2011年12月25日日曜日

北朝鮮後継者



 北朝鮮の金正日総書記が亡くなり、どうやら金正恩が事実上の後継者となるようだ。社会主義国で三代に渡り世襲制が行われるとは、これほど主義と矛盾したものはない。まさしく王国、帝政である。それでも北朝鮮の実情を見ると、この体制でないと自己崩壊するのは間違いない。

 金正恩の母、高英姫は大阪市生野区鶴橋生まれの在日で、父高太文は柔道家で戦後、大同山又道というプロレスラーとして生活していた。ちなみに和田アキ子の父親、金基淑は同所で格闘技を教える金海道場という柔道道場を開いており、同業でもあったので高太文とは非常に仲のよい友人であり、その子、和田アキ子と高英姫はともに幼なじみであった。高家は1961年に北朝鮮に渡り、金正日に舞踏家の高英姫は見初められ、その子が今回後継者となった。

 高太文(奉文?)は大阪で東亜プロレスという団体を起こし、昭和31年には柔道家の木村政彦と大阪府立体育館で観客7千名を集めて、シングル対決をした。一本目は木村が、二本目は大同山が、三本目は大同山が金的蹴りの反則負けとなってる(増田俊也著 「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか」新潮社)。高太文は講道館柔道六段、木村は力道山戦後の意気消沈した時代であったとしても、あの最強の柔道家木村とシングルマッチをしたくらいで、相当実力はあったと思われる。

 「日中もし戦えば 緊迫シミュレーション」(マイケル・グリーン、張宇燕、春山剛、富坂聡著 文春新書)は、タイトルは軍事オタクが飛びつくようなものだが、内容は日中、韓国、北朝鮮、台湾など東アジアの現状を軍事から捉えた好著である。この本では、今後の北朝鮮問題について、韓国、日本、中国、アメリカとも現状の北朝鮮の現状維持を是認しており、金体制が崩壊することは望んでいない。逆に韓国と北朝鮮が統一され、人口8千万の核保有国が日中間に現れるのを危険視している。北朝鮮の軍事クーデターは可能性があるとしているが、民衆蜂起によるエジプト型フェイスブック革命はないとしている。民衆革命が起こるほど、北朝鮮の国民が豊かでないため、希望なき国民に逆に蜂起はないということだ。張さんの意見では、現状は最悪な経済状況であり、中国型自由経済に移行するのは間違いないとしている。あまりにひどい生活状況から少しでも豊かになれば、人々は幸せに感じる。中国、韓国にしても北朝鮮からの難民が押し寄せることを最も恐れており、何らかにきっかけ、一番いいのは核放棄であるが、それを条件に自由経済に移行するのを援助するというのが、日本、中国、韓国、アメリカの最良のシナリオであろう。

 ただここで一番大きな問題は、韓国にも当てはまるが、朝鮮人、韓国人のもつ小中華思想であろう。中国、日本というGDPの世界一、二の国に挿まれ、その間に立って、どちらにも負けない、競合心、これが韓国経済のバックボーンであるが、国力から背伸びした行為に走ることが多く、冷静に実情を分析できない。本家の中国の中華思想は、かなりプラグマティズムな点があり、現実主義であるが、どうも韓国、北朝鮮の小中華思想は観念的な思考が強く、柔軟性に欠く。この点では中国も全くお手上げ状態であり、解決できないし、日本と韓国、北朝鮮の問題の多くはここから出発している。

2011年12月23日金曜日

田町、土淵川沿い墓所



 弘前市にはところどころおかしな所に墓所がある。郡部ならいざしらず、市内の寺もないところにぽつんと墓所がある。

 ひとつは、八幡神社に行く参道の道すがら、熊野奥照神社、市営住宅前の墓所で、当初、昔の村の墓所がそのまま残っていたのだと思っていたが、明治二年弘前絵図からここには宝蔵院と大善寺の墓所があったことがわかる、明治に入ってからの神仏分離令により、最勝院の塔頭であったこれらの寺はなくなったが、墓所だけが未だに残っている。

 同様に土淵川の弘前一中裏には小さい墓所とおかしな碑が立っている。ほんの数件の墓しかなく、まわりは古いアパートに囲まれている。ここは昔の愛宕神社跡であるが、どうして神社に墓所があるかはわからない。弘前東照宮の別当の薬王院はかってはかなり大きな寺だったが、その墓所の一部なのかもしれない。

 稲葉克夫著「私の落穂拾い」(北方新書)によれば、昭和47年ころまで、おそらくここであろうが、祠があり、人外という隠者が焼けた庵跡に前庭に戦死地蔵尊や石碑を作ったようである。この人外とは2.26事件に関与した対馬勝雄中尉の妻の弟、阿保源蔵のことで、ここに今次大戦で亡くなった多くの将兵の名と平和を祈る碑を立てたようだ。今でも一部、奇妙な石碑が立っている。

 近くの弘前東照宮を先日行ってみたが、屋根、軒、神社本体もかなり痛んでおり、このまま放置すれば早晩、補修不可能になるかもしれない。一刻の早く債務問題の解決してほしいものだ。何しろ弘前の東照宮は全国の東照宮の中でも非常に早くできたもので、すでに400年近い歴史があり、このまま債務問題が解決しないと重要文化財の本殿もとんでもないことになる。この債務問題の元凶である結婚式場が本殿右にあるが、これが完全な廃墟となっており、解体費が相当かかりそうである。実はこの結婚式場の横に弘前市立弓道場があるが、部員以外知るひとは少ないであろう。これも老朽化しているが、HPで見ると内部はよく整備されており、使用料も生徒では1時間30円と安い。

 東照宮の裏は、昔は寿町と呼ばれ、いわゆる色町であった。その中で最も大きく、格式があったのが武蔵楼で、将校以上のものが利用した。その跡地は相当広く、今では医院となっているが、奥の方には昔を偲ばせる立派な庭園がある。妓楼の本館は和洋折衷の贅を凝らした作りで、戦後壊すのが惜しく、市に保存を訴えたが、けんもほろろだったようである。北横町および寿町には20軒ほどの妓楼が並び、土手町とともに和徳町は非常ににぎわいをみせ、両町をまたぐ、坂本町から南横町の道と百石町も往来が絶えなかった。この辺りは今でも商店らしい家が多い。

 ひとの記憶は、あっという間に忘れてしまう。Google earthなど200年後に見れば、実に貴重な歴史資料になろう。そういった意味では明治二年絵図も幕末期の弘前を知る一級の一次資料であろう。

2011年12月21日水曜日

ママチャリ




 チュスター・リーブス著「世界が賞賛した日本の町の秘密」(洋泉社新書)は、アメリカ人からみた日本のママチャリ文化を論じたユニークな本である。私のような自転車好きな者から見れば、ママチャリというと、とても世界には恥ずかしく出せないしろものと考えていたが、この本を読んで改めて認識しなおした。自転車ファンから見れば、ママチャリはすべてダサイく、重いし、スピードはでないわ、カッコ悪いし、おまけに中国製が氾濫しており、安くて信頼がおけない。さらに個性はなく、どうもあの自転車に愛着は持てそうにない。ところが著者は、このママチャリこそはコンパクトシティー、省エネ社会の切り札としている。

 ママチャリは確かに歩道をゆっくり走るには、優れており、ロードレーサーのような華奢なものでは、歩道と車道の段差がパンクの原因となるため、怖いし、振動も多い。雪国では融雪路の蓋がちょうどタイヤの幅くらいの溝になっているため、万一この溝にタイヤが挿まれると大事故に繋がる。さらにロードレーサーではスタンドがないため、自由に止められないし、また荷台、かごもないため、買い物したものはデイパックなどを背負わないといけない。また姿勢も前傾が基本となるため、疲れやすいし、尻も痛くなる。ということで、実は私もちょい乗りにはママチャリを使っている。便利だからだ。

 よく考えると、日本のママチャリは著者が言うように類型を見ない。多くの国では実用的な自転車はあるものの、少なくとも男性用と女性用に別れている。ところがママチャリの基本形は、フレームがステップスルータイプで、いわゆる女性用のものを男女とも使っている。欧米ではこのステップスルータイプは女性用、ダイヤモンドフレームが男性用と別れていて、男性がステップスルータイプの自転車に乗るのは抵抗があるようだ。少し前まで日本でもそうだったが、次第に抵抗は薄れ、今ではどうもサドルの前に水平のチューブがあると乗りにくいと感じてしまう。

 ところがこんなママチャリだが、実力はすごく、うちの次女は毎日高校までの3kmの道を通学していたし、友人の一人は10km近い距離を1時間ほどかけて3年間自転車で通学していた。へたなサイクリストよりよほど走っている。あの形は、ある意味、日本の道、町に合わせた究極の形なのであろう。スピードこそでないものの、歩道を故障なく、走ることができ、安くて、長持ちする。パリで始まったシティーサイクルシステム(大規模貸し自転車事業)に用いられているペリブ自転車もママチャリの模倣とも言える。またコペンハーゲンのレンタルサイクルもママチャリに近いが、荷台、かごもなく、スタンドもちゃっちくすぐに倒れそうだ。ママチャリの方が使いやすそうだ。

 最近、歩道上の自転車走行を禁じる動きがあるが、著者はスピードが出ない、ママチャリであれば、歩道を整備して走るようにできないかと提案している。歩行者の自転車による事故も多いが、逆にあのママチャリで車道を走れというのも危険である。著者は、人、自転車はスイスイ、車が一台ぎりぎりに入れるような道、そして歩いて、自転車で買い物から、病院、美容院、学校、とすべての生活がまかなえるような町づくりがエコの観点から世界的な流れとみる。

 かって日本人は、車で買い物に行き、一週間分の食料を大型の冷蔵庫に入れるようなテレビでみるアメリカ型の生活に憧れていたし、それが生活の目標でもあった。ところがそれが実現されるようになると、今度はアメリカ型大型消費生活が見直され、その象徴が自動車社会から自転車社会への変換ということになろうか。

2011年12月15日木曜日

セファロの増感紙



 現在、事情があって、歯科放射線について勉強している。学生の頃も、歯科放射線の授業はあったのだが、殆ど記憶になく、その後も全く関心のないまま過ごしてきた。開業した時にパントモ、セファロ撮影装置を購入したが、他の先生が購入している機器の中から何となく選んだに過ぎず、それほど研究して購入したわけではない。

 当時、広島で開業していた花岡先生から希土類増感紙を使うようにといわれ、以来増感紙は希土類でやっているが、どういったものか全く理解せずに利用してきた。多くの先生方も開業時に購入したレントゲン撮影機をそのまま使っているのであろう。レントゲン本体は比較的故障は少なく、10,20年は十分にもつ。

 ドイツのレントゲンが1895年にレントゲンを発明した当時は、X線をフィルムに直接当てて、撮影していたが、その後、被爆線量の軽減から、いわゆる増感紙が発明された。100年くらい前の話である。増感紙はX線を一旦、青や緑に発光させてそれを写すというもので、線量は1/100くらいに大幅に軽減された。一方、歯科では歯そのものを写す、デンタルレントゲン写真は、より鮮鋭に撮るため、増感紙を使わない、ノンスクリーン法がとられている。これも以前に比べて感度がずいぶんよくなっている。最初はA、その後、B、Cとなり、現在はDからE、F感度へと移行している。D感度に比べるとF感度では感度が4倍、すなわち線量は1/4ですむ。

 顔面全体を撮影する頭部規格写真(セファロ)は、増感紙を使っているので、被爆線量は比較的少なく、先のデンタルレントゲンの1、2枚分、自然放射線の数日分程度であるが、それでも10歳以下の場合は、健康被害に対する30歳の相対リスクを1とした場合、3倍となる。注意深い使用と、さらなる線量の軽減が望まれる。

 現在、セファロで主として用いられている増感紙は、タングステン酸カルシウム蛍光体のブルー発光性のものであろう。希土類発光体のグリーン発光性のオルソタイプは、医科では10年以上前に普及率は90%を超え、さらに今では急速にデジタル化されているが、歯科ではフィルムがまだ主流であり、さらに二昔前の増感紙が使われているようである。現在、ブルー発光性の増感紙はほとんど生産されず、それに対応するフィルムもなくなりつつある。1975年ころにブルー発光性のものを凌駕する画質を示すグリーン発光性(オルソタイプ)が発明された。すでに30年以上たつ。この増感紙はその高い性能のため、感度を上げても画質の低下が少ないため、欧米を中心として、歯科医院では400感度のオルソタイプが主流となっている。

 ここで私も含めて多くの先生方が誤解しているのは、カメラのフィルムのようにISO64、100、400というものではなく、フィルムはブルー発光性とグリーン発光性の2種類に別れているが、フィルムそのものには感度はなく、増感紙に感度があることだ。Kodakで言えば、グリーン発光性増感紙は、レイネックス250と400しかなく(ブルー発光性増感紙は生産中止)、フィルムはTマットフィルムG/L RAしかない(セファロの場合、エクタビジョンは生産中止)。ブルー発光性増感紙用のフィルムがXマットDBFフィルムとなる。感度だけみればブルー発光性増感紙+DBFフィルムを使用した場合を100とすれば、グリーン発光性増感紙+G/Lフィルムで、レイネックス250で1.2倍、レイネックス400で2倍となる。当然、画質はグリーン系の方がよい。

 ではなぜ、30年前に登場した、こんなに優れているグリーン系増感紙が医科のように急速に広まらなかったのかというと、歯科医院側に一切知らされていなかったことが、その要因であろう。ある程度、知識のあるひとはこんなことはすでに知っていたであろうが、開業時に購入したまま経過した医院では、こういった増感紙の存在自体あまり知らないであろう。というのはパントモであれ、セファロであれ、装置購入時にカセットが附属しており、その詳細については一切知らされていない。さらに歯科用カタログにもあまり増感紙についてはくわしく載っておらず、極光PV-IIといった記載のみである。これをブルー発光性増感紙で感度200とはわからないであろうし、現在でも増感紙のことはカタログで一切載っていない。

 という訳で、不勉強な私のところでも、ようやくレイネックス400カセットを購入し、小児を中心に照射時間を検討しようと思ったが、何しろフィルム自体が縮小傾向のため、メーカーにも在庫がなく、納品まで1か月以上かかるとのことであった。比較した結果、後日お知らせする。

2011年12月12日月曜日

「今東光物語」


 菊池達也著「今東光物語」は、古本屋でもなかなか手に入りにくい本で、たまにインターネットに出品されていても、高価で手が届かない。調べると、盛岡の岩手県立図書館にあることがわかったので、東北矯正歯科学会の編集委員会の合間に図書館(バス停近く)を訪れ、調べてきた。この本は、著者が青森のひとのせいか、弘前の今家のことがくわしく書かれているので、一部抜粋する。

 今東光は、日本郵船勤務の今武平と医師伊東重の妹あや(綾)の子供であるが、両親が結婚したのは、武平が29歳、あやが28歳と遅かった。この理由として、「今東光物語」では今家と伊東家のおもしろい因縁を載せている。実は、武平の長兄、宗蔵は、あやの姉、三女ひさ(久)と結婚していた。ところが結婚3年後に宗蔵が風邪をこじらせ、わずか29歳の若さで急死する。今家側はこの死因に疑いを持ち、あるいは伊東家側が盛った薬がその死を早めたと噂した。これを聞いて伊東家側は激昂し、死体の解剖を申し入れ、それを認めないなら嫁を離縁すると掛け合う。両家の対立に挟まって、ひさは一子を残したまま伊東家に引き戻される。乳飲み子を引き離された18歳のひさはおそろしい決心をする。実家の蔵で自殺する。ひさの長男邦器は後に新聞記者になる。

 今家と伊東家はこういった関係にあり、そのわざかまりと説得に時間がかかり、今武平とあやの結婚が遅れた。もともと今家は勤王派、伊東家は佐幕派で、そうした両家は仲が悪く、その和解の糸口になればと今宗蔵とひさは結婚した。

 今宗蔵は、故斉と号し、「周易正義」などを著した儒学者で、東奥義塾の教員をしていた。評論誌「開国雑誌」の主筆や共同会の書記長などを務めた。「共同会」は明治初め、弘前の士族たちが結束連盟し、展開した自由民権運動の政治結社で、別名「義塾堂」と呼ばれた。会員メンバーには、本多庸一、菊池九郎、榊喜代身、田中耕一、伴野雄七郎、服部尚義、館山漸之進、会長はあやの長姉りょう(良)の夫、斎藤連(たまき 王へんに連)である。

 珍田捨己は、今家とは親戚にあたり、あやは日頃、今東光に「東光は語学の才能がありそうだから、出来れば外交官の道に進ませたい」、「珍田おじさんを見習え、追い越せ」とはっぱをかけていた。息子の東光より、母あやの方がよほど語学の才能に恵まれており、一家の主婦になっても、W.スコットの「アイボンバー」やC.ラムの「テールス オフ シェークスピア」などを原書で読んでいたし、杜甫の七言絶句を愛誦し、平家物語を諳んじていた。後年、東光が川端康成ら一高生とつきあうようなった時、かれらが使っていた教科書が母親が読んでいたものと同じで驚いたようだ。ちなみに両親を早くに亡くした川端に、あやは実の子供のように深い愛情を注いでくれ、その恩義に報いるため後年東光の参議院選挙を手伝うことになる。

 ここで今家と珍田家が親類と書かれているが、この関係もややこしい。珍田捨己の父有孚は、祖父有敬が42歳の時に野呂家から養子にきた。有敬は藩政改革事件に連座し、謹慎蟄居中で珍田家の家を守るため、この養子縁組は急遽決まった。野呂家の長男灸四郎が有孚となる(4歳)。当時、野呂家では後妻が入り、その長男を珍田家に出したことが町中で非難されたという。この後妻の娘が、今東光の祖父、今文之助の兄弟あるいは祖母也佐の兄弟に嫁いだようだ。つまり珍田捨己からすれば、父親の実家の妹の嫁ぎ先の孫が今東光になる。珍田捨己の長男千束は、一高に入学したものの、東京大学の受験に何度も失敗し、水商売の女性と遊んだりする。珍田家からすれば不出来な息子だったが、同じ境遇の今東光とは仲がよく、よく飲んでいた。

 江戸、明治期の婚姻関係は非常にややこしい。当時は結婚というとほとんど見合い結婚、それも家柄を合わせるとなると対象は限られてくる。親族間の結婚も多かった。前述した珍田家でも珍田捨己の妻、いはは山中兵部の三女であるが、長男の卯太郎の子は山中千之は、珍田の長女貞子と結婚している。

2011年12月5日月曜日

孫文の義士団


 先日、ジャッキー・チェンの「1911」を見た流れで、テディー・チャン監督の「孫文の義士団」をレンタルしました。

 「1911」が期待はずれだったので、これも辛亥革命100周年もののありきたりの内容かと思っていましたが、これがおもしろい。孫文が1906年10月1日に香港に寄港し、重要な会議に出席するための1時間、孫文を暗殺しようとする一団とそれを阻止しようとする者達のすさまじい戦いを描いたものです。実際、当時孫文は日本におり、東南アジアに散らばった華僑に資金援助を仰ぐため、何度か外国に行っています。日本への帰路、香港に立ち寄った可能性もあるかもしれません。また登場人物のひとり、新聞社の経営者の陳小白は孫文とは革命の初期からの同士で、最初の蜂起後、孫文らと一緒に日本に逃亡し、革命への協力者を集めていました。孫文と宮崎滔天を会わせたのも彼です。日本亡命中に新聞を発行しています。

 ただ映画はそんな史実とは関係なく、カンフーアクションと「男達の挽歌」を合わせたような痛快娯楽作品に仕上がっています。2010年に公開された日本映画の「十三人の刺客」と似た内容ですが、こちらの方が恋愛、友情、義理などがあって楽しめます。人力車が階段を転げ落ちるシーンは有名な「戦艦ポチョムキン」のパクリだったり、よく考えれば「十三人の刺客」は片岡千恵蔵主役、1963年公開されたもののリメークなので、設定自体もパクリかもしれません。

 カンフーものを見て、いつも思うのは、カンフーで戦うよりは、銃でズドンとやった方ははるかに早いのではと思ってしまいます。いくら超人でも鉄砲には勝てません。この映画でも、孫文を本気で暗殺するなら爆薬か鉄砲でしょう。弓やカンフーで戦うことはまずありえません。と言ってしまうと映画にはなりませんが。

 最近は、旅行に行く移動中、レンタルした映画を見ることが楽しみのひとつになっています。IpadにItuneからビデオをレンタルした、それを電車の中で再生して見ています。最近見たのは野村芳太郎の「鬼畜」、コーエン兄弟の「ノーカントリー」、クリント・イーストウッドの「ミスティック・リバー」で、どれもなかなかのもので、電車の中での2時間をじっくり楽しめました。結構名作でもまだまだ見ていない作品は多く、こっらの作品もそうで、レンタル代も300円となっていてお得です。上記の三人の監督作品は、あまり失敗作はないようです。ただItuneでレンタルできる作品数が、やや少ないので不満です。DVDレンタルでは、古いDVDは傷がついたりして再生できないため破棄しているのでしょうが、ダウンロードするものはいくらでも種類を増やすこともできるでしょうから、もっと膨大なレンタル作品を用意してほしいと思います。

2011年11月30日水曜日

明治二年弘前絵図 「此母」と「鼠尾」



 明治二年絵図は、名前はわからないが、1人の地図職人(こういう職があるかわからいないが)によって書かれている。驚くことに1000人近い屋敷主名、施設名を一字の間違いもない。職人の仕事と言えばそれまでだが、我々には絶対にできないことである。メモを横に置きながら、書き写しても必ず書き間違いは起こるもので、鉛筆なら消しゴムで、ペンなら修正液で消すが、この地図には修正された箇所は一切ない。

 地図製作は明治2年ということで、手書きではあるが、ほぼ現代の楷書に近い書き方で書かれているため、古文書には門外漢の私でも内容はだいたいわかる。ただ手書きのため書き手の癖があり、読みにくいところがある。

 例えば、上の図は、森町のある一画であるが、時鐘所の左隣の笹森形右エ門(右衛門)は何とか、読めるが、深堀寅吉の左隣の野呂□母がわからない。光のようにも見えるが、インターネット検索でも光母という名前はなく、違うようである。ここから2時間、漢和辞書とコンピュータで格闘、ようやく「此母」という字にたどり着いた。俗字というよりは癖字に近いものであろう。こういったケースは他にも何ヶ所あったが、何とか解決できたが、ただひとつ半年以上格闘してもわからない文字があった。

 弘前城北の丸、現在のレクリエーション広場にあった作業所には、苫縄(とめなわ)、簀垂(すだれ)、□尾、網藁(あみわら)諸品入所と書かれているが、この□尾が全く見当がつかない。この作業所の上には弘前藩名物の兼平石の製作所などもあり、何らかの物産品をここで製作していたようだ。□尾、能の字に似ているが、能尾に当てはまる言葉はない。漢和辞典やくずし字辞典をあたったり、古文書に詳しい知人にも聞いて廻ったが、一向に解決しない。

 何となく、奥歯に挟まったというか、胸の支えというか、気になってしょうがない。そこで以前、メールをいただいた「新明解現代漢和辞典」の著者で、この道の権威の実践女子大学の影山教授に思い切って質問してみた。何と読むのでしょうかと。我ながらずいぶん大胆で、先生には全く失礼な質問である。ところが影山先生は実におやさしい方で、わざわざ共著者の伊藤文生先生にも聞いていただき、後日お返事をいただいた。大変感謝している。長年、頭の中に澱のように貯まっていたものがすっかり洗い流された気分で、本当にうれしい。

 その答えは「鼠尾」とのことであった。鼠の俗字、「鼡」をさらに変形させたのであろう。これではいくら自分で調べても絶対にわからなかったと思う。

 さて鼠尾とは何であろうか。ここから再びインターネットでの調査となる。ひとつは文字通りのネズミの尻尾で、筆に使われることもあるようだ。おそらく「ソビ」と読むのであろう。もうひとつは鼠尾草(ネズオソウ)、イネ科の植物で、穂がネズミの尾に似ていることからこういった名前が付けられた。ミソハギとも呼ばれ、紫色のきれいな花が咲き、盆花として使われた。下痢止めとして薬にも使われたようだが、茎、葉などの加工して産物を作るというものではない。

 というと鼠の尾を使った筆となるが、ネズミの筆は冬に長くなった体毛、ひげを使って作られる物で、さすがに毛の短い尾で筆を作ることはできない。長い尾を持つ動物として、リスをイメージするひとも多いと思うが、リスは漢字では栗鼠と書く。またイタチは鼬鼠、ムササビは鼯鼠とも書く。あるいはテンもこれに含めて、こういった動物の尾を使って、この作業場で筆を作っていたのであろうか。

 城内に作業所があるところから、動物の尾を筆の原料になるようにしてから出荷したのか、それとも津軽塗などを施した献上品としての贅沢な津軽塗筆をここで作っていた可能性もある。北の丸、護国神社あたりでは幕府への献上品の鷹を飼育、訓練していたようだが、同様に作業所での生産物は、日用品に供給されたような普及品ではなく、藩外へ販売する高級品あるいは、献上品をここで作っていたかもしれない。明治4年の絵図にも北の丸の作業所の詳細は載っておらず、この明治二年絵図は幕末期の弘前藩の物産品を知る上でも貴重な一次資料となろう。今後の研究が待たれる。

2011年11月28日月曜日

山田兄弟42




 先日、NHKのBSプレミアムで「辛亥革命100年」の第一話では山田良政、純三郎のことが、第二話では工藤忠のことが取り上げられた。友人から1年前にこういった番組を作っているとの噂は聞いたが、NHKの特番は本当に時間をかけてじっくりと番組を作っている。それだけによく調査された内容で、私も知らなかったことがたくさんあった。

 ひとつは中国の深圳市近くにできた雕塑公園で、以前このブログでも紹介したが、この公園は辛亥革命100周年を記念し、孫文の革命の歩みを銅像を使って説明する仕掛けとなっている。孫文の側には和服を着た日本人が何かを語りかけているが、どうもモデルは北一輝のように思える。今回、番組ではこれとは別の銅像、髪を振り乱し、馬に乗る、メガネをかけた人物を紹介し、これを山田良政としている。日本側の問題が生じ、武器の援助を得られなくなったことから、恵州で蜂起した革命軍に蜂起の中止を告げにいく際の山田良政の姿だ。この像については中国のあちこちの検索ソフトで調べたが載っていない。また良政が蜂起した恵州の地も初めて見ることができた。かなり山間の場所で、まるで梁山泊の陣地のようである。この番組では山田純三郎は孫文の臨終の場にいた日本人と紹介されていたが、中国、台湾の歴史ではそういった事実はない。また孫文と山田で協議された満州譲渡を含む、日中盟約についても賛否両方の意見を紹介していた。この日中盟約に署名されている孫文の名は間違いなく真筆であり、当時革命の金策に困っていた孫文は取りあえず、漢民族の故郷である、中原より下の部分を革命勢力の支配下に置き、むしろ満州族の故郷、北の地方は日本軍に守ってもらい、ロシアとの緩衝地帯になってほしかったのではなかろうか。当時の状況では至極当然の考えであり、売国奴扱いされるようなものではない。

 一方、清朝最後の皇帝に使えた工藤忠は、山田兄弟とは違い、大陸浪人的な性格をもち、当初は山田らの中国革命に参加しようとしたが、「孫文らの考え方があまりに純粋すぎて現実とは合わなかったので、孫文や山田純三郎とは袂を別った」と述べている。その工藤忠自身も満州国、その皇帝である溥儀は日本軍の傀儡であることは、わかっていながらも最後まで忠誠を尽くした。

 山田純三郎は孫文死後も上海では常に孫さん、孫さんと言い続け、日本人からは「孫文バカ」と呼ばれていたようだが、同様に工藤忠も「溥儀バカ」であった。一度、信じた人物を裏切ることはない、津軽の一種の誠実な性格によるもので、その誠意が国を越えて相手にも通じたのであろう。

 養生会の創始者伊東重の子供、伊東六十次郎(1905-1994)の生き様もすごい。弘前中学、弘前高校から東京大学に進んだ六十次郎は、北一輝、大川周明の国家主義に共鳴し、満州の大同学院の創立に関与し、同学院の教授となった。その後、昭和11年の二・二六事件では満一年拘禁されたが、出所後には石原莞爾の東亜連盟同志会創立に参加した。根っからのナショナリストで終世、石原莞爾の思想を信奉した。とくにすごいのは、戦後、シベリアに抑留され、収容所で何度も民衆裁判にかけられても、全く国体護持の思想はゆらぎもせず、逆に収容所の待遇改善を目指した「ハバロフスク事件」を昭和30年におこし、公然と収容所内で紀元節を挙行するようになった。シベリアに都合12年も抑留されたが、その信念には変化はなかった。思想的には賛否もあろうが、戦前、収容所、戦後とも全く信念は揺らぐことなく、首尾一貫した生き方はみごとである。

 山田良政、純三郎、工藤忠、伊東六十次郎のように、ある人物に惚れ込み、ぶれることなく、誠実に、愚鈍に信奉していく気質は、津軽のよき気質であり、すぐに時代の流れに左右される私のような大阪人に見られない美点であろう。ただ商売向きの気質ではなかろう。

2011年11月25日金曜日

映画「阪急電車」


 映画「阪急電車」をDVDで観た。上映当時見たかったが、弘前では上映されず、ようやく昨日見ることができた。原作とはかなり、設定も変わっているが、脚本家が優秀なせいか、うまく出来た映画である。

 西宮北口から宝塚までの15分間、宝塚線を舞台にした映画であるが、色々なエピソードをうまく配合している。とりわけ、うまいなあと思ったのは、売れっ子の芦田 愛菜のおばあさん役をした、宮本信子さんである。彼女は名古屋出身だが、微妙な関西弁をうまく使っている。阪急沿線に住む年輩の方で、ご主人が住友商事、丸紅など関西系の会社の高い地位の方で、転勤で何度か東京にも住んだという方の関西弁である。関西弁というと大阪弁を思い起こす方の多いと思うが、大阪と神戸は明らかに違うし、大阪と神戸間、阪神地域に住む人の関西弁も微妙に違う。また阪神、JR、阪急の3つの沿線でも言葉が違う。阪神尼崎から西宮はほぼ大阪弁であるのに対して、西宮でも山手、阪急沿線西宮北口、夙川、宝塚線はやや神戸の話し方に近く、芦屋、御影といった方面に近い。一方、阪急沿線でも武庫川を隔てた塚口、武庫之荘は大阪弁の影響が強い。これが違いだとははっきりは言えないが、微妙な違いがある。宮本信子さんはこういった微妙な違いをうまく表現しており、西宮出身の芦田 愛菜よりうまいくらいだ。

 電車に中での人の話し声というのは思った以上にひとは聞いているのもので、高校生のころ当時よく読んだ本多勝一の「NHK受信料拒否の論理」を友人にしゃべっていた折、うちの姉の友人が同じ車両の前(私は後ろ)にいたが、その話を聞いて妙に感心し、勉強になったと後日語ってくれた。お恥ずかしいことである。

 先日帰省した折、阪急電車に乗ったところ、前の席に座っていた60歳くらいのご婦人が妙にそわそわしている。そのうち「この電車は神戸にいくんですよね」と聞いてくるので、「ハイ、神戸に行きますよ」と答えたが、あまり納得せず、携帯電話で娘らしきひとに聞いている。それでも心配そうなので、「どうしましたか」と聞くと、娘さんのいる夙川から電車に乗ったが、間違って逆方向、大阪行きの電車に乗ったと思ったようである。60歳にしては少女ぽい服装をしていて、バックには宝塚の女役スターのシールを貼っている。どうも極度の方向音痴なため不安なのであろう。そう察して、色々とお話をしたが、私は六甲で下車したため、「心配いりませんよ。終点まで乗って、そこで駅員さんに聞けば必ずおうちに帰ります」と言って別れた。その後、どうなったであろうか。

 また高校生の頃、一言も話したことはないが、好きだった子に、卒業後5、6年たってから阪急電車内で偶然に再会した。中学生だった子が今風のあんなにきれいな大学生になったと、その変貌に本当にどきどきした。感激にふけっている間に疾風にように彼女は私の前を走り去ったが、未だにその光景が目に浮かぶ。こういったことが起こるのが、阪急電車で、今はうちの長女は西宮北口に、次女は門戸厄神に住み、映画「阪急電車」で舞台になった大学に通学している。自分が経験した過ぎ去った阪急電車の思い出を追従してほしいと思い、住まいを決める際には助言した。

2011年11月19日土曜日

歯科用デンタルレントゲン



ヨーロッパ歯科放射線学会のガイダンスを前回示したが、そのうちのデンタルレントゲン写真の部分をもう少しくわしく説明したい。

私のところはアナログデンタル写真を使っているが、矯正歯科専門なので使う量は限られている。ただ一般歯科医院で最もよく使われるレントゲン写真はこのデンタルレントゲン写真であろうし、大きさの割には比較的被爆線量は高い。

インターネット上で歯科医院を検索すると、多くの歯科医院でデジタルにすることで被爆線量を従来型の1/10に低減できたとしている。患者さんにとってより安全という訳である。ただこの根拠はあやしい。

アナログデンタル写真で使うフィルムは感度によりDタイプ、Eタイプ、Fタイプに分かれる。割合よく使われるのは、Dタイプであるが、近年被爆線量の低減からEあるいはFタイプを使用する先生も多くなっている。ヨーロッパ歯科放射線学会でもその使用が推奨されている。値段は若干高いが、普及されていない訳はあまり知られていないためであろう。

前述のガイドラインではE感度の線量を1とした場合の、デジタルシステムの線量は0.5から0.75、IPよりCCDの方が感度は高いので、CCDで0.5倍としよう。F感度のフィルムを使った場合は0.8倍であるから、FタイプとCCDデジタルを比較すれば、5/8、すなわち62.5%ということになる。約2/3と考えてよい。最近の某社のカタログ値では最新のCCDデンタルは性能が上がり、Dタイプの1/6としているが、これとてFタイプと比べると1/2くらいであろう。

CCDの受光部の大きさは、フィルムの2/3程度と考えれば、実質的にはF感度のフィルムとCCDの線量はほぼ同じと考えてよい。線量が少ないからといって、大臼歯部で2枚とれば、線量の総計はフィルムより高くなる。

かってこのメーカーは、今はもうない低感度のC感度フィルムと比較して、CCDデンタル写真は1/10という数値を出してきたようだ(http://www.geocities.jp/symyky1019/x-ray.html)。1/2とか1/3とかでは宣伝効果が弱いと考えたかもしれないが、ちょっとこれはひどい。同様に、パントモ、セファロ写真でも1/10という数値を出してきているが、これも希土類増感紙と高感度フィルムと比較した値ではなかろう。事実、IPを用いたデジタルパントモの線量は、フィルムと同じ、場合によっては高いという研究もあり、CCDを用いても、線量が1/10になることはないであろう。せいぜい1/2から2/3くらいの低減と推測される。

線量が1/10になるという誤解は、確かにメーカーのうたい文句を信じた歯科医側にも問題があるが、私自身、つい最近まで2004年に出されたヨーロッパのガイダンスの存在すら知らず、多くの先生方も同様であろう。こういったガイダンスは歯科医師会で会員に知らせるべきであり、少なくともE、F感度のフィルム、希土類増感紙の推奨、移行に積極的に関与すべきであろう。さらに言うなら、歯科メーカーもあまり医学的に根拠のない数字を広告に出すべきではない。某メーカーは2002-4年ころには盛んに放射線量が1/10になるという宣伝していたが、これだけHP上でこの数値が一人歩きしている状況は、患者に誤解を生む恐れもあり、正確な情報を伝える義務があると思う。

2011年11月17日木曜日

歯科用CT



 近年、歯科分野でもIT化の勢いはすさまじく、とくに歯科用レントゲンではデジタルレントゲンが主流となり、かっての銀塩カメラと同様に昔ながらのフィルムを使ったレントゲン撮影は急速に衰退している。製品の多くもデジタルレントゲン装置が中心で、わずかに1、2機種フィルムタイプの機種が残っているだけである。さらにインプラントをやる歯科医院が増えるとともに、歯科用CT、コーンビームCT装置を導入する歯科医院も多い。現在、歯科器材業者はCT装置の販売に力を入れている。

 ところがヨーロッパ、アメリカでは、2009年頃から歯科用CTによる被爆が問題化されるようになり、その使用についてガイドラインが設けられた。欧米におけるガイドラインの意味は大きく、それに従わないと裁判では不利になってしまう。このガイドラインでは、基本的には通常の臨床での歯科用CTの使用は禁じられ、とくに小児の撮影はかなり制限されている。矯正歯科でいうと、対象は埋伏歯(断層幅を狭くして)、唇顎口蓋裂、顎変形症などに限定され、それ以外の頭部全体をスキャンすることは被爆線量の点から推奨されていない。

 それを受けてか、アメリカ矯正歯科学会雑誌も確か2009年ころ、編集委員長が巻頭言でヨーロッパのガイドラインを紹介し、それ以前はコーンビームCTを使った研究一辺倒であったが、これを契機にコーンビームCTの研究、あるいは症例報告は激減している。ひとつには編集委員会の段階で、こういった研究をリジェクトしていることによるだろうし、研究機関、大学での倫理委員会でも研究のためにCT撮影が許可されないためであろう。

 一方、日本では日本大学の新井 嘉則先生が、クインテッセンス紙上で2度ほど、CT撮影の使いすぎを警告しているが、インターネット上では相変わらず、最新の装置として歯科用CTの存在が誇示されている。また矯正歯科雑誌においても、歯科用CTを用いた分析法などの論文が見られるが、通常の矯正患者に対して、積極的にCTを撮るような趣旨は上記のガイドラインに反する。確かにコーンビームCTを撮り、頭部を3次元、立体的に把握できることは、私個人としてはすごいとは思うが、直接診療方針を左右するものではない。歯科矯正臨床で治療出来るには、歯の移動を主体としたもので、頭部全体の骨のゆがみをコントロールできるものではないからだ。従来型のセファロとパントモ写真で問題はないし、外科的矯正や埋伏歯がある場合は、大学病院にCT撮影を依頼すればよい。症例としてはそう多くない。

 また歯科医院の方もデジタルレントゲンの導入により被爆線量が1/10になった、私のところは安全に気をつけていますと盛んに宣伝している。ただこの1/10というのもくせ者で、どうも初期のレントゲン会社がこういったうたい文句で宣伝した残滓が残っているようで、感度を上げれば画質は低下し、従来のフィルムと同程度の新鋭度を得るには1/10ではとても無理で、医院でも実際の撮影条件は1/10の線量で撮影しているとは言えないし、逆に見えないようなレントゲン写真を撮る意味がない。医科の方では、メーカーも従来型より放射線量が小さくできるという表現にとどまっている。ちなみにもともとパントモ、セファロは増感紙を使っているため、被爆線量は少ない。

 歯科レントゲンによる被爆線量についてのアメリカでの動きは、歯科とは関係ない中村隆市さんのブログにくわしい。(http://www.windfarm.co.jp/blog/blog_kaze/post-7007)またヨーロッパのガイドラインは日本語されていてわかりやすい(歯科X線診断における被曝 歯科X線検査の放射線防護に関するヨーロッパのガイドライン:歯科診療における安全なX線の利用のために http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsomr/European%20guidelines.pdf)。かなりきびいしい内容のガイドラインであるが、いくつか紹介したい。歯科用デンタルフィルムは感度の高いE,あるいはF感度のものを、またセファロの撮影では希土類増感紙に使用が推奨されている。またCCDを用いたレントゲンではE感度のフィルムの30%程度の低下(F感度と同じくらいか)になるとしている。またこのガイドラインではCCDによるデジタルパントモ撮影は増感紙を用いたフィルムより線量低減はないとしており、上述した1/10になるという意見は完全に否定されている。昨今は、福島原発事故以降、患者さんの放射能に対する関心は高く、歯科医師、学会、歯科医師会も十分な対応が必要と思われる。一読をお勧めする。

2011年11月11日金曜日

縮小する日本



 私の友人の弘前大学教育学部のAnthony Rauschさんがこのほど「Japan's Shrinking Regions in the 21st Century: Contemporary Responses to Depopulation and Socioeconomic Decline 」という大部の本をCambria Pressより出版した。内容は未読でくわしくはわからないが、アマゾンコムの書評では年間50万人ずつ日本では人口現象が続き、2030年には老人と活動人口の比率が1:1になり、同様なことがドイツや韓国、さらには中国にも将来起こりうる。こういった将来像を見るにあたり、すでに人口の減少、産業の崩壊、老人化といったShrinkingな地方、多くは日本の周縁部の事象を観察することで将来のあり方を検証しようというものである。社会学者、経済学者などが日本の20くらいの地域の現状を紹介している。

 トニーに結論を聞くと、Acceptance of the Fateという言葉が帰ってきた。「運命を受け入れる」ということになろう。人口,産業が縮小していくのはしかたない、そういった環境の中で人々がいかに幸せに暮らすか、それを考えていこうということだ。青森県の場合、伝統的な文化、芸能、産業が多くあり、それをいかに有効に使うか、それが縮小する辺縁部の将来を握ると。Negativeに考えると、青森県は核廃棄物などのゴミ捨て場として生き残る方法もあろうが、もっと運命を前向きに、Positiveに考え、自然、風土、人間に恵まれた故郷を愛し、貧しいなりに楽しく過ごすということだ。

 地元のスーパーに行くと、鶏、牛、豚肉はオール青森産でカバーできるし、魚もそう、野菜、くだもの、米も自給できる。さらにスキーに行くなら中心街から30分以内に行けるし、ゴルフ場もそうだし、料金も安い。農家では、野菜、米を作り、鶏を飼い、秋に山に行けば山菜、きのこも採れるし、川や海に行けば魚も捕れる。物々交換で何でも手に入る。都会では10万円での生活は無理であろうが、青森では十分に楽しい生活ができる。さらに医者不足といわれているが、病院の数は多く、老人ホームの入居料も驚くほど安い。趣味にハマりたいなら、バレエ、オペラ、交響楽団、合唱、ダンス、書道、絵画、お茶、お花、さらに渋いところでは平家琵琶、能だってある。それもレベルが高い。

 マイナスを挙げるよりプラスの面を挙げる、ポジティブ・シンキングをすれば、決して東京より劣ったところではない。景気は停滞しているが、日本に長年住んでいる外人さんによれば、治安がよく、何よりも物価が安定しているのが何よりだそうだ。給料が高い、昇給すると行っても、物価上昇が高いと落ち着いて生活できない。ハワイを楽園とする向きもあろうが、夏の暑さが嫌いな人もいるであろう。

 おかげさまで、「明治四年弘前絵図」書店販売分何とか完売しました。紀伊国屋書店弘前店の皆様、ありがとうございました。書店で80冊、インターネットで30冊、友人、関係者、図書館、大学への寄贈が140冊、計250冊、残り50冊は手元に置く予定です。もう少し、インターネットでの販売は継続しますが、希望者は早めにご連絡ください。本製作、販売を通じて、多くの人々で出会えたことは何よりの宝です。特にインターネット販売では、購入希望とだけ伝える人は少なく、自分と弘前との関係をくわしく綴っていただき、改めて多くの弘前出身の人物を知ることができたことは、今後の研究の糧になります。こういった本と通じて、読者と弘前の絆が強まったのであれば、望外の喜びです。

 ただ購入者の多くは、50歳以上のどちらかというと年配の方が多く、附属した絵図データーの入ったCDは、あまり活用されていないようです。最初、出版にあたりCDより地図を入れた方がよいとの助言がありましたが、結果的にはこれに従っていた方がよかったかもしれません。次回作、といってもいつになるかわかりませんが、文章中心にまとめたと思っています。

2011年11月10日木曜日

山田兄弟41



今日は、期待作ジャッキー・チェン主演の「1911」が上映されているというので、青森まで行ってきた。弘前では公開していないので、新青森まで電車で行き、そこから歩いてコロナワールドという映画館に向かった。何年か前に一度、このモールに行ったことがあるが、新青森からだと歩いて15分、割合近い。

映画「1911」はジャッキーが演じる黄與と孫文による辛亥革命の成就までを扱った作品であったが、正直がっくりした。全くおもしろくない。山田兄弟を通じて辛亥革命に興味がある私でさえこうなのだから、一般客には退屈な作品であろう。平日の午後という時間帯とはいえ、観客数はわずか5名であった。辛亥革命100周年の記念として作られたモニュメント的な作品であり、あまりエンターテーメント的な作品作りが出来なかったことによるか。孫文が美化されすぎ、いたるところに孫文の演説が登場する。むしろ悪役の袁世凱の方がおもしろかった。黄與以外の人物は、そっくりさんを起用したのではないかと思うほど、顔が似ている。さすがに黄與はあのままでは映画的にはきつく、これはジャキーでよかった。

実際の辛亥革命は、軍隊内の革命派の兵士が、暴動が発覚し、どうせ処刑されるならとわずか40人の第八師団の工兵が上官を射殺したことがきっかけで、決起した。すぐに3000人の兵士が呼応し、政府軍の抵抗もわずかだったという。映画とはだいぶ違う。また、その後の政府軍の反撃も映画で登場するほどのものではなく、ほとんど抵抗はなかったようだ。革命が成功しても孫文はすぐには帰国せず、まずヨーロッパ諸国の同意を取り付けたうえ、帰国した。マルセイユを出航した孫文は香港に向かい、前もって連絡しておいた日本人同士の宮崎滔天や山田純三郎らと会った後、1911年12月25日に上海に到着した。多くの中国人革命同士とともに日本からの駆けつけた犬養毅、頭山満などの姿もあった。孫文が上海に到着した時点では、革命までの功績は孫文より黄與の方が大きいとし、大総督の地位は黄與の望ましいという声も多かったが、何とか説得し、孫文が臨時革命総統に選ばれた。孫文が総統になった時からは政府軍の攻撃がすさまじく、映画の内容に一致している。何しろ革命軍は武器も金もなく、袁世凱率いる新軍に攻撃に対抗できなかった。どうしても清朝打倒を優先させたい孫文が袁世凱に妥協したのは映画の通りである。

写真上は中国のHPから引っ張ってきたもので、不鮮明であるが、保坂正康著「仁あり義あり、心は天下にあり」に少し鮮明な写真が載っており、上海の黄公館での写真(1912.6.30)で、前列左から3人名に山田純三郎の姿が見える。純三郎がだっこしている子供は、黄與の二男である。映画に登場した黄與の妻は二人目の妻(子供は娘)で、この子は前妻の子供ということか。純三郎の後ろには黄與が、その隣には孫文が写っている。純三郎と黄與の交流関係がわかる写真である。次の写真も同様に中国のHPから引用したものだが、説明では1899年日本人革命同士との写真となっている。前列右から3番目は廖 仲愷のようだし、二列目右端は萱野長知、3人目は孫文、その隣は若き日の純三郎のような気がする。純三郎の後ろは宮崎滔天と思われる。純三郎が孫文に会ったのは1900年、廖 仲愷が孫文に会ったのが1903年だから、この写真も1903年以降の可能性もある。

*増田俊也著「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか」。701ページの久しぶりの大部の著作で、ようやく読み終えたが、おもしろかった。ある格闘家のやるせない人生と著者の強烈な思いが、読者を引きつける。

2011年11月3日木曜日

山田兄弟40




 近年、日本から海外へ留学する学生は減ったと聞く。アメリカへの留学生の多くは、中国人、韓国人だそうだ。

 弘前からも、かっては多くの若者が夢を持って海外へ飛翔した。明治初期、10年には東奥義塾の優秀な学生、珍田捨己、佐藤愛麿、川村敬三、那須泉、菊池群之助らが最初の留学生として渡米し、明治18年には笹森卯一郎、益子恵之助、高杉栄次郎などが続いた。初期の留学生は、日本に来ていた宣教師の思惑、日本人の宣教師を作るという目的もあったかもしれないが、東奥義塾の英語教育の水準の高さから、現地においても早い時期にとけ込み、優秀な成績を収めた。

 その後も、海外、ことにアメリカへの留学熱は続いたが、明治30年頃から飛躍的に増加した。弘前は県庁所在地が青森市に移ったため、町は一時衰退したが、第八師団の設置に伴い、再び、活況を呈し、留学者数も増加したものと思われる。さらに成功例として珍田らの活躍もあり、東奥義塾での外国人宣教師の親しみも相まって、東京を超え、いきなりアメリカに向かったようだ。

 孫文の辛亥革命に協力した山田兄弟の長男良政は中国に渡り、恵州起義で戦死し、3男の純三郎は長く中国にいて孫文の秘書として活躍した。さらに二男清彦、四男の四郎はアメリカに渡り、ついに日本には帰ってこなかった。山田浩蔵の息子4人すべてが海外に行き、帰国したのは純三郎だけである。清彦、四郎の生年月日は不明であるが、残された写真から清彦は明治5、6年ころ、四郎は明治12、13年ころと思われ、昭和3年発行の青森縣総覧によれば、四郎が明治33年ころに最初に渡米し、続いて、明治34,35年ころに清彦が渡米したように思われる。清彦、四郎はともに東奥義塾卒業であった。同時期、和徳小学校から弘前中学(青森県立中学校あるいは東奥義塾?)を卒業し、早稲田から渡米した日系ジャーナリストの藤岡紫朗は明治12年生まれで、明治30年にアメリカに行くが、同世代の四郎が渡米したきっかけになったかもしれない。当時は、自由民権運動に対する弾圧がきびしく、また薩長以外の地方からは栄達の道は閉ざされていたため、愛想を尽かして、渡米した者も多くいた。

 須藤かくという弘前出身の女性は、明治20年ころに渡米し、阿部はなとともにアメリカに渡り、アメリカの医科大学に進学して医師となった。荻野玲子が女性として日本人初の医者になったのが、1884年であるから、須藤、阿部らも相当早い時期の女医であり、日系初の女医である。1900年ころに同級生のDr.Kelseyらとともに一旦日本に帰国して宣教活動をした後、妹の嫁ぎ先の成田一家と一緒に再び渡米し、アメリカの友人のところに世話になったりして、104歳の天寿を全うして亡くなった(http://www.wiltonnewyork.com/BioNarita.html)。現在アメリカにはその子孫がいる。須藤かくは1861年生まれで、その経歴からは函館の遺愛女学校を卒業し、その関連から渡米して医師になったものと思われる。当時、医師資格試験は女性に門戸を閉ざしており、唯一海外の医科大学を卒業したものに限り、医師の資格を与えられた。明治初期の女性史において完全に忘れられた存在である。

 工藤盛勝という人がいる。明治19年に弘前で生まれ、青森中学校を卒業後に、明治38年に渡米し、オレゴン州のNorth Pacific Dental Collegeに入学し、歯科医となりカリフォルニアで開業した。日本で最初の歯科大学、高山歯科医学院ができたのが、1890年であるから、これも早い。普通なら、歯科医になろうとするならまず東京に行くであろうが、工藤の場合もいきなり東京を超え、アメリカに向かった。

 明治期の弘前は、よほど先進的な町であり、山田清彦、四郎、藤岡紫朗、須藤かく、工藤盛勝はいきなりアメリカを目指した。高杉滝蔵、良弘ら高杉三兄弟のようにアメリカ留学後に日本に帰国したものは、それなりの地位につき、記録も残っているが、山田清彦、四郎、藤岡紫朗、須藤かくのように帰国せず、アメリカに残った人々は、ほとんど日本には記録がなく、評価もされず、忘れられている。こういった人物は他にもいたであろうが、全くわからない。

 写真上、左の人物は、山田四郎、写真下右端の人物が山田清彦と思われる。情報をお持ちの方は是非ご連絡ください。本当に何もわかりません。

2011年10月27日木曜日

Art Coreというお店




 わたしがキリムや絨毯などのラグに興味を持ったのは、家を新築するにあたり、何かリビングに敷くカーペットを探していたことがきっかけです。当時、モダンリビングという雑誌をよく購入し、家の設計について検討していましたが、その雑誌の小さな記事に西宮のアートコアのことが載っていました。実家とも近かったので、阪急夙川近くのアートコアに初めて行ったのが1998年ころのことです。こういったお店に行くのは、生まれて初めてで、白いモダンな建物の中に入ると、まず壁にコーカサスの絨毯が飾られ、奥にはダークブラウンの板張りの広い部屋があり、四隅にキリム、絨毯が積み上げられていました。新築の部屋に敷くキリムを探していると伝えると、部屋の雰囲気、大きさに沿ってキリムを次々と広げ、見せてくれます。

 その時に購入したのが、イランのローリ族のものです。土をイメージさせる配色と白のアクセントが効いたすばらしいものでした。時代は1940年ころのものです。もともと調べるのが好きな性分なので、このキリムのことを調べるために、「kilim the complete guide」という本を購入し、勉強しました。キリムの持つ奥深さを知ることができました。その内、もう一枚ほしいと、再度art coreを訪ね、購入したのがイラン、セネのキリムでした。このキリムはセネ独特の目が回るような図案がなされ、小型ですが、実に味わいのあるものでした。時代は1930,40年ころと思います。セネのキリムは比較的時代を推測するのは難しくありません。その後、セネをもう一枚ほしいと思い、買ったのが写真下のもので、時代は1950,60年代のものです。竹原さんはあまり勧めませんでしたが、どうしてもセネをと買ったのですが、派手で私の持っているラグでは一番好きではありません。その後、イラン、アフシャールのキリムを買ったのですが、これは編みが半端でないほどきっちりとしており、逸品だと思いました。その頃、2002年ころですが、キリムもいいものはイラン、トルコから消え失せ、先のアフシャル族のものも確か、スイスかドイツで竹原さんが買い付けたものです。いわゆる品薄状態になってきたようで、それに比例して値段も高騰しました。

 Artcoreでも、キリムの価格が絨毯の価格と近くなり、コーカサスの絨毯も揃えるようになってきました。そこで私もキリムからその本家である絨毯に鞍替えし、まず最初に買ったのが、コーカサス、カザック(Fachralo?)のものでした。時代は比較的若く、20世紀初頭のものですが、織り手の若々しい感性が現れた作品で気に入っています。他にもすばらしいコーカサスの作品があったのですが、金額の関係で購入を諦めました。その後、診療所用にイラン、ザーランドの新しいキリムも購入しました。これは1960,70年代のものと思われます。2005年突然、竹原さんから店を閉めるとの知らせが来ました。びっくりしましたが、在庫品を半額で売りますとのことで、3点の絨毯の写真が添付されていました。一点はコーカサス、カザックのもので緑色のグランドが美しいもので、19世紀後半、それにコーカサス、カラチョフのもの、これは少し若く20世紀初頭、3つ目は、トルクメン、サリークのもので、19世紀後半のものです。これらが半額ですので、十分に射程圏内です。この頃は、家内もあきれ顔で早くやめてほしいと思っていたのでしょう。コーカサス、カラチョフはパイルもすり切れてはいますが、コーカサス絨毯が好きなひとには、たまらないもので、すぐに購入を決めましたが、もう一点トルクメンのものは、信じられないほどコンデションがよく、上等のウールを用いているのでしょうか、ビロードのような肌触りでした。竹原さんはこれを推奨しているようでしたが、2点も買うのはまずもって家内には承諾得られないので、諦めました。これほどの逸品はその後もあらわれず、未だにくやしい気持ちです。(「借りくらしのアリエッテイー」の舞台の邸宅。玄関ラグはクルドかコーカサス絨毯(Genji?)ではないでしょうか。)

 Artcoreの閉店(今は娘さんがやっています)後、一切ラグ類は購入していません。ラグの展示即売会があれば、顔を出すようにはしていますが、artcoreで目が肥えてしまい、全く興味は持てません。何より竹原信爾さん、祥子さんご夫婦ほど該博な知識をお持ちの方はおられず、こういった方と知り合いになり、良質なラグを購入できた事は本当に良かったと思います。竹原さんは白鶴美術館、絨毯美術館のラグの購入、鑑定にも関わってきた、この分野では日本の第一人者と思います。2002年ころからは、イラン、トルコに行っても気に入ったものがなく、ドイツ、アメリカ、イギリスなどで買い付け、イラン、トルコで修理して売るようでは、商売的には成り立ちにくいとこぼしていました。現在は、さらに状況はきびしく、トルコ、イランはもとより、アフガニスタンですら良質のラグはなく、あったとしてもべらぼうに高く、家庭のインテリアで使うようなものではありません。

 すばらしいキリムの産地、トルコ、ワン地方での地震がおこりました。他人事とは思えません、何とか先の東日本大震災のお返しをしたいと考えています。

2011年10月23日日曜日

名古屋日本矯正歯科学会



 今週の火、水、木曜日の3日間、名古屋で開催された日本矯正歯科学会大会に参加してきました。弘前から名古屋までのアクセスは悪く、朝5時40分弘前発の電車に乗り、新幹線で名古屋に着いたのは、12時30分、その後、友人のいる三重県津市まで近鉄で1時間半、津に着いたのは3時ころでした。

 これまで日本の多くの県庁所在地を訪れましたが、失礼ですが、これほど寂れた町は初めてです。以前佐賀市を訪れたときも寂れているなあと思いましたが、それ以上で、繁華街の大門というところを歩きましたが、全く人通りはなく、店の7、8割は閉まっていました。5時ころに行ったせいかもしれません。近鉄津から友人の開業している隣駅の津新町まで歩きましたが、ほとんど店がなく、人通りもありません。市内の唯一の観光地津城跡を見ましたが、これがお城かと思うほどこじんまりしたところで、津藩32万石の城下町とは全く想像できません。おそらく戦前の空襲で旧市内のほとんどが焼失したことが原因と思われます。さらに交通網の発達により、大阪まで1時間半、名古屋まで1時間までと、大都市に近接していることも商業の低下を招いたようです。

 夕食は友人の歯科医院の隣の津ミートカシワギという肉屋さんの2階で焼き肉を楽しみました。この肉はさすが天下の松坂牛、ちょっと焼いてレアで食べても、甘く、柔らく、絶品のものでした。今年は、神戸で神戸牛のすごいのを食べましたが、それ以上のものでした。店作りは普通のお店ですが、津にはこういった隠れた名店が他に多くあるのでしょう。町は寂れていますが、こういった町こそ住めば、いっぱい面白いところがあるのでしょう。観光客にはまったく向いていません。

 次の日は名古屋に向かい、学会に出席してきました。学会自体はそれほど目新しいものはなく、主として最近のトレンドをキャッチするような場です。リンガル、インビザラインはやや頭打ち、矯正用インプラントも普及されすぎ、特に新しいものはありません。今回の学会で一番面白かったのはフェイシャルセラピストのかずきれいこさんの講演でした。以前にも矯正学会で講演があり、私は3度目です。かずきれいこさんは、以前からリハビリメークを提唱され、あざ、傷跡などに対するメークを積極的に大学病院などと連携して進めています。彼女の一番の魅力は、顔にただ痣がある、傷あとがあるというだけで、精神的に大きなハンディを負った人々を何とか元気づけたいという思いが、ひしひしと感じられます。私のような矯正歯科医も美に対するハンディを解消する役割を持っていますが、現実問題として顔にハンディを持つひとは、体が健康でも精神的には大きな負担を負っています。それをリハビリメークで人前に自信をもって立てるようになることは、本当に大きな意味を持ちます。こういった使命に対して彼女は全力で取り組んでおり、そのバイタリティーには頭が下がります。

 今回、彼女はかずきデザインテープという新たな武器を持ってきました。13年ほど前からニチバンに作ってくれと言ったけれど無理と言われたものが、ようやく完成したとのことです。従来のリハビリメークはファンデーションなどでカバーするものでしたが、このテープを使うことでリストカットの傷跡のように皮膚がでこぼこしているような状態でもテープを貼り、その上からメークをすることでほとんど目立たなくなります。小林製薬から「アットノン」という傷跡を減らす軟膏が非常に売れているようですが、こういった悩みをもつ方は多いと思います。まずテープ、化粧によりできる範囲でリハビリーメークを施し、化粧の限界を知った上、形成外科に紹介するとのことでした。口唇裂の患者さんでも、何も再手術しなくても化粧で十分にカバーできる症例は多く、うちの患者さんにも何とか、方法をお伝えしたいのですが、こちらにはリハビリメークをするひとはいないようです。大学病院の形成外科で指導者の養成を行ってほしいものです。

 帰りに名古屋の三越に寄った折、かずきれいこさんのお店が三越にあったので、店員さんにお話を聞き、テープを見せていただきました。すごいものです。試しに家内の手に貼ってみましたが、ほとんどどこにつけたかわからないほど薄く、その後、10時間後に家に帰り、剥がそうにも、どこにつけたかわからず、何とか水に濡らしてようやく剥がれたというものです。確実に1日中つけても問題はなさそうです。

 かずきさんも講演で言っていましたが、歳をとり、しわができてもかまわないのではないか、しわ、しみは美しい、それでもちょっと若返りたい、気分を明るくしたいのであれば、化粧をすればいい。アンチエイジングには、このテープは抜群な威力を発揮しそうで、今後日本初の新たなツールとして全世界に広まる可能性を持ちます。形成外科によるフェイスリフトという手術が、アメリカでは美容外科の主流で、究極の若返りということで多くの方が手術を受けています。これを手術なしで費用もかからずできるのですから、すごいことです。

 かずきれいこさんのテープにご興味のある方は http://www.kazki.co.jp/infomation/2010tapekit_lp/index.htmlを見てください。おかげさまで180万枚突破となっており、知らないのは私だけだったのでしょうか。三越の店員さんいわく、「使っている方は多いんですが、内緒にしているようです」。さもありなんです。

 写真上は、津城跡、下は名古屋城です。名古屋城の鉄筋の再建ものですが、それでも古くなり貫禄が出てきました。

2011年10月17日月曜日

ある日どこかで


 子供の頃から、どうもタイムトラベルものの惹かれます。時空を超え、過去に行けたらという思いが強いのでしょうか。テレビでは、昔NHKで「タイムトンネル」という番組があり、夢中になって見ました。結構金のかかった番組でしたが、その後あまり再放送がなかったようです。今見ても十分に見応えのある番組と思うのですが。

 小説では、何と言ってもジャック・フィニーの「ふりだしに戻る」、ロバート・ハインライン「夏の扉」が傑作だし、日本では広瀬正の「マイナス・ゼロ」などの一連のタイムトラベルものも面白い作品です。

 映画でも、「時をかける少女」、「バックツフューチャー」ほか多くの作品がありますが、傑作は「ある日どこかで」でしょう。何度も再放送があり、皆さんも一度は見たことがあると思いますが、これは隠れた名作です。アメリカでは今でもファンクラブがあるほどで、私も少なくとも4回は見ています。どうも深夜12時ころから再放送されることが多く、途中で寝てしまって、最近、5回目ですが、久しぶりに最後まで見ました。作品については、Wikipediaでくわしく説明されていますが、ラフマニノフの曲といい、ジョン・バリーのテーマ曲といい、本当に切ない気持ちになります。時間の壁はいくら愛している恋人でも越えられないもので、この映画を見ると最後まで見てまた最初に戻るとより理解が深まります、深夜放送ではこれはできませんので、是非録画してみるかレンタルでみてほしいと思います。これほど有名な作品ですので、ネタばらししてもいいかと思いますが、主人公は最後に死んでしまいますが、これを始めからまた見ると、老婆のいう「come back to me」の言葉が本当に切ない言葉となってきます。そしてエンドレスの物語となります。

 過去の女性を愛する。主人公のクリストファー・リーヴのように写真を見て愛することはできないでしょうが、年配の女性を見て、若かりし頃に出会ったならば恋したと思うようなひとは多くいます。どうもこの映画は男性には受けが良いのですが、女性にはそれほど受けがよくなく、そういった意味では案外男性の方がロマンティストなのかもしれません。

 ついでに思い出しましたが、これもタイムトラベルものを言っていいのかわかりませんが、小学校6年生のころに読んだイギリスの児童文学の「トムは真夜中庭で」は本当に美しい物語で、特に凍った革をスケートで下るシーンは印象的で、よく覚えています。岩波少年文庫で今でも販売していますので、タイムトラベルものが好きなひとは一読を勧めます。

 もし5分だけ、過去の好きな場所に行けたら、どこに行きたいですか。私の場合は、ひとつは1960年の冬の自宅近くの三角公園のバス停。昔、ここで小学校の同級生のKさんと卒業以来、偶然に会って、一言のみ挨拶しました。後日、彼女は私の全く知らないうちに腎臓の病気で亡くなりましたが、もう少し、せめて5分間のみでも話せたらと思います。もう一つは、1973年7時10分の阪急塚口駅神戸方面のホーム。ここには毎朝、甲南女子の背の高い中学一年生がいましたが、当時は高校2年生と中学一年生と歳が離れていたため、結局一言も話さないまま卒業しました。もし5分あれば、名前と住所くらいは教えてもらえたかもしれません。どういう訳が今でも当時の愛らしいセーラ服は思い出しますが、顔のイメージは薄れてきています。名前くらいわかればフェースブックなどで探すこともできるかもしれませんが。

2011年10月13日木曜日

レニャーノのカタログ2





ファースト・コッピと一時代を築いたライバル、ジーノ・バルタリのテレビ映画です。ファシズムに反対し、ユダヤ人救助を行った人物だそうです。レニャーノのユニフォームはカタログよりは暗い色です。

レニャーノのカタログ






 世界的に自転車ブームのようです。とくにヨーロッパでは環境問題への関心が高く、国ぐるみで自転車の活用を進めている所も多いようです。オランダ、ドイツなどでは自動車から自転車への転換を勧め、市内への車の侵入禁止をしている都市もあります。さらにイギリスのロンドンでも、自転車専用道路が拡張され、郊外から市内へ自転車で通学、通勤するひとも多くなっています。

 日本でも若者を中心に自転車がブームになっており、弘前のような田舎町でもかっこいい自転車を見かけることが多くなりました。ついこないだまでは、マウンテンバイクが主流でしたが、もとより自転車としての美しさはあまりなく、最近はロードバイクの人気があるようです。ただしかっこばかり気にして、競輪用のピストバイクを乗るひともいますが、あれはあくまで競技用であり、いくらブレーキをつけたからといって町で乗るものではありません。

 以前、私の持っているイタリアのレニャーノ(Legnano)をこのブログで紹介いたしました。結構見ているひとが多いようです。レニャーノは戦前のイタリアではビアンキと並ぶ有名な自転車メーカーで、かっては英雄バルタリとファースト・コッピの両エースを擁して、ジロ・デ・イタリアなどで活躍しました。今ではビアンキ傘下に入り、細々と子供向けの自転車や廉価な一般車を作っています。イタリアの主要な自転車メーカーはほとんど、元自転車選手が創立しており、あの有名な部品メーカー、カンパニョーロもそうです。

 先日、本棚を整理していたところ、レニャーノのパンフレットが見つかりましたので、全ページをアップいたします。著作権無視していますが、エヌビーエス社さんお許しください。1997年のもので14年前のものです。このカタログを見ると、レニャーノのロードとツーリング車は日本のみで販売されたようです。ロード車はカンパニョーロを中心としたアセンブリで、ツーリング車はシマノを中心とした構成で、中級程度の部品を使っています。色はレニャーノグリーンで、結構力が入っているのはツーリングでマッドガードもオプションであり、私はそれをつけましたが、さらに専用の前後キャンピーもアクセサリーとして売っていました。フレームはおそらく台湾で製造されたと思いますが、アルミにしては比較的細いチューブ径で、溶接部の処理もきれいに仕上げています。

 最近ではクロモリも人気が出ているようですし、ビンテージ自転車も人気があります。できればクロモリ、ラグ付きの1950-60年の完全な復刻車を出してほしいものです。せめてカタログの最後に出ているレニャーノのウールジャージくらいは復活してほしいです。表紙のコッピが着ているジャージで。襟と色がかっこいいです。

2011年10月10日月曜日

黒石 金平成園




 昨日は天気がよく、電車で黒石に行ってきた。目的は金平成園(澤成園)が一般公開されたためである。この庭は平成18年に大石武学流の作風を伝える名庭として建物と一緒に国の名勝に指定されたが、その時に一般公開されて以来である。今回、やきそばサミットという全国の焼きそばを集めた催しがあり、それと関連して公開された。

 敷地は1700坪以上の広大なもので、工事が未完成のため、池にはいまだ水が張られていないが、個人の庭としてはみごとなものである。庭もすごいが、建物も贅を凝らしたもので、長い一本松を軒に用い、重い雪にも十分に耐えられるようになっている。これだけ長く、まっすぐな松は珍しいということであった。この母屋も修復がだいぶなされ、また別棟も以前は2階建てであったが、建築当時の平屋にすでに改築されていた。もう少しで庭と建物も修復が完了するといった状況である。

 関係者に少しお話を伺ったが、建物は一時料亭としても使われていたようで、母屋の裏からみる庭はさどかし美しい景色であったろう。庭のあちこちに往時の庭園の写真が飾っていたが、その中の一枚に金平成園を作った加藤宇兵衞とその子供たちが写っている写真があった。庭園完成後の写真であるから、明治35年(1902)以降のものである。加藤宇兵衞は生年は1862-1929であることから、40歳以降の写真で確か4人くらいの子供が写っている。以前紹介した岡村寧次大将の妻チエさんは1900年(明治33年)生まれであることから、もしこの写真にチエさんも写っているとすると、明治38年前後のものと思われる。岡村大将との結婚は昭和11年なので、岡村52歳、チエさん36歳ということになる。岡村は再婚だが、チエさんについては不明であるが、年齢的には再婚の可能性も高い。親類の方によれば、チエさんはドイツ留学の経験もあるとのことで、岡村との結婚前にドイツで暮らしたこともあるようだ。

 小学校は地元の黒石小学校に行き、その後、弘前高等女学校(現 弘前中央高校)あるいは、弘前女学校(現弘前学院)に進み、その後東京の学校に進学したのではと推測する。岡村は最初の妻と子供を亡くしており、チエさんとの間にも子供がいなかったようだ。

 今回の黒石では、この他にもこみせ通りの旧松の湯も公開され、これは昔の風呂屋はそのまま残っていて、おもしろかった。湯船と洗い場は銭湯にしては案外小さく10人も入れば、いっぱいになったであろう。一畳くらいの湯船がふたつあり、1mくらいの深さであった。昔の銭湯はこういう風に湯船が深く、子供たちは縁に掴まって入ったものだ。風呂の奥には住宅部があり、当時の生活が偲ばれる。

 弘前も物持ちのいい所で、古い建物が多く残っているが、黒石はさらに物持ちいいところで、私の友人も黒石は昭和のまま止まっており、なつかしいと何度も訪問している。金平成園、松の湯なども修復が完成すれば、さらに観光の諸点ができることになろう。加藤宇兵衞もこの庭園を観光客誘致にと考えていたようである。

2011年10月9日日曜日

弘前 偕行社





 建物のもつ力に改めて驚いた。とういうのは、昨日のロータリーの地区大会の懇親会で偕行社を使った。現在ある建物は、明治40年(1904)にできたもので、設計は弘前を代表する棟梁堀江佐吉である。もともとは九十九森と呼ばれた藩主の別邸で、鷹狩場のひとつであったが、幕末にはここで火薬の生産も行われていた。

 明治29年に弘前に陸軍第八師団ができたが、その士官の親睦、厚生組織としてこの偕行社が作られた。第八師団の初代の師団長は、東洋一の用兵家と呼ばれた立見尚文中将で、弘前に初めて来た時は、町中の人々がその勇士をみようと集まり、けが人もでたという。こういった偕行社は戦前全国各地にあったが、戦後多くの建物はつぶされ、現存している建物は旭川市、金沢市、四国の善光寺市、豊橋市、岡山市にしか現存しない。旭川のものは現在、旭川郷土博物館に、金沢のものは石川県立歴史博物館分室に、善通寺のものは善通寺市立博物館に、豊橋のものは愛知大学短期大学の本部につかわれていたが、今は何も使っていない。また岡山のものは移転して今は食堂と研修室になっている。

 こうして見ると、庭園も含めて当時の偕行社の姿を最もきれいに残しているのが弘前偕行社だけであり、室内は往時とほとんど変わっていないし、今回のような用途に使えるところも少ない。明治以来、陸軍主催のパーティーはおそらくここで、行われていたであろうし、まさにタイムスリップしたような幻覚を見る。軍服をきた人々が同じ場所で、同じような懇親会を開いた状況がまさに眼前に広がっている。こうした感覚はホテルの宴会場では絶対に味わえない雰囲気であり、歴史の重みが建物に染み付いており、それが場の空気を一期に明治時代に戻す力となっている。

 私自身、ここを訪れるのは初めてであるが、本当に感動した。これは全国、県内各地から来た招待客も同様な思いであったようだ。建物はその建てられた目的があり、博物館になったのでは、その魅力は薄れるし、単に建物だけであればこれほどの感動はなかったと思う。偕行社の本来の目的、この建物でパーティーが実際に行われてこそ、建物本来も魅力が出ているくし、招待客の感動を生んだと思える。

 そうはいってもよく見るとかなり損傷は激しく、早期の修復が必要である。今の状態を変えず、結婚披露宴や懇親会に使うのが最も建物の用途に沿った使いかたであろう。今回も便所の数が少なく、野外に移動トイレを設置し、食べ物も移動厨房を利用したが、こういった工夫をすれば、全く問題なく使用できる。また映画のロケ地としても活用できるし、現に「八甲田山」や「津軽百年食堂」でもこの建物が使われた。

 本当にいい経験ができたことを感謝したい。

2011年10月6日木曜日

私の英語



 英語。私はこの言葉だけは苦い思い出が多い。中学のころから、どうも英語は苦手で、成績もずっと悪かった。六甲中学、高校では英語の教師は、スペイン人のディアス先生とボストン生まれのハンコック先生、ペンネ先生であったが、いつも「君はどうしてそんな発音しかできないか」と言われ続け、どうもローマ字読みする癖があるようだ。生まれながら語学の才能にはほど遠いようである。

 同級生のNくんもひどく、今は埼玉大学の教授をしているが、彼も黒板ふきEraserをイラセルと呼ぶほどであった。ある時、彼が「you come to here」を「ユウ カム ツ ヘル」と発音し、神父でもあるディアス先生が「おまえは私を地獄(hell)に来いというのか」と激怒していたが、笑えなかった。私も同様な発音をしていたからだ。後日、彼が英作家ジェフリー・アーチャの奥さんが日本に来た時、通訳をしていたと聞いた時には驚いた。

 大学卒業後に矯正科に入ると、英文専門雑誌を読む必要性がでてきたが、これは専門用語だらけで、慣れれば1、2年で何とか読めるようになった。10年ほど前に三沢の米軍基地を訪問したことがあったが、そこで勤務している矯正歯科医と話していると、もう一人の一般歯科医はおまえらの言っていることはさっぱりわからんと嘆いていた。当然、矯正歯科医同士の会話はほぼ80%くらい専門用語と新しい矯正器材の話であり、一般のひとが聞いても全くわからないであろう。後で、そこに勤務する日本人衛生士からほとんど完璧に会話していましたねと言われたが、それは専門だからこそで、それ以外は中学生並みであろう。

 そこで奮起して10年前から友人の歯科医師とアメリカ人、毎週火曜日の夜にお酒を飲みながら英会話を習っている。内容は政治、経済から学術書までありとあらゆる分野に関する会話だが、これが一向に上達しない。というのも、英語の予習、復習を一切せず、毎週辞書を片手に参加しているだけで、全く勉強していないからだ。それでも辞書を引き引き、どんな内容でも何とか会話する自信はできた。ようやく苦手な英語が少し克服された瞬間である。

 ところが昨年、アメリカのボストンから来た高校生を4か月預かっていた。それも来た当初の4か月であり、全く日本語ができない。よっしゃ、得意?の英語でと会話したところ、これが全くといっていいほど解らない。こちらの言っていることは理解されているが、言っていることが聞き取れない。どうやらこれまでの3人のアメリカ人教師は日本人に合わせて簡単に、ゆっくりとしゃべっていることに気づいた。これにはすっかり自信をなくしてしまった。後日、アメリカ人教師に尋ねると、自分でも若者言葉をきちんと聞かないとわかりにくいよと慰めてもらった。よく考えると、この高校生は典型的な今風の若者で、彼のブログを読むと文法的には全くでたらめで、Getを本当に多用するし、どうやらボストン訛りがある。3年ほど前にサウスダコタの女の子を預かったときは割合わかったことから、中西部の方が訛りは少ないし、男より女の子の方が聞き取りやすいと考えた。しばらくすると少し、わかるようになったものの、その頃には彼の日本語の方が上達していた。

 「銅メダル英語をめざせ 発想を変えれば今すぐ話せる」(林則行著 光文社新書)は、こういった私には本当にそうだそうだと頷くことが多い本だった。いい本です。著者は書く、読む、話す、聞くのうち、最も簡単なのは話すであり、難しいのは聞くであると言っている。全くその通りで、話すのは内容がきちんとあれば、何とか通じるが、聞く方は本当に難しい。話すのは自分のペースでしゃべれ、内容が重視されるため、極端に言えば前述したアメリカ人矯正医との会話のように単語の羅列だけで会話が成り立つが、聞く方はその人独特のテンポや表現があり、難しい。私の場合は、男より女の人の方が聞きやすいし、若い人より年配の人、ネーティブよりそうでない人(過去の経験からすれば、クロアチア人、イタリア人、ドイツ人、韓国人、インド人)方が聞きやすい。ただどうも中国人の英語は変に流暢でわかりにくい。

 それでも外国人には、それほど抵抗はなくなったため、未だ拙い英語ながら、弘前に来た観光客には何とか話そうと心がけている。

2011年10月2日日曜日

クリニプスの折り畳み傘




 先日は、歯科医師会、医師会、薬剤師会からなる弘前市三師会で「明治二年弘前絵図」というテーマで講演させていただきました。持ち時間が1時間くらいなので、十分にお話し出来なかったことが悔やまれますが、熱心に聞いていただき感謝しています。その折、何枚か現在地の写真を講演に入れたのですが、わかりやすく、もっと他の場所を説明するにも現在の状況を写した写真を見せてほしいとの要望がありました。確かに弘前城の明治2年当時の説明をしても、なかなかピンとこないかもしれません。次回からは写真をもっと多用したいと思っています。

 写真は、ドイツのKnirps社の折り畳み傘です。世界で最初に折り畳み傘を作った会社で、色々な種類がでていますが、このうちMiniUltralightというものをAmazonで購入しました。特徴としては、折り畳み傘としては、がっちりしており、通常の骨組みは6本ですが、これは8本です。また広げた時の直径が96cmでかなり大きく、日本の二段折りの傘より大きいくらいです。若干重い感じがします。緑のものが日本製の小型の折り畳み傘で、黒が今回買ったクリニプスのものです。実際には写真以上に大きさには違いがあります。

 私自身、傘をしょっちゅう忘れてくるため、これまで全く興味がなく、高い傘を買えば、逆に盗まれる可能性も高いため、デパートでの特価品1000円といったものしか買ったことはありません。折り畳み傘の場合は、少なくとも盗まれる心配はないので、一度高い傘を買えば忘れることもなかろう、かえって大事に使うかもと思い、インターネットで検索したところ、ヒットしたのがクリニプスの傘です。自動式の折りたたみ機能をもつ製品は、何と8400円もするため、さすがに買う気はありませんでしたが、通常の何の機能もないMini Ultralightという製品は4200円なので、ちょっと高いが、思い切って購入しました。こういった場合、Amazonが送料無料でうれしいものです。秋から名古屋の学会などもあり、今後使ってみての感想をお話したいと思います。また使ってみて良ければ、親しいひとへのプレゼントには値段的にはいいかもしれません。

 傘というと私たちの世代は、「シェルブールの雨傘」を思い出します。上映当時、カトリーヌ・ドヌーブのパリ娘の美しさに恋しましたが、あのドヌーブが「しあわせの雨傘」という映画に主演しています。でっぷり肥えて、昔のファンにはがっくりの肢体です。明らかに邦題もそうですが、シェルブールの雨傘に引っ掛けた映画で、そういった意味ではドヌーブもかわいそうな気がします。68歳の作品で、映画冒頭から赤のトレーニングウェアで登場します。腹も出てパンパンの状態で、あれだけの美女が映画冒頭からこの姿態はきびしいものです。よくぞ名女優がこのシーンにOKを出したものです。圧巻は最後の国会議員に当選してからの風格です。ヒラリー・クリントン、田中眞紀子真っ青の存在感で、さすが大女優、人生謳歌を歌ってのエンドです。フランス映画の好きなひとには、結構楽しい映画ですので見てみてください。
 シェルブールの雨傘のYoutube載せましたが、この場面に出てくるロードレーサーかっこいいです。色合いからはイタリアのレニャーノぽい感じです。サドルの後ろの小さなバックに交換用のタイヤ、鍵と工具が入っています。ドロップハンドルのフラット部にブレーキをつけています。

2011年9月29日木曜日

山田兄弟39



 「新聞記事に見る青森県日記百年史」(東奥日報)に大正8年10月15日に行われた山田良政碑除幕式のことが書かれていたので、引用する。

 「30年前、第一次支那革命の際、殉死せる故山田良政氏の偉大な功績を永く後世に伝えんがため、孫文、犬養毅、頭山満、宮崎虎蔵(滔天)の諸子発起し、山田家の菩提寺なる弘前市新寺町貞昌寺境内に建碑工事中のところ、今日、竣工したるをもって、昨15日午前11時より除幕式を挙行したが、碑前には孫文の花輪はじめ造花、生花、数対供えられ、孫、唐の両氏の代理陳中孚、日本人発起人代表宮崎氏来臨し、山田家よりは母堂をはじめ故人の令弟清彦、純三郎の両氏、親族側は義弟の佐藤要一、菊地良一両代議士等臨席し、石郷岡市長、伊東、鳴海の両代議士、武田東奥日報社長、丸瀬市会議員、長尾前市長、藤田県会議員、その他地方有志者約百人参列するや、山田純三郎、佐藤要一の両氏碑前に進み、佐藤氏の愛嬢によって除幕さる。
碑は重さ約九尺の自然石にて、台石を合して丈余、孫文氏の筆刻左のごとく現る。 山田良政先生墓碑  略(碑文) 宮崎滔天氏直ちに碑前に進めて一揖(ゆう)したる後、発起人を代表してあいさつをなし、次いて僧侶の読経終わるや陳中孚氏は孫文、唐紹儀両氏の祭文を代読し、次いて佐藤要一氏は犬養氏の祭文を代読、それより棟方悌二、中村良之進両氏の祭文朗読、共鳴会代表藤田重太郎氏の祭文朗読、福島藤助氏の祭歌あり、次いて犬養、頭山両氏の電報報告ありて、遺族より順次焼香し、正午式を終われり」

 これを読むと、山田良政の弟(二男)清彦は、まだ日本にいた。一方、末の弟四男の山田四郎は、すでに渡米していたようだ。青森縣総覧(昭和3年発行)には明治33年以降のアメリカへの留学生を載せており、最初の方に山田四郎の名前が見られることから明治30年代には渡米した可能性がある。後に清彦も渡米するが、大正8年以降であろう。(よく見ると青森縣総覧には四郎の後の清彦の名も見え、四郎渡米後の早い時期に清彦も渡米したようだ。何かの事情で大正8年に帰国していた。)

 また孫文の片腕で、純三郎の友人である戴天仇が孫文に代理として大正5年7月19日に山田兄弟の父浩蔵の病気見舞に来た折の記事を引用する。

 「在上海の山田純三郎氏厳父浩蔵翁の病気見舞いのため、菊地良一氏は孫文の股肱たる戴伝賢氏を同伴し、18日午後3時半着列車して来青し、鍵屋旅館に休憩、即日午後4時10分発にて弘前に赴けり。戴氏は19日、弘前教育会、20日、青森教育会主催の諸講演、また弘前市長および有志は19日晩、酔月楼で青森市長および有志は20日赤十字支部でそれぞれ歓迎会を開いた。赤十字支部の招待会終了後、戴氏はかって上海で民権報を経営したることあることから東奥日報社を見学した。」

 酔月楼は、天明6年(1786)創業の弘前で最も古い料亭で、大正5年当時は元大工町の通りと親方町がぶつかるあたりにあった。大正9年に弘前中央病院横に移転し、名前も「なかさん」と変えた。うなぎのうまいところで何度か利用したが、今は富田に移転している。戴天仇(季陶)は日本大学にも留学した知日家で、日本のことをじつによく知っていた人物で、日本の軍国主義による中国と日本の関係を最後まで憂いた。日中の近代史においてもっと評価されてよい人物であろう。「孫文を支えた日本人 山田良政・純三郎兄弟」(武井義和著 愛知大学東亜同文書院ブックレット 2011)に、京都嵐山で遊ぶ、山田純三郎、戴季陶、陳其美の写真がある。戴が目隠しをし、山田が両手を広げて、その後ろに陳基美と5人の芸子さんが鬼ごっこをしている。山田、陳、戴は、気の許した仲のよい同士であったのであろう。

2011年9月17日土曜日

明治の和徳小学校



 千葉寿夫の「明治の小学校」を読みました。千葉先生は、朝陽橋たもとの今の鎌田屋煉瓦倉庫にあった千葉金商店の出で、弘前の学校史および郷土史の生き字引のような人でした。何度が講演を聞いた機会がありましたが、それこそ誰それの子が今はここに住んでいて、何をしているということまで何でも知っており、こういう人がいると図書館で何週間の探すようなことも聞くだけで一瞬でわかったと思います。

 明治7年に創立した弘前市立和徳小学校は、内の家内の出身校だけでなく、長女、次女もここに通っていましたので馴染み深い小学校です。この学校には開校以来の成績表など学校関係の資料がきれいに残っているため、明治、大正、昭和の小学校史を研究する先生方には有名な学校です。「明治の小学校」は主としてこの和徳小学校の資料を用いて研究したものですが、内容は千葉先生の教育論も随所におり込められ、おもしろい本となっています。例えば、明治初期、小学校に行く学生は主として士族と裕福な商人の子供に限られ、その中でも士族の子供が威張っていたので「お学校」と呼ばれていました。また学校運営は多少の政府の補助があったものの(10%以下)、基本的には生徒の授業料でまかなわれており、そのため、なかなか生徒が集まらなかったようです。そこで地区の有力者を学校掛という役職にさせ、脅しまがいのことをして、無理矢理小学校にいかせたようです。体育祭はそれこそ地区あげての大きな行事で、先生も気合いが入っていたようで、他校との対抗戦では、走っている子供の妨害をしたり、そのことが原因で先生同士の喧嘩さわぎがあったようです。熱い先生が多かったようです。

 この和徳小学校が最初どこにあったかというと、明治4年弘前絵図の和徳、御収納倉のところのようです。今の弘前第一中学の入口近くでしょう。「明治の小学校」では、「校舎 旧藩時代の弘前内には、津軽藩が所有する米倉が方々に建てられていたが、和徳小学はその米倉を無償に払い下げてもらい、玄関その他教員室、小使室を増築して校舎とした。このような旧藩時代の倉庫を校舎にした例は全国的にも多いと思う。建物の大きさは東西の長さが24間(約42m)巾4間(約8m)であった。改築のとき、倉庫両側の壁を切り取って、一間間隔に三尺(約1m)四方の紙障子を入れた。また倉庫内部を七つに区切って、それを教室とした。」となっています。明治四年弘前絵図では、和徳地区には和徳御収納倉と朝陽橋ふもとにも御収納倉二ヶ所、白米倉一ヶ所と二つの収納倉がありますが、おそらく前者のところに小学校ができたのでしょう。和徳小学校は明治31年に南横町の遊郭設置に伴い現在地に移転しましたが、旧小学校跡は地元では長い間、魚市場と言われていました。小学校移転に伴い、魚市場ができたとばかり思っていましたが、同書によれば、明治18年に校庭の内3191平方メートルを学校経費捻出のため25銭の賃料をもって弘前魚会社に貸し付けたようです。当時の規則では、魚市場ある地は健康に害する所として学校を建ててはいけないとされていたため、やむを得ず魚市場とせず、魚会社にしたようです。

 明治21年には学区民および教師の寄付により二階建て長さ二十四間、巾四間の西洋造の立派な校舎もできました。中でも学区民の自慢は玄関上が四層楼となっており、当時弘前では四階立ての建物がなかっただけに大評判になったようです。現在の和徳小学校も玄関上に同じような構造物があります。

 大正7年のイラスト図(下図)の魚市場のところをみると、旧米倉を利用した校舎や新校舎らしきものが描かれています。移転した後も、そのまま使われていた可能性があります。魚市場前には千葉寿夫先生の実家、千葉金商店が見えますし、明治四年弘前絵図ではこのあたりに水車があったようですし、和徳通りに面した空地は広小路と呼ばれていたようです。

2011年9月15日木曜日

八幡神社のおんぶお化け



 八幡神社の天狗の話を養生会の講演会でしたところ、出席者から八幡様には「おぼさりてぇ」の昔話があると聞いた。先日、弘前市立図書館で探していると「青森の昔話」という本に、この話が載っていたので少し省略して紹介する。

 「昔、八幡様の奥の院のかげの大杉の梢に「おぼさりてぇ」という化け物が住んでいた。夕方から夜中にかけて「おぼさりてぇ おぼさりてぇ」と叫んでいくので、町の人々はおそろしがっていた。ある意気地のない男が碁に負けて、その罰として「おぼさりてぇ」の正体を見に行くはめになった。 夜遅く子供を負う帯を一本もって、八幡様に出かけた。一の鳥居までくると、社殿の方で「おぼさりてぇ」とうなるような声がした。二の鳥居までくると前よりも高く聞こえた。男はおっかなくてぶるぶる震えた。三の鳥居までくるといよいよ高く聞こえる。男は魂もきえる思いで、八幡様を拝んで、「おぼさりてぇ」と叫ぶ声のする奥の院まで、足もしどろにやってきて、「それ程おぼさりてぇんだら おぼさらなが」と、ふるえ声で叫んで背中を向けた。すると杉の梢のあたりから、ガサガサと物音がして、のきりと背中におぼさったものがある。男は、持って行った帯でしかとおぼって、やっとの思いで家の庭先まで帰ってきて、「ここさおりろ」といったが庭におりない。茶の間にきて、「もうこごさおりろ」といったがおりない。奥の座敷へきてもおりない。床前さつれて行ったが、「こごさおりろ」と言ったらやっとおりた。男はあんまりおっかなくて、ふとんをかぶって寝てしまった。翌朝、男の妻が起きて床前を見ると、何か光るものがあるので「おどさま、おどさま、床前ネなんだが光物アえさね」というので男は刀をとって行ってみると、そこには大判小判が一杯だった。」
全く同じ話が、島根、岐阜、福島、山形など全国各地にある。

 この中に出てくる、三の鳥居は、熊野奥照神社手前のもので、また二の鳥居は八幡神社の入口にある鳥居であるが、一の鳥居は現在見当たらない。拝殿横の今は唐門に続く、横開きの扉のところに小さな三の鳥居があったのであろうか。さらに地主(じしゅ)堂というのが、唐門横にあったが、文字通りここ一帯の氏神様を祀ったものか、京都の地主神社の末社か不明である。御吉兆場というは、縁起のよいとされる鶉(うずら)をここで飼っていた。

 神楽殿横当たりには「高林 昔、天狗住みし」となっているが、上記昔話の「おぼさりてぇ」妖怪とは別物の天狗がいたようだ。ばくち打ちと天狗にまつわる昔話は大円寺に見られるが、未だ八幡神社の天狗についての話は知らない。一の鳥居から八幡神社までは200、300mあるが、江戸時代は比較的広い参道で、左右には最勝院はじめ大きな塔頭が並んでいたが、夜ともなると、長い塀が続き、話の通り寂しい通りであったろう。今でこそ夜でも明るいが、随分昔宮崎医科大学に勤務していた時、官舎のアパートから外に出ると、月が出ている時はまだしも、月が出ていない夜など、自分の足元も見えない暗さで、近所のビデオ屋に行くのも怖い思いをした。

*明治二年弘前絵図は、紀伊国屋書店のみで売っていますが、3か月でようやく60冊売れただけです。インターネット、医院での販売が30冊、計90冊が全販売数で、この前、紀伊国屋に納入した20冊と手元にある15冊で、販売終了となります。もう少しです。再販はしませんので、ご購入希望者は早めにご連絡ください。

2011年9月11日日曜日

和徳小学校の藤岡紫朗、忠仁


 こうしたブログや本を出していると、さまざまな方からメールやお手紙を頂戴する。その多くは自分の先祖についての情報を教えてほしいとものだが、残念ながらあまりお役に立っていない。先だっても、北海道に住む方から、メールをいただき自分の先祖が和徳に住んでいたということで、色々と調べたが、これといった情報も見いだせず、申し訳なかった。

 その折、たまたま私の長女、次女が和徳小学校に行っていた関係で、「和徳小学校百二十年記念誌」(弘前市立和徳小学校創立120周年記念事業協賛会 平成6年)という小冊が家にあった。この本には創立以来の全卒業生の氏名が載っており、上記の方の先祖の名前もそこに見いだすことができた。それ以外にも誰かいないかとざっと見ていると、明治21年度卒業のところに「藤岡紫郎」の名前が見つかった。以前のブログでも紹介した戦前アメリカで活躍したジャーナリスト「藤岡紫朗」に間違いない。

 ところが藤岡は明治12年生まれで、和徳小学校卒業当時の年齢は、何と9歳ということになる。当時の尋常小学校(4年)は数えの6歳、満で5歳からも入学できたようなので、早ければ9歳に卒業して、高等小学校2年間、その後、弘前中学校に進学したのであろう。弘前中学は最初青森市にでき、明治22年に弘前に移るが、藤岡はその次の年の明治23年に入学したのであろう。

 順調にいけば、弘前中学を卒業するのは明治27年か28年、15,6歳の時で、藤岡の履歴によれば、その後犬養毅のところに書生となり、早稲田大学に進むも、17歳のころにアメリカに渡米する。早稲田大学に1、2年ほど行ってから渡米したことになる。

 藤岡と犬養毅との接点は、おそらく郷土の先輩、陸羯南であったであろう。犬養と陸は同じジャーナリストであり、また中国への関心も高く、東亜同門会の創立にも絡んでおり、知己であった。郷土の秀才の上京への願いをかなえるべく、犬養に斡旋したのであろう。

 さらに名簿を調べていくと、明治32年度卒業生に藤岡健治、明治35年度卒業生に藤岡さだ、明治38年卒業生に藤岡忠仁の名前が見られる。いずれも兄弟であろう。藤岡紫朗とは全く関係はなさそうである。このうち、藤岡忠仁は、1896年、明治29年生まれ、1919年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、戦前は京城帝国大学理工学部応用化学科主任教授、戦後は慶應義塾大学工学部応用化学科主任教授を務めた。戦後の慶應義塾大学工学部の復興に尽力した人物である。
(http://echem.applc.keio.ac.jp/history/fujioka.html)

 この藤岡忠仁は和徳小学校始まって以来の天才で、特に算数の才能はずば抜けており、その担任教師が自分の生徒がなぜこれほど勉強ができるか、文にして著したほどである。指物師の下級の家に生まれたが、その才をおしみ、教育費を出してくれるものがおり、高等小学校、弘前中学を卒業後は援助を断り、苦労して一高、東大と進んだ。

 弘前市立朝陽小学校、時敏小学校は、弘前の多くの偉人を輩出しているところで、また大成小学校も多くの軍人がここを卒業している。一方、和徳小学校は商家、農家が多かったことから、残念ながらこれといった人物はいなかった。今回、少なくとも藤岡紫朗、藤岡忠仁の二人の人物が卒業したことがわかった。