをいう。 

 そうは言っても、神社仏閣が建つ位置は、何らかの意味はあり、簡単に移築、廃止するのはやめた方がよい。紺屋町の稲荷神社も、当初はより岩木川に近いところにあり、四ツ堰にあった処刑場の亡くなった人の供養、あるいは岩木川の氾濫防止を願ったものであったと思うが、明治以降も二度ほど南に移転している。これは神社の意味を考えるとよくない。先般、どうなるか心配された弘前東照宮の問題は解決され、昔と同じ場所で保存されることになった。稲荷神社以上に東照宮は方位、風水の関係が大きく、弘前市の安寧を考える上でも、場所を変えるのはよくない。神社仏閣の縁起をよく研究し、こういった方位のこともこじつけかもしれないが、頭に入れておき、万一移転や廃止の場合は思い起こすべきであろう。

2013年3月28日木曜日

弘前城 風水


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 本の方も校正が終了して発刊を待つばかりで、することもなく、ばかな思いつきを試している。そのひとつは、弘前城築城のなぞである。

 弘前城築城当時のことは、近代史の方が興味があり、全く門外漢だが、ほとんど何もなかったところに二代藩主信牧が城を作ったのは間違いない。戦国時代から江戸初期にかけて全国で多くの城ができ、全くの更地に新たな城、城下町を形成した事例は多い。戦いの場、砦としての性格よりは領地のシンボル、政治の中心としての城が平地に作られ、弘前城もそのひとつであろう。

 こういった新たに作られた城および城下町は、適当に作った訳ではなく、綿密な計算の上に建てられた。一般的には、地取り、縄張、普請、作事に別れ、最初に守りやすく、攻めにくい地形を決め、さらに町作りに必要な広さも必要で、これが地取りとなる。そして大まかな候補地が選ばれると、天守閣の位置が最初に決められ、それにそって門や櫓、堀などが決定していく。これを縄張と呼び、砂などで立体的な図面を作成したようである。

 天守閣の位置を決めるには、色々なパターンがあったようだが、ひとつに夏至、冬至の日の入り、日の出ラインから、あるいは山、古い神社、寺を結ぶラインから決定した。この作業は、特別な人物がしたようで、候補地から山を見て、あるいは烽火をみて、方位を決定して、天守閣の位置を決め、その後、天守閣から寺や神社の位置を調べて、その線上に門や櫓を決めたり、あるいは新たに寺、神社を作った。

 確かに何もないところに、全く新たな町を作れといわれても、何の根拠なく、勝手につくるというわけにはいかない。弘前城、当初は高岡城を作る時にも、何らかの目印を中心に作られたのは間違いない。夏至、冬至の日の出、日の入りを考えると、弘前城が作られた1609年当時の夏至の日の入り方位は岩木山の北側、近くの目印では高地山、冬至の日の出は乳井神社北側、大館山付近となる。この2点を通る直線が、現在の本丸、天守閣(旧、新)を通る。もうひとつは、景色を利用したもので、最も目立つ景色としては岩木山となろう。岩木山は鳥海山、岩木山、岩鬼山の3つの峰で構成されるが、最も高い岩木山が目印になろう。もう一方の点としては、岩木山と並ぶ青森県で最も雄大な景色、十和田湖とすれば岩木山と十和田湖を結ぶ線上の弘前城がある。ただ両者の距離があまり長いため、十和田湖のどの地点を取るかで、天守閣の位置は変わってくる。どこか途中の点が必要であろう。ただ十和田湖と弘前城との位置関係は、測量した地図がなくても、時間を決めて烽火などをあげると求めることはできよう。さらに岩木山、(大浦城)、弘前城、十和田湖を結んだラインを延長すると、何と藩祖津軽為信の出身、久慈家の居城、久慈城に繋がる。これは偶然とは思えるが、ここまで考えたのであればすごい。一方、これと直交するラインを探してみると、久渡寺山と梵珠山を結ぶ線が考えられるが、交点は天守閣の南西方向となる。

 天守はかって今の天守閣の西にあったが、正確な位置をどうやってきめたのか、わからない。それでも現在の弘前駅前のホテル、マンションから、弘前城天守を見ると、その先に岩木山山頂が見え、逆の方向、これは全く見えないが、そこのは十和田湖、さらにその先には久慈があること言えそうである。

弘前城の土塀、基本的な枠組みを見ると、岩木山十和田湖ラインに比べてやや反時計周りに10度くらい回転した形になっている。むしろ岩木神社と天守を結んだラインに直交した形となっている。

天守からの門、櫓の配置についても、何らかの法則があるようだが、これについてはもっと検討してみる。

2013年3月20日水曜日

伊東五一郎



 「新編明治二年弘前絵図」はほぼ校正も終了し、4月半ばには発刊できそうである。前回は、弘前の紀伊国屋書店のみに本を持ち込み、売ってもらったが、今回は北方新社で発行してもらうので、多くの本屋で取り扱ってもらえる。素人の本がどれだけ売れるかわからないが、前よりは多少ましかなあとは思っている。

 原子昭三先生の「津軽奇人伝」はおもしろく、随分とこの本からも引用させていただいた。それでもほとんど人は紹介できなかったので、ここで一部紹介したい。内容は尊敬する原子先生の著書からほぼそのままの引用である。

 先日、歯科医師会の会合で、ある先生のお母さんの話がでた。弘前の医者として名高い伊東重の長男の娘にあたる。つまり伊東五一郎の娘となる。

 伊東五一郎(1895-1937)は、伊東重の長男として、明治28年(1895年)に生まれた。父親に似て頭のよい子で、弘前中学3年生のころには、叔父のドイツ文学者、伊東基(もとい 1862-1925)に影響されたのか、トルストイ、アルツバーゼフの作品やショーペンハウエルの哲学書を読む早熟な文学青年であった。中学5年生の時には芸者と恋仲になり厭世自殺を図って失敗したこともある。二高、東北帝国大学医学部に進学するが、親分肌の性格は二高、東北大のもめ事をすべて解決したという。

 昭和二年に明善寮が完成し、その寮制度について生徒と学校が対立し、二高全校ストライキが発生した。その調停役に選ばれたのが二高先輩の伊東五一郎であった。五一郎が生徒代表に「君たちは何のためにストをやったのか」と聞くと、生徒らは「岡野校長のやり方は我々生徒の自治を弾圧するものです」。伊東は「そりゃだめだ」、生徒「はい、学校長の人格がなっていません」、伊東「それもだめだ」、こんな調子で次々と質問したところ最後の生徒はこういった。「はい校長が気にくわないからです」、伊東「それならよろしい。気にくわないなら仕方ない」。こういった珍問答によって生徒たちは五一郎の調停案を飲んだという。くどくど理屈を言うのが嫌いだった。五一郎は、東北大学卒業後、病理学教室にいくが、ここでもエピソードがある。木村男也教授から、卒業試験で色々と質問を受けるが、酒ばかりのみ、仙台のヤクザとばかり遊んでいたため、答えられない。「チームズ(胸腺)はどこにあるか」と質問されても「それはロンドンにあります」と答える始末で、とうとう教授から「ほんとうは落第だが、病理学教室に入れば卒業させてやる」ということで入局することになった。医局に入っても仙台の親分衆と酒ばかり飲んでいる生活で、そのくせ義侠心が強いので何かもめ事があれば、すぐに駆けつけるというありさまであった。こういった環境に飽き足らず、昭和九年には南満州の錦州市に行き、張学良の叔父にあたる張学相の家にやっかいになりながら、現地の紛争やケンカに顔を出し、知らぬ間に地元の顔役になっていた。その後、熱河省の衛生局長に抜擢されたが、昭和12年に42歳の若さで亡くなった。ここまで原子先生の本を写しているが、よく考えれば東北大学の病理にいたころから伊東五一郎は独身でなく、妻子もいたのである。こんな破天荒な旦那の家族はさぞかし大変であったろうが、それでも満州からの引き上げが早かったため、ソビエト軍の満州侵略による悲劇には会わなかったのは幸いである。葬式は東北大学医学部講堂で盛大に行われたが、講師の経歴でのこういった弔いは大変珍しい。

 伊東五一郎は、作家の今東光とは従兄弟同士で、大正の始めころ、作家の芥川龍之介の家に行こうと、同じく従兄弟の画家松井泰と一緒に訪ねた。縁側に通され、ビールを飲んでいたが、飲み足らず、近所の酒屋に買いにいかせ、結局、一人でビール12本も飲み干したという。さすがに芥川も今東光もあきれたようだ。五一郎は今東光の4歳年長、その後の今東光の生き方をみると、従兄弟の五一郎の影響は大きい。伊東五一郎の弟、伊東六十次郎は兄と違い、超真面目な性格で、東京大学の哲学科を卒業し、国家主義に入っていった。このひとのエピソードに戦後、ソビエトの捕虜収容所にいたが、最後まで赤化洗脳に負けず、逆に収容所側が根負けして、建国祭を許可したというものがある。捕虜収容所で天皇陛下万歳を唱えたのだから、筋金入りの国家主義者であった。

2013年3月15日金曜日

食は長生きの基本

 友人から、母親が入れ歯が痛くて、食事ができず、困っている、どこかいい歯医者はいないかという電話があった。これまでも名医と言われる先生を訪れ、、その度に新しい入れ歯を作ってもらったが、やはり痛くて食事ができず、ミキサー食を食べているようだ。これは深刻であると感じたが、同時に多くの歯科医で見てもらっても直らないのは精神的な問題があるのではないかと思った。そこで友人に聞いてみると躁鬱傾向があるとのことで、それではということで心療歯科という特殊な科がある病院を紹介した。

 その後、音沙汰がないので、先日、聞いてみたが、2、3ヶ月間、遠方にも関わらず、紹介された病院に連れていったが、効果がなく、今はミキサー食のかわりに柔らかい介護食を食べているとのことである。

 老人の場合、降圧剤や精神安定剤などの薬を飲む場合が多く、こういった薬には唾液の量を減らす副作用がある。それでなくても歳をとると唾液の分泌量は減る上に、薬でさらに減ると、いわゆるドライマウスの状態となる。こうなると、いくら名医が作った入れ歯でも少し当たるだけで痛いとなる。おそらく友人の母親も精神的な問題だけでなく、こういったドライマウスによるものもあろう。ドライマウスに対する根本的な治療法はなく、何とかしてやりたいが、助言を控えている。

 歯科医には“レスキューファンタジー”という幻想が名医になればなるほど持つ傾向がある。他の先生には治せないが、私には治せるという幻想である。それ故、こういった患者がくると、それは気の毒だ、やってみないとわからないが、がんばりましょうと治療を開始する。実際はそんなに甘いものではなく、うまく治らず、そのうち患者が来なくなってお終いとなる。できなければ最初から断ればよさそうだが、何かやってしまうためこちらも紹介しにくい。

 人間の五欲として、食欲、睡眠欲、性欲、名誉欲、金銭欲といわれるが、後者3つに関しては、歳とともに減少するし、仮に無くなっても、別に問題はない。ところが食欲と睡眠欲は深刻な問題となる。寝なければ、本当に疲れるし、睡眠薬などを使っても何とかぐっすり眠りたいという欲求は強い。私も寝れない時は、こういった薬も飲むが、一方、睡眠が欲望かと言われるとどうかと思う。睡眠は生理的なものであり、欲望といわれてもぴんとこない。となると五欲のなかで最も大事なものは食欲となる。食べれなくなると、すべての動物は死ぬ。といって人間は食べるだけでなく、おいしいものを食べたいと思う。これは欲であろう。食い意地ともいう。病気で入院していても、回復後、もっとも強い欲求は、食欲であり、睡眠欲、性欲、名誉欲、金銭欲ではない。生と最も近接した欲求であり、これと関係する歯科の仕事は重要であろう。先に友人の母親にしても、歯の喪失がなければ事態はこれほど悪くはならなかったであろうし、高血圧、糖尿病、リューマチなどの慢性疾患を比べてでも、歯の疾患は簡単に予防できる。

 そういった意味では、60歳からでも決して遅くなく、腕が確かで、面倒見のいい歯科医を見つけ、3ヶ月に一回でもいいから定期検査を受けることで、食に対する興味は死ぬまで失わないことができよう。おいしいものを食べることこそ、本当に大事である。

 近くの石田パン屋がリフォームし、息子さんがドンクで修業して、新しいパンを作っている。大正14年創業の青森県で最も古いパン屋だが、これまでの伝統的なパンだけでなく、新しいパンも売られている。プレオープンで何回か食べてみたが、もちもちしておいしい。これも食い意地か。是非食べてみてください。

2013年3月11日月曜日

釜萢堰と大久保堰

 「新編明治二年弘前絵図」というタイトルも決まり、二校に入っている。あと一回ほど校正した発行となるか、どうもまだ間違いが多いようで、どうするか検討中である。神豊三郎と神辰太郎は同一人と考えたが、どうもちがうようで、神辰太郎の記載はすべて削除した。神辰太郎は慶応義塾に留学し、維新後は明治初期の海軍に入り、「金剛」機関長などを歴任した。明治4年、海軍少尉で、その後20年間海軍に努めたのであるので、おそらく佐官クラスにはなっていたと思うが、最終階級はわからない。明治初期の士官と兵隊との給与格差は大きく、陸軍ではあるが、少佐が年棒1200円、大尉が840円、中尉が600円、少尉が480円に対して、下士官で曹長が120円、軍曹で84円、一等歩兵卒で31円であった。軍曹以下は兵舎に暮らし、食事の心配はなかったが、階級差は大きく、明治初期の将校は地位だけでなく、給与も多かった。神家はいろいろな系統があり、神辰太郎がどの家の出であるか、はっきりせず、先日の木曜日に図書館にこもって調べたが、全くわからなかった。手塚家からの養子であるが、手塚の姓は手塚敬吉(植田町)、吉右衛門(田代町)、茂大夫(笹森町)、郡平(鷹匠町)の4名がいる。一方、神家は神覚平はじめ、29名の名があり、この中で探すのは難しい。何かの本に書いているかもしれないので、その時までお預けである。

 もうひとつわからないのが、釜萢堰、大久保堰の大きさである。両方の堰は、今やコンクリート製のものとなり、明治2年当時の姿はない。当初、今の大きさから数十センチの幅を想定し、2メートルくらの道の横、あるいはそれと交差するような形で数十センチの堰があったと考えた。交差する部分はいわゆる暗渠と呼ばれる、通路となっており、その上を石あるいは木材で覆われていた。昨日、「なつかしの弘前 庶民の歴史」(笹森貞二、森山泰太郎、千葉寿夫)を読んでいると、笹森貞二さんが明治の田町付近の思い出として、大久保堰は小川のようで、両岸には柳の木があり、この堰では大小の鮒、鰌、蟹などがとれ、近くの夫人たちが洗濯をしていたようだ。私の予想よりはもっと大きなものだったようだ。そこでもう一度、明治二年絵図を見てみると、田町近くの大久保堰は他の箇所より幅広く書かれており、また道と交差する箇所も暗渠を表す□ではなく、橋印となっている。さらに森山泰太郎さんが大正のころの若党町の思い出を語っているが、ここでは大久保堰は岩木川の支流とされ、幅は2、3メートル、深さは子供の膝までの浅瀬で、長く伸びた川藻が水中に揺らいでいたという。「私の住んだ家から東へ百メートルほど川下に、舞台セットでみる川端柳そっくりの長く枝を垂れた老木があり、その背景がまたおあつらいの白壁土蔵ときている」。ここでの川端柳は、笹森さんが住んでいた田町近くの大久保堰の姿であろう。

 ここで暗渠を考える。江戸時代の道には大小はあったが、仲町、若党町、小人町などの道幅は焼く7尺、2メートルくらいで、明治になって車両の通行に便利なように道幅が広げられた。大久保堰は家裏を這うようにして西堀から仲町、田町、宮園方向に流れているが、いくつか道を横ぎり、田町を除く部分は渠のマークの□印となっている。2メートルの道に幅2、3メートルの堰が横切るのは、浅いとはいえ、どちらかというと橋にあたるのではと思う。実際に森山さんの思い出では橋となっている。渠にあたる箇所では堰が狭くなっていたのか。渠と橋の違いは難しいが、建設省では2メートル未満を橋とは見なしていないようである。

 こういったことも今では調べるのも難しいが、2030年前までは年寄りに聞けば簡単にわかっただろうに。


2013年3月4日月曜日

ファミリーヒストリー


「アンコール 浅野忠信~祖父はなぜ、アメリカに帰ったのか」 2012.10... 投稿者 Nrev2





 NHKの「ファミリーヒストリー」という番組が好きで、よく見る。テレビなどで活躍している人物の祖先のエピソードを綴った構成で、いわゆる歴史上で名高い人物はほとんど登場しない。それでも親、祖父くらいのことは多少知っているだろうと思うが、ほとんどのゲストは先祖のことはほとんど知らず、NHKで取材により初めて知ったということが多い。
 
 翻って自分の先祖のことはなると、お恥ずかしながら、ほとんど知らないし、ましてうちの娘世代となると皆目知らないことばかりであろう。

 私の父方の祖父、祖母は徳島県板野郡の農家であった。家にある家系図から、応仁の時代までは遡れるので、500年は続いている。といっても元は侍であったが、早い時期からずっと農家で、それも地主といった名家でなく、ただのしがない農民であった。当然、名字は名乗れなかったが、侍時代の廣瀬という名字は密かに受け続いたのであろう。祖父の代に一山当てようと、大阪にわたった。詳細は不明であるが、祖父は商才があり、祖母と苦労しながら、そこそこの金を得たようである。祖父は40歳代の若さで亡くなったが、その時の葬儀の写真が残っている。かなり金のかかった葬儀で、僧侶が3名、大勢の参列者がいる。親父は長男で、二人の姉と弟、祖母が写っている。父、母ともあまり当時のことは語らなかったが、どうやら大阪、飛田新地で遊郭をしていたようだ。葬式の写真にも隠れるように勤めていた日本髷の女のひとが写っている。よほどもうけたのであろう。親父が子供の頃、正月は大きな座敷の上座に座り、従業員の年賀の祝辞を受けていたようで、故郷の徳島には豪邸を建て、子供用の甲冑を買い、端午の節句に着ていたようだ。

 祖父の死後は、祖母ひとりで遊郭を切り盛りしていたようで、大阪市内にも何カ所の土地も持っていたが、親父が東京歯科医専(現東京歯科大)を出て、学徒出陣し、叔父も拓殖大学を卒業し、NHKインドネシア向け放送に勤務し、二人の姉も嫁いだのか、戦後早い時期に遊郭をやめた。当時、子供を大学に行かせるのはよほど金がかかったが、余力があったのであろう。この時期、買った掛け軸、置物が家にあるが、今見るとほとんど偽物で、学のない祖母は悪徳骨董屋に言われるままに買ったのであろう。その後、叔母の旦那が電気風呂という新事業をしたが、それが見事の失敗し、遊郭でもうけた金、土地をすべて失い、晩年は尼崎の父の家で過ごした。私はとりわけ可愛がったようで、死ぬまで「この子は頭がいい」とおぶっていたようだ。私自身全く記憶はない。当時、家に入ってきたテレビが好きで、毎晩深夜まで見ていた。そのため、朝起きるのがいつも遅く、ある朝、おばあちゃんいつまで寝てるんですが、母が言っても起きないので、よく見ると亡くなっていた。楽な死に方である。

 女ひとりでの遊郭経営は、色々な苦労もあったろうし、子の知らない事情もあったのであろうが、すべて子供にも伏せて亡くなったので、死んだ親父に聞いても多分しらないであろう。親とは子に聞かせたくない事情は話さないものだ。存外、子孫は何も知らないし、私のような他人の方がよく知っていることもある。

2013年3月3日日曜日

シェルブールの雨傘




「シェルブールの雨傘」、久しぶりに見ました。前に見たのはいつだたったでしょうか。30年以上前は確実で、内容の99%は忘れていました。カトリーヌ・ドヌーブ、今でも現役女優でがんばっていますが、この映画の中のドヌーブは本当に美しいし、服装も60年代のおしゃれなもので、今でも十分に通用します。

内容については、ここまで有名な映画ですので、少しばらします。ただの恋愛映画と思っていたのですが、ちょっと違うようです。彼氏が2年間、兵役のためアルジェリアに行くことになります。その前に関係ができ、何と妊娠してしまいます。ここらは全く記憶にありません。さらに妊娠中に宝石商の金持ちの男にプロポーズされ、彼氏の帰還を待たずにこの男と結婚してしまします。何と軽い女か、2年間も待てないのかと思ってしまいます。戦闘から生き残った彼氏は、帰国後、この事実を知り自堕落な生活を送ります。当たり前でしょう。2年間待って帰国すると、彼女は自分の、まだ見たこともない子供と一緒に金持ち男と結婚していたのですから。そして叔母の世話をしていた幼なじみと結婚し、ガソリンスタンドを開きます。そして数年後、雪の降るガソリンスタンドで二人は再会します。ここが映画の泣かせ所となります。

子供のころから「シンデレラ」を見ても、王子とシンデレラはその後、幸せに暮らしましたと言われても、どういう風に幸せに暮らしたか、実は晩年は仲が悪かったのではと思ったりしました。この映画でもドヌーブが最初に愛した青年とそのまま結婚した方が二人にとって幸せだったのか、愛は冷めやすく、早い時期に破局を迎えた可能性もあります。結局、今の選択が一番良かったのかもしれません。全編すべてせりふは音楽という実験的な映画で、最初見たときは、その奇妙さに笑ってしまった記憶がありますが、今度見るとそれほど違和感はありませんでした。ふと思い出したのは同時期製作されたオードリヘップバーンの「いつも二人で」という映画です。いわゆるロードムービーというやつですが、倦怠期の夫婦が長期間のドライブ旅行をしますが、夫婦仲は最悪です。旅行を通じて、最初会ったときの若かりし頃のことを双方とも思い出し、もう一度、二人の関係を見直すという筋です。オードリの作品の中では、あまり人気のないものですが、好きな作品です。大恋愛の末の結婚の末路は、こういった経過をたどり、そのまま離婚ということもあり得ますし、結構多いかもしれません。

一緒にレンタルしたのは「オーロラのかなた」。これはタイムスリップもので、複雑な構成をもつ作品ですが、人生の分岐点でその後の人生が大きく変わることを描いています。なかなかの秀作です。あの時、あの場にいなければ、その後の人生は変わっていただろうということは、誰もが経験することです。とくに大きな事件、事故に巻き込まれた場合はそうです。運といえばそうなるのでしようが、とくに恋愛の場合は、こういった要素が多くあります。

「シェルブールの雨傘」においても、母親が傘屋の経営に困って宝石商に自分の宝石を売りにいきますが、そこにいたのが、娘の結婚相手になる若手宝石商です。ドヌーブに恋して、プロポーズします。こういった偶然性はほとんどの恋愛、結婚にあることでしょう。わたしの場合も、こういった偶然性から弘前の地にいるわけですので、人生なんか、何がどうなるかなどわからないものです。