2009年11月29日日曜日

弘前偉人生誕地マップ


より大きな地図で 弘前偉人生誕地 を表示

 これまでこのブログで紹介してきた弘前の偉人の生誕地マップを作りましたので、紹介します。生誕当時の住所と今の町割りが違うため、正確ではない場合もありますが、お許しください。弘前市内は戦争による空襲がありませんでしたので、基本的には明治以降、旧市内は町割りそのものはたいして変わっていませんが、それでも番地は変わっていることが多く、文献上の生誕地の住所と今の地図上の番地が少し違うことが多いようです。最終的には他の資料をあたりながら、正確な番地を調べなくてはいけませんが、面倒なので、ここでのマップは大体この当たりと考えてください。例えば詩人の福士幸次郎の生誕地は弘前市本町5丁目あるいは59番地、通称橡の木となっています。橡の木というと当時の遊郭があったところと思いますが、現在の59番地とは一致しません。同様に詩人一戸謙三も本町71番地と言われていますが、現住所ははっきりしません。また本町というと日本貝類の先駆者、岩川友足太郎もここの生まれですが、今後調べたいと思います。本町も狭い範囲で多くの偉人が出ています。

 在府町などはブログ用の写真を撮りに行くことがよくありますが、住宅地なので不審者と思われ、在府町のお住まいの方々からずいぶん警戒されたこともあります。よそ者が、勝手に自分の家の写真を撮るのは、住んでいるひとからすれば、不愉快と思いますので、住民の方に会った場合は一言許可を得た方がよいでしょう。一方、ここに示した生誕地の場所、近くに今住んでいる人でも、この場所が弘前の偉人の生誕地とは全く知らないこともあります。現在、生誕地の標識があるのは、在府町の陸羯南、西川岸町の一戸兵衛大将と船沢の前田光世のみです。できれば、観光客のためにももう少し、標識を立ててもらいところです。この前、福島県の郡山に行きましたが、かなり金をかけた説明標識がいたるところにありました。弘前でも町々に町名の由来を説明した標識がありますが、観光客には好評で、ずいぶん熱心に見ているひとを多く見かけます。

 話は変わりますが、google mapは非常に優れたもので、よく活用しています。ただここで紹介したマップのような場合ではどうしても番号がついたアイコンを使いたいのですが、これが結構面倒です。マイアイコンというものを作るのですが、こういったアイコンを集めたHPがあり、そこからマイアイコンに追加して使います。ところがどうしたものか、貼付けても保存、印刷ができません。グーグルらしからぬサービスです。ついでに腹の立つこと。このブログは新型のmacbook-proで書いています。家で使っているi-bookが7年になり、バッテリーが30分も持たないので、さすがにここらが買い替え時と考え、新しいmac-bookを買いました。画面が非常にきれいになり満足していますが、コネクターが全く異なり、例えばファイヤワイヤーやプロジェクターにつなぐコネクターも小さくなり、前のが合いません(病院の2年前の買った一世代前のMacbookさえも合いません)。またマイクロソフトのオフィースもインテルに変わり、書き込みができず、最新のオフィースを買うはめになりました。マックの場合、スカジーからUSB、OS9からOS10,パワーPCからインテルと改良の度に、ユーザーは困惑させられますが、それ以上により魅力的なものになっているのがすごいところです。

2009年11月28日土曜日

矯正歯科卒後教育



 日本の卒後研修、それも国立大学歯学部の矯正歯科について考える。

10年ほど前だったか、国立大学の歯学部でも大学院大学化がなされた。大学卒業後は1年間の卒後研修を経た後、医局に入局するわけだが、その際、大学院の入学を勧められる。大学では毎年大学院数の定員があり、それにどれだけ充足しているかで大学が評価されるからだ。矯正歯科でも入局希望者はほとんど大学院入学を条件づけられるため、研修医の1年に加えて、大学院の4年を終了して初めて医局に入局できる。

 私がいたころは、当然研修医制度もなく、大学卒業後は医員として医局にすぐに残る。給料は少ないがなんとか自活できるため、新人研修や研究の手伝いをしながら、臨床を学ぶ。大学によって違うが、だいたい2年くらいの新人研修が行われ、鹿児島大学では当時、グループ診療、グループ全体で患者をみる、ことが行われており、すべての患者の検査と治療をこの新人が行う。当然、外来長およびグループ長の指導を受けながらであるが。1年間に数百人の患者を見ることになるため、ほとんどの症例をこの期間に体験できる。一方、このグループ診療の欠点は、患者の治療を断片的にみるため、ひとりの患者を最初から最後まで見ることができない。認定医の取得のために、私が外来長のときに、担当医制度を導入した。それでも最初の2年間の研修期間中には50人程度の患者は配当できたし、私自身もやめていった先輩の引き継ぎ患者も含めて200人程度も担当していた。

 当時は、医員と大学院生は半分くらいであったが、それでも同じシステムで両者を教育するのは大変難しかった。大学院生では4年で研究を終了しないといけないため、かなり研究に時間をさかれ、臨床には手が回らない状況であった。一方、医員には、医局の雑用が押し付けられ、また研究費も大学院生に重点的に割かれるため、なかなかできない。私のような叩き上げで大学院も出ていない者にとっては、実に腹が立つことが多かった。というのも大学院を出て、いよいよ雑用をしてもらおうという時期にやめる人も多く、そうかといって、大学院卒業した時点では、その期間4年間を医員として過ごしたひとでは、臨床能力にずいぶん差があるからだ。海軍士官学校出たてのパイロットと叩き上げのパイロットの関係に近い。

 今や矯正歯科に入るひとはすべて大学院生であるため、新人教育も統一されてきていると思うが、それでも研究と臨床を同時にするのは難しく、4年いても臨床のみ2年に足りないかもしれない。また大量の大学院生も受け入れるため、研究テーマも種が尽きてしまい、同じようなテーマのものが多くなってしまう。最近では、大学院の論文も英語で英文誌に投稿されることが求められるの、ますます基礎のそれも結果のだいたいわかったものが多くなってきている。これ自体は研究者の基本を学ぶ上では、重要であるが、もともと歯学部の大学院生は臨床を学ぶためにはいったので、こういった基礎研究には興味がなく、博士号をとると、その分野の研究からおさらばするひとも多い。また理学部などの他の理系大学院に比べると、歯科ではただ一編の研究、論文で博士号が取得でき、その意味でもおそまつと言える。
 アメリカ、ヨーロッパでも、医学、歯学は臨床学であり、まず臨床を学ぶのが中心となる。将来、大学教授を目指すものだけが、ある程度臨床をマスターした後、興味のあるテーマを見つけてPh-Dの資格を目指す。そのため欧米の研究者で日本の博士号に相当するPh-Dを持つものはほとんどいない。彼らからすれば、外科医になぜ組織培養の研究がいるのかということだ。一方、日本では明治以来、医学部では博士号の権威は高く、大学は講師以上では博士号がないとなれない、病院でも部長には博士号がないとダメ、給料も違った。
 ところがここ数年、日本でも博士号より、専門医を重視した考えが増え、今や医学部では大学院にいくよりは、より色々な病院を廻り、臨床能力を高め、専門医を取得するのを目指すひとが増えてきた。患者にとっても、医者にとっても、病院にとっても組織培養の専門家よりは心臓外科の専門医の方が役立つからである。当たり前のことである。

 こういった状況であるなら、大学も思い切って臨床中心の卒後教育を考える必要があろうが、大学教授自体が旧来の大学院を出た博士号所持者なので、なかなか変革ができないのが現状であろう。外科系は、体力的には30、40歳台が最も吸収が早く、この時期、4年の大学院教育は時間の無駄なような気がする。矯正歯科についても、大学6年、研修医1年、大学院4年の計11年を経て、初めて専門医教育のスタートにたてる。あまりにも廻り道ではないであろうか。こと臨床について言えば、アメリカの3年の専門医教育のレベルはおそらく大学院卒業後5年くらいのレベルであり。アメリカで3年で行われていることが、日本では実に10年かかることになる。さらにアメリカでは一般大学卒業後、一旦就職し、金をため、医学部に入り、卒業後は一般医に勤務して、金をため、今度が専門医になるということもよくあり、同じ10年かかったとしても、臨床医としては人間的な成熟度では格段の差がでる。

 神戸大学医学部の整形外科からIPS細胞の先駆者となった山中教授のようなひとも出ているため、医歯学での基礎を中心とした大学院教育を一概に否定はできないが、時代の流れから、臨床を主体とした卒後教育のあり方が問われている。特に矯正歯科の分野ではそもそも見る患者がいないという抜本的な問題を有しており、欧米のような料金を半分にするといった仕組みを作らないと、矯正歯科の専門医の能力は低下していき、専門性自体が無意味のものになると思われる。

2009年11月21日土曜日

山田兄弟22



 学会で福岡に行った折に、書店で「革命をプロデュースした日本人」(小坂文乃著 講談社)を買った。孫文の辛亥革命を金銭的に助けた梅屋庄吉の評伝である。これまで梅屋のことは資料が少なく、あまり知られていなかった。これは梅屋の遺したノートに「ワレ中国革命ニ関シテ成セルハ 孫文トノ盟約ニテ成セルナリ。コレニ関係スル日記、手紙ナド一切口外シテハナラズ」と記し、自分の行ったことが公になることで迷惑になる人を慮ってのことであったようだ。そのため梅屋の遺した資料はこれまであまり紹介されることがなく、その事跡もはっきりしていなかった。死んでもう100年も立つのであるから、日中友好の礎となった先祖を紹介しようと書いたのが本書である。

 これを読むと、梅屋は当方もない額、本書では今の金額で一兆円を超える額を革命に援助したとしているが、これはやや大げさにしても、相当な額を革命に寄付したようだ。それも全くの見返りを期待せず。ここらに明治の人の偉大さがある。ひとが誰かを援助する場合、何らかの見返りを、仕事上あるいは、単に名誉かもしれないが、求めるのが普通であるが、梅屋は金には几帳面な性格でありながら、孫文の革命に同調し、中国人民に幸福のために、自分の私財を投げ打った。

 「醇なる日本人 孫文革命と山田良政・純三郎」(結束博治著 プレジデント社)では、梅屋庄吉、トク夫妻は山田兄弟と革命の同志ではあるが、直接的なかかわり合いがないとしているが、小坂の本によれば、梅屋夫妻と山田純三郎の接点はかなりある。まず第一に同書の載せられている大正3年松本楼で開かれた日華同志懇親会の写真にも山田純三郎の姿が見えるし、1913年の孫文が日本滞在時の写真(p154)にも同様に梅屋と純三郎は一緒に写っている。さらに梅屋夫妻というと孫文と宋慶齢との結婚式を斡旋したとして有名だが、その結婚には孫文の中国人同志の多くは反対して出席しなかったが(孫文はそれまでの妻を離婚したので)、純三郎は結婚式には出席していることから、当然梅屋とも面識があったのであろう。1913年に孫文は第二革命に失敗して日本に亡命するが、その隠れ家として頭山満が東京赤坂雲南坂の海妻猪勇彦宅に匿ったとされているが、本書では大久保百人町の梅屋の自宅にも長期間いたようである。純三郎は当時、孫文としょっちゅう会って第三革命の指示を受けていたようであり、孫文が梅屋の所にいたならそちらで会ったはずである。そういったことから孫文の日本亡命時代には、梅屋夫妻と純三郎はかなりの交誼があったものと思われる。

 1916年の宋慶齢から梅屋の妻トク宛の手紙(p209)には「私たち(孫文夫妻)はしばらく上海にいます。しかし、私宛のお便りは、これまで同様、山田純三郎先生気付で書いてください。大事な事や私の夫の名前は書かないでください。陳氏(陳其美)が袁のスパイに殺されたには山田先生のお宅でのことでしたから。」となっており、孫文や宋慶齢との連絡、革命資金の授与が山田純三郎を介して行っていたことがわかるし、陳其美の暗殺には純三郎宅での内通を匂わせている。

 梅屋は晩年、孫文の像を寄付するため1929年に中国に渡るが、上海に出迎えにきたのが、山田純三郎であり、ここでの2年の滞在中にも何度か会っていると思われるし、また梅屋死後、妻トクは娘千世子一家と終戦まで上海に住んでいたことからここでも純三郎との交流があったに違いない。

 こうしてみると、梅屋夫妻と山田純三郎の接点は多く、著者の祖母千世子が生きていればもっと詳しい交流の実像がわかっただろうと思われた。

2009年11月20日金曜日

第68回日本矯正歯科学会大会



 11月15日から19日まで日本矯正歯科学会大会参加のため、福岡に行ってきました。学会自体は11月17日と18日でしたが、今回は専門医更新試験を受けるため、長期の出張となりました。

 日本矯正歯科学会の専門医制度は、試験に合格すれば自動的に更新されるものではなく、5年ごとに更新試験を受けることになっています。ジャンルを問わない3症例(保定終了2年以上)を提出して、合否を検討します。一応、今年度から更新受付を始め、今年は1症例の提出でもよいのですが、平成23年度までには3症例を提出して合格しなければ、資格剥奪となります。他の専門医制度では学会に参加し、ポイントを集めれば更新できるのに対して、きびしいものと言えます。幸い3症例提出して合格しましたので、しばらく安心です。今回は2006.6から1年間に終了した症例の中から選ばなくてはいけませんでしたので、3症例といっても準備は結構大変でした。患者数もこれからは減っていき、更新も難しくなってくるでしょう。

 学会自体は、やや停滞した感じがしました。参加者は以前に比べて増えたようですが、研究内容もあまり新鮮みがなく、我々臨床医からすれば、それほど臨床に使えるものはありません。大学の教官自体が学位を基礎でとったせいか、大学の研究自体も臨床とは直接関係ない、研究のために研究といったものが多く、なおかつ理学部などの基礎から見れば陳腐な内容です。いつも思うのですが、歯学部という専門学校のようなものが、医学部や理学部のような大学に背伸びして見栄を張っているような気がします。基礎をやるなら、他学部の基礎講座に行き、そこで研究をして基礎の学会に出すべきだし、歯学部の教官から指導を受けるより、よほど効率的ないい仕事ができると思います。福岡というとかって高濱先生という大変ユニークな教授が九州大学にいました。機能、遺伝と咬合、顎骨というテーマで大変興味深い研究をされ、その後も中嶋教授が継承されています。一度、高濱先生の指しゃぶりの講義があり、コレクションしている何百枚写真を提示され、指しゃぶりの実際、手の指のみならず、足指から、アクロバティックな指しゃぶり法など教授いただいき、驚いたことを思い出します。こういった不正咬合はなぜ起こるのかといった根本的な問いに対する研究は以前多かったのですが、最近ではほとんどありません。

 矯正学会というと、業者展示も大掛かりですが、今回は会場が離れていたため、行ったり来たりが大変でした。昔は、この2日間で年間の売り上げの半分を稼いでいたため、熱気がありましたが、今では事前にほとんどファックスやメールで注文するため、熱気はかなり薄くなりました。業者の人も顔なじみが多いのですが、転職が多く、それも他の矯正会社に移るため、誰がどこの会社かしばしば混乱します。この商売は覚える商品が多すぎて、一人前に成るためには時間がかかりますし、矯正治療自体もある程度知識が必要なため、どうしても同じ分野の会社に務めるのでしょう。私自身はこういった矯正材料の業者も患者さんの治療にはかかせない存在だと思いますし、より安全でよい商品を開発してくれることで患者さんにとっても助かります。

 学会も年に一度、友人にあう機会ですが、今回は遠方のためか、学会場が広いためか、あまり会えませんでした。

2009年11月8日日曜日

山田純三郎没後50年墓前祭



 本日、11月8日の午後1時から弘前市新寺町の貞昌寺にて山田純三郎の没後50周忌墓前祭が行われた。秋日和の暖かい天気の中、東京から3名、青森から9名の、計12名の参加者があり、ささやかではあるが、思いのこもった墓前祭が行うことができた。霊前には今回の墓前祭に合わせたように発刊されたちくま文庫「孫文の辛亥革命を助けた日本人」(保阪正康著)を供えた。感無量である。

 東京のTさんの弘前、つがるへの思い入れは強く、2000年には山田良政没後100年の墓前祭もHさんのご尽力で行われ、今回もすべてのお膳立てをしていただき、Tさんには本当に感謝する。

 山田純三郎は1960年2月18日に84歳の生涯を全うして東京で死去したため、その墓は東京にあるが、今回こういった形で早めではあるが、生まれ故郷の弘前で何とか50周忌をできたことは、供養にもなったろうし、弘前市民としての面目も立った。おそらく来年も弘前市としては何の行事もないため、次の記念事業をするとなると75年、100年記念事業と随分先になる。今回弘前で何もなければ本当に恥ずかしいことであった。

 墓前祭終了後の座談会では、前日台湾の駐日大使の相当する人がやってきたこと、また中国政府の関係者もくる予定であったことが報告された。台湾、中国間の関係は近年急速に接近してきたが、それでも台湾政府と中国政府が日本で会う機会は、中国革命に参加し、孫文の忠実な同志の碑がある、ここ弘前以外あまりないであろう。

 その座談会では、司馬遼太郎の「津軽には陸羯南を研究するひとはいない」という批判に対して、地元弘前の有志が発奮して、各種の陸羯南の紹介がなされ、ようやくここ数年で陸羯南の認知度が高まり、市民権が得られたが、山田兄弟についてはまだまだだとされた。全く同感である。弘前の友人に聞いても、山田兄弟のことを知っているひとはほとんどいないのが現状である。台湾からきた患者さんのお父さんのSさんも、台湾では宮崎兄弟(民蔵と滔天)については非常によく知られているが、山田兄弟ことを知るひとは少ないと言っていた。当日配布された資料(陸奥新報?)には津軽奇人こ物語 山田純三郎の巻で、中国問題の専門家Sさんの言葉として「滔天は文章が巧く、浪曲の名人の桃中軒雲右エ門と組んで有名だが実際は何もしていない。上海の山田純三郎宅に泊まり、毎日のように酒ばかり飲んでいた」と書かれている。これは宮崎滔天のあまりにこき下ろした言い草で、中国革命に対する滔天の貢献は非常に大きい。ただ中国革命を通じて実際に参加して、孫文亡き後も、孫文の遺志を受け継ぎ、革命精神を継承したのは山田良政であり、純三郎である。宮崎滔天がよく知られているというより、むしろその功績に比べて山田兄弟があまりにも評価が低いのである。これは山田兄弟自身が名を後世に残そうとする気持ちが全くなかったことによるであろうし、地元津軽、弘前のひとがあまりに冷たかったことにもよる。存外、地元弘前より東京、あるいは台湾、中国のひとの方が興味があるようで、この貞昌寺の碑も案内するとびっくりするようである。

 このブログではこういった弘前の偉人を紹介してきた。これらのひとに共通することは、皆名誉も金も求めず、義のためにその生涯を捧げた。笹森儀助は沖縄のひとのために、山田兄弟は中国のひとのために、珍田捨巳は海外日本人移住者のために、津軽とは全くかけ離れた世界の思いを馳せ、奮闘してきた。そこには津軽という風土に根ざした共通の精神がある。青森というと田舎と若い人は劣等感を抱くかもしれないが、100年前に郷土の先輩は今よりもっと僻地にありながら、視野の広い生き様をしてきた。自信を持つべきで、是非ともこの津軽から、弘前から、できれば東奥義塾から世界に羽ばたく人物を将来でてほしいと切に願う。

2009年11月4日水曜日

どこの歯科医院がいいのか



 どこの歯医者さんがいいのかとよく患者さんから聞かれます。当然、私ども矯正歯科医の立場、紹介していただくという立場からは、どこがいいとは明言することはできませんが、内心ではここはやめた方がいいというところも実際にはあります。

 矯正歯科というのは、基本的には自分ところで一般歯科はやっていませんので、虫歯の治療や抜歯はすべて紹介して治してもらうことになりますし、最初の検査でこれまでの治療の善し悪しを判断します。私の場合は、小児歯科に3年いました関係から、子どもの虫歯治療については少しうるさい気がします。

 歯科というのは、医科と違い、かなり職人的な要素があります。どれだけ細かく、きちんとした仕事をするか、それも現行の保険制度ではどんなにきちんと治療しても雑に治療してももらえるお金を同じですので、治療に対する誠意はこういった倫理観、職人魂に依存します。ところが開業医ではサービス業の要素もありますので、かなりきちんとした治療がなされても愛想がないところは、人気がないといった現象がおこります。口の中をみても、それはきちんとした治療が保険でなされ、レントゲン写真をみても見事な根っこの治療がなされていて、感心して患者さんに聞くと、ここは無愛想だから今は違ったところに行っているという患者さんも多いようです。

 例えば、前歯にレジンという充填物を詰める時、色が合わなかったり、つめたところに段差がでることがあります。職人の先生は気に入らないからもう一度再治療するわけですが、患者さんからすればまた痛い思いもするでしょうし、時間もかかり、こういったところはもう行かなくなります。また根っこの治療、これは最も歯科医の力量を示すものですが、きちんとした治療をしようと思うと、大変時間もかかりますし、リーマと呼ばれる針のようなもので長時間、根っこをかき回されるのは苦痛でしょう。ただこのあたりが難しいのですが、ベテランの先生は失敗なく、すぐにできても、新米の先生では失敗ばかりして、時間もかかります。だから丁寧で時間を掛けるというのも、必ずしもいいとは言えないのです。

 私が歯科医の技量を評価する点は、ひとつはきちんとした定期検査をしているかという点です。現在の歯科治療では、とくに歯周病の治療には3か月ないし6か月ないしの定期的なフォローアップは必須であり、これをきちんとしているのが重要です。次に根っこの治療の良否です。根っこの治療はブラインドで治療するためかなり難しい技術が必要です。ただ外からは見えないことから、手を抜こうと思えばいくらででも抜けるところです。根っこの先まできちんと充填されているかがポイントです。術後のレントゲン写真をきちんと見せてくれるところ、痛くなくても定期的にレントゲンを撮りチェックするところがいいでしょう。被せたり、つめたりするのを評価するのは難しいのですが、あまり歯科衛生士や歯科助手がやっているとろころは感心しません。確かに先生よりベテランの助手の方がうまいかもしれませんが、やはり責任の所在となると先生が処置すべきだと考えています。さらに転住した場合、これまでの治療経過を資料とともに渡してくれ、転住先の先生を紹介してくれる先生がいれば、これは名医です(矯正歯科ではこれは当たり前ですが、一般歯科では非常にめずらしいと思います)。

 最近では、根っこの治療に自信がないので、歯を抜いてインプラントをするといった先生もいます。こういった先生と話すと、根っこの治療より統計的なデータからインプラントの方が予後がいいといった論を展開します。確かにその先生がきちんとした根っこの治療を行い、20年以上その患者の経過をみていき、一方、インプラントでの治療でも20年の予後をみて、両者の比較からそういう結論に達したのであれば、説得力があります。開業して5年や10年の先生でこういったこと言うのはおかしなことです。

 職人というのは、自分の仕事に誇りをもつと同時に、できないことはしません。私には自信がないし、よそでやればと言うか、あるいは紹介するものです。患者さんのいいなりにならないし、患者さんに問題があれば怒ります。こういった態度は、患者さんに誤解を招くかもしれませんが、私はこういった職人気質の歯科医が好きです。こういった歯医者さんははでな宣伝もしませんので探しにくいかもしれませんが、きっとすぐそばにいると思います。

2009年11月1日日曜日

自衛隊次期戦闘機



 飛行機ファンにとって、いま最も熱い話題は自衛隊の次期戦闘機(FX)のことでしょう。当初は、何がなんでもF22ラプターだと言っていましたが、どうも無理なようで最近ではF4ファントムをもう少し使って次期戦闘機の決定を先送りするようです。

 F22ラプターはあまりに性能がすごすぎて(キラーレーシオが1:100、つまり100回対戦しても1機しかやられない)、開発国のアメリカですら、政治的なリスクが大きく、持て余しぎみの機体です。そのステルス性能はほぼ1cm、虫くらいの大きさにしかレーダーには写らないようで、空戦技能に自信を持っていた自衛隊のパイロットでさえ、実戦訓練では「F15でF22の演習相手を務めるのは極めて不愉快になる。なぜなら戦闘態勢に入っても見つけることはできず、何も撃つことなく、突然「お前はすでに死んでいる」と言われるのだから」と、そのすごさに驚嘆しています。

 こういった機体だけに、日本への譲渡については、中国との関係悪化を危惧するアメリカ政府からは反対され、すでに生産自体も打ち切ったようです。中国からすれば、日本がF22をもつことは、大変な脅威で、核兵器に匹敵するものと見られています。現在、開発中の空母にしても、日本がF22と既存のF2を持つことで、いつでも沈められる存在になってしまうからです。

 FXを巡る日米の駆け引きについては、「蘇る零戦 国産戦闘機VS F22の攻防」(新潮社 春原剛)にくわしく書かれています。アメリカが日本を守るための3つのタブーというのがあり、まず筆頭は核兵器、二番目に航空母艦、三番目にスパイ衛星だそうです。北朝鮮のミサイル問題に対処するとして三番目のタブーは無くなっていますし、今後作られるDDH22と呼ばれる護衛艦はまさしくヘリコプター空母で、この2番目のタブーも冒していることになります。さすがに核兵器の保有はあり得ないと思いますが、原子力潜水艦は保有を望んでいるようです。

 この書には、現在開発中の国産戦闘機「心神」のことが書かれています。そのステルス性能については、あまり知られていませんが、ほぼサッカーボール大で、F22に比べるとかなり落ちますし、次期戦闘機候補のF35の4cm大に比べても見劣りします。4.5世代と言われるヨーロッパーのタイフーンでさえ、1m大であることを考えると、これから開発するものとしてはお粗末な気がします。ただステルス性能はエアーインテークの形状が原因であることがわかっているようで、強力なエンジンを搭載することで解決できるようです。著者は自前の国産戦闘機の開発を願いながら、次の第6世代、これは変形するステルスの無人機というものらしいが、その日米共同開発を提唱しています。

 防衛費というのは、生命保険料と同じ性格を有します。何もなければ、掛けたお金を全く無駄になりますが、そうかといって何も掛けないと万一の時に困ってしまいます。財政が豊かでない折、どれくらい掛けるか、それも戦闘機は寿命が30年はあるので、30年後を見越した判断が求められます。とくに隣国中国が金に任せて大幅な軍国主義に走っており、一方、アメリカは中国を警戒しながらも、経済面では無視できない国になり、日本への安全保障は軽視されてきています。また中国政府のJRのリニアカーへの執着は、主として航空母艦へのカタパルトへの転用を考慮したものであり、民間企業も知らないうちに、安全保障に関わることになります。

 こと防衛費については、これまで比較的正しい判断をしてきたと思います。ラプター20機とF35を50機、それと空母と原子力潜水艦、これが防衛関係者の理想的な防衛装備だそうですが、これだけで数兆円以上の予算が必要で、例え見栄で最新兵器をもっても、韓国のように金がなく、中途半端な戦力しかないのでは困ります(独島級揚陸艦 金がなく1隻しか揃えられず、搭載ヘリコプターやホーバクラフトも買えない F15K 安く買ったせいか中古部品が使われ、故障しても部品がない)。軍事力のパワーバランスはギリシャローマの時代から外交の要であり、難しい状況に民主党政権も立たされています。。