2011年11月30日水曜日

明治二年弘前絵図 「此母」と「鼠尾」



 明治二年絵図は、名前はわからないが、1人の地図職人(こういう職があるかわからいないが)によって書かれている。驚くことに1000人近い屋敷主名、施設名を一字の間違いもない。職人の仕事と言えばそれまでだが、我々には絶対にできないことである。メモを横に置きながら、書き写しても必ず書き間違いは起こるもので、鉛筆なら消しゴムで、ペンなら修正液で消すが、この地図には修正された箇所は一切ない。

 地図製作は明治2年ということで、手書きではあるが、ほぼ現代の楷書に近い書き方で書かれているため、古文書には門外漢の私でも内容はだいたいわかる。ただ手書きのため書き手の癖があり、読みにくいところがある。

 例えば、上の図は、森町のある一画であるが、時鐘所の左隣の笹森形右エ門(右衛門)は何とか、読めるが、深堀寅吉の左隣の野呂□母がわからない。光のようにも見えるが、インターネット検索でも光母という名前はなく、違うようである。ここから2時間、漢和辞書とコンピュータで格闘、ようやく「此母」という字にたどり着いた。俗字というよりは癖字に近いものであろう。こういったケースは他にも何ヶ所あったが、何とか解決できたが、ただひとつ半年以上格闘してもわからない文字があった。

 弘前城北の丸、現在のレクリエーション広場にあった作業所には、苫縄(とめなわ)、簀垂(すだれ)、□尾、網藁(あみわら)諸品入所と書かれているが、この□尾が全く見当がつかない。この作業所の上には弘前藩名物の兼平石の製作所などもあり、何らかの物産品をここで製作していたようだ。□尾、能の字に似ているが、能尾に当てはまる言葉はない。漢和辞典やくずし字辞典をあたったり、古文書に詳しい知人にも聞いて廻ったが、一向に解決しない。

 何となく、奥歯に挟まったというか、胸の支えというか、気になってしょうがない。そこで以前、メールをいただいた「新明解現代漢和辞典」の著者で、この道の権威の実践女子大学の影山教授に思い切って質問してみた。何と読むのでしょうかと。我ながらずいぶん大胆で、先生には全く失礼な質問である。ところが影山先生は実におやさしい方で、わざわざ共著者の伊藤文生先生にも聞いていただき、後日お返事をいただいた。大変感謝している。長年、頭の中に澱のように貯まっていたものがすっかり洗い流された気分で、本当にうれしい。

 その答えは「鼠尾」とのことであった。鼠の俗字、「鼡」をさらに変形させたのであろう。これではいくら自分で調べても絶対にわからなかったと思う。

 さて鼠尾とは何であろうか。ここから再びインターネットでの調査となる。ひとつは文字通りのネズミの尻尾で、筆に使われることもあるようだ。おそらく「ソビ」と読むのであろう。もうひとつは鼠尾草(ネズオソウ)、イネ科の植物で、穂がネズミの尾に似ていることからこういった名前が付けられた。ミソハギとも呼ばれ、紫色のきれいな花が咲き、盆花として使われた。下痢止めとして薬にも使われたようだが、茎、葉などの加工して産物を作るというものではない。

 というと鼠の尾を使った筆となるが、ネズミの筆は冬に長くなった体毛、ひげを使って作られる物で、さすがに毛の短い尾で筆を作ることはできない。長い尾を持つ動物として、リスをイメージするひとも多いと思うが、リスは漢字では栗鼠と書く。またイタチは鼬鼠、ムササビは鼯鼠とも書く。あるいはテンもこれに含めて、こういった動物の尾を使って、この作業場で筆を作っていたのであろうか。

 城内に作業所があるところから、動物の尾を筆の原料になるようにしてから出荷したのか、それとも津軽塗などを施した献上品としての贅沢な津軽塗筆をここで作っていた可能性もある。北の丸、護国神社あたりでは幕府への献上品の鷹を飼育、訓練していたようだが、同様に作業所での生産物は、日用品に供給されたような普及品ではなく、藩外へ販売する高級品あるいは、献上品をここで作っていたかもしれない。明治4年の絵図にも北の丸の作業所の詳細は載っておらず、この明治二年絵図は幕末期の弘前藩の物産品を知る上でも貴重な一次資料となろう。今後の研究が待たれる。

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